東海道を征け
知枝が目覚めてから五日後、桐の一葉が白露に摘まれて落ちる朝にイギリス商館の江戸参府は再出発を迎える。秋雲一つ無い清々しい空だが、傷を抱えたままの知枝の表情は少し暗い。
「大丈夫か知枝殿、顔色良くないですよ」
「血ぃ足りひん……、獣肉もっと食わな……」
貧血気味の知枝を介助する形で高墨がすぐ側にいる。旅支度を各々進める後ろにて、取引で頂戴した火縄銃を右肩に抱えた緋櫻は勿来関の出口となる門の短い石階段に腰を下ろしていた。
「そいつの案内に従いなァ。今切関所の抜け道を使えば、役人らの目を掻い潜って駿府城に行けるよォ」
緋櫻の隣にいた
「んだァ? 名残惜しいのか、ローガン・ウェスレー」
「頼む緋櫻。もう、異国人殺しをやめてくれ」
「……。それは出来ない相談だねェ」
「どうしてだ……!」
「
家族を殺され、人を殺した緋櫻はもう後戻り出来ない。心を入れ替えても、江戸時代から解放される事はない。生き方に逆おうとしない姿を前にして言葉が詰まるローガンの後ろに、世界で生きているオフィーリアがいる。
「黄色あた……いや、オフィーリア・ハリソン」
「え。なんでしょう?」
「お前ェは、何の為に日本にいるゥ?」
緋櫻の問いに対して直ぐに返答出来たが、一人で言うには薄っぺらく思えたのかオフィーリアは口を止める。これに説得力を持たせたかった彼女は近くで気怠そうにする知枝を見るが、照れが顔に出る。しかしその目標だけは軽い気持ちで示したくなかったのだろう、力が入らない知枝の腕にしがみ付くと、ギュッと身を寄せて頬を赤らめながら打ち明けた。
「世界が認めるレストランを、日本に作るためです!」
それを見た稲葉は仰向けにドタァンと倒れた。空に見下げられた彼は目と口を限界まで開きながら、近くにいる高墨の足首を掴んで何度も引っ張る。
「ぁぁ……ッ、はぁわぁあああぁぁッ!」
般若を脂っこくした人相で奇声を発するので、高墨の足元から気色悪さが
「ぁあぁあぁぁあッ、はぅあぁぁーッ!」
「離せ稲葉のおっさんッ! 気持ちわりぃ顔、己に向けんなぁーッ!」
大騒ぎする武士達に周りは何だ急にと驚くが、一旦視点を逸らした緋櫻は硬い結束を示す知枝とオフィーリアに注目して立ち上がった。しかし腹の傷が痛み、階段で身体が蹌踉めくと——野盗数人が助けに入った。
「
「……。れすたうらんが何か知らねェが、
「……そうですね」
「だが……
お互いに譲れないものを側に添えたのもあったのか、緋櫻は甘かったかつての自分を曝け出す。勿来関を守る頭の眼差しから迫る【何ができるのだ】という訴えを受けた貿易商のオフィーリアが出した返答はこちらとなっている。
「チエとローガン様の話によると、緋櫻様の機織り技術には目を見張るものがあるそうです」
「それがァ?」
「貴女さまがお作りになられたものを、イギリス商館で買い取るというのはどうでしょう?」
「こんなボロ切れに価値がある訳ねェだろォ」
「いいや、君の背にある刺繍はとても綺麗だ」
ローガンがそう言うと、異国から渡ってきた
「ふん、銭儲けの話なんか聞きたくねェよ。とっとと行っちまいなァ」
しかし悪人で有り続けると決めた彼女は、子分達を率いて背を向けた。呼びかけようとするローガンを、奉公人に戻った武士達が参りましょうと止め、返事を置き去りにしたままイギリス商館が出発しようとしたその時。門から飛び立った
「オフィーリア・ハリソン」
名前を呼ばれたオフィーリアは振り返った。緋櫻は未だ無意識に知枝と繋がれている手を見て、呆れながらも憎めない笑顔を軽く浮かべると、数多く葬った母音を舌で生き返らせた。
「See you again」
あまりにも美しい緋櫻の発音に、その場にいた全員の口が僅かに開く。誰かから教わったのか、独学で覚えたのか、思わず聞きたくなるが今は別れの時。平戸以外で初めて聞く日本人からの英語を受け取ったオフィーリアは、対等な笑顔で返す。
「See you later」
それだけを残して、オフィーリアは勿来関に背を向けて旅を続ける。短くなった髪、痛む背中の傷。辛くとも少女達は歩幅を合わせる、手を繋ぐ。この山々と東海道の先に居る徳川家康と——会って話をする為に。
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