文豪と手賀沼と河童

「名だたる文豪がこの景色を見たと思うと、素敵に思えてくるね。例え沼だとしても」

「昔は綺麗だったから……!」


 昨日の雨で少し水かさが増したらしい沼の水辺で、河童がひかえめに咆哮ほうこうする。その後は波立つ水面が岸にぶつかりちゃぷちゃぷと音を立てるだけだ。不意に、カイツブリがピッと笛のような声で鳴く。

 河童も戦後生まれだから強くは言えない。それどころか僕の口から飛び出した下賤な言葉に少し笑っている。


 千葉県我孫子あびこ市にある手賀沼てがぬまは、高度経済成長期の宅地開発とその生活排水による汚染を背景に、長年、“日本一汚い湖沼”の称号をほしいままにしていた。同じく千葉県の印旛沼いんばぬまとワースト・ワンツーを決めたことさえある。千葉の沼はどんだけきったねーんだよ。


 昔は水が透きとおり底が見えたというが、とてもじゃないが信じられない。近年、周辺自治体の努力によって最下位は脱したものの、沼の水はどんよりと緑色に濁っている。

 しかし、今は日が傾き始めた午後。光を反射した水面がまるで黄金の絨毯のように輝く。かつて文豪が愛した風光明媚な光景が、わずかに片鱗を覗かせたように思えた。


「この景色を見ながら小説を書いてみたいな」

「どんな?」

「……。……、怪談?」

「ええー、怖いやつ?」


 迷いに迷って出した答えに、河童は難色を示す。妖怪でも怖いものは怖いらしい。

 ここで恰好良く、「近代の文筆家をモデルにした時代小説を壮大なスケールで書きたい」とか言えたのなら良かったのに。冗談めかしてしまうから、僕はいつまでたっても書きたいものを書ききれないまま苦悩に喘いでいるのだろう。


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