追加公演

二十七、鉱物

 どうしてこんなことをしているのか、自問は幾度となく繰り返してきた。決定的に道を違えてしまう瞬間まで、光理の理性は正しく機能し、やろうと思った行為が無駄なことを証明していた。イチからイチを引いたらゼロになることを、執拗に説き伏せるかのように。

 ただ、説かれた答えがゼロだったから、駄目だったというだけで。


 キャンバス上における筆の逆走も終結し、草加新を失った光理は、第三守衛軍の拘留所にいた。蛍光灯に白々と照らされる中身は、旧第二研究所の施設内にあった異物用の檻と変わらない。床はマットレスの畳なお陰で、寝たり座ったりしても体が痛くなりはしないが、それ以外で目に付くのは簡素な敷布団と格子入りの小窓くらいだ。自分を取り巻くあれそれが片付けば出られることを思えば、光理を守ってくれる一時的な防壁のように見えなくもない。


 逃亡を大々的に報じられ、改道光理はすっかり誹謗中傷ストレス解消の良い的になっている。軍部の作戦によってその身を晒してくれた献身的な英雄だという情報が流れ、中和を図っている最中だが、どれくらい浸透することか。浸透すると言っても、良い作用をしてくれるのか、どうか。

 一度ついた汚れや傷は、一生消えることがない。消えたように見えても、外部の意思で掘り起こされて掲げられるような、囲いや追っ手のようなものが付き纏う。不本意な場合にはどこまでもネガティブな事実だが、光理はその一つを自ら背負った。その一つを手放してしまったら、ゼロになってしまうから。こぼれ落ちてしまうから。草加新という疑似人格の存在が。


 鉱物で例えるのなら、草加新という一人格は、貴石の周りを守っていた何の変哲もない岩石だったのだろう。中の貴石を取り出してしまえば、後は捨てられて用済みになる殻。自然物ではないから、土に還ることはないけれど。捨てられるときはきっと、スクラップにされてしまうのだろうけれど。

 嫌だった、それが。どうしても、嫌だという気持ちが消えてくれなかった。

 分別がある大人に成り切れていれば、そんな駄々、潰せたのに。と言っても、潰そうが染みついてしまった場所にしぶとく根付き、息を吹き返したかもしれない。


 押し殺すことこそ、大人に成り切れていない証拠だった。いや、大人に成り切れたかどうかなんてどうでも良かった。そんなことを気にするより、自分の気持ちに整理を付けるべきだった。コンディションが整っていなければ、いつも通りのパフォーマンスさえできないことなど、子どもでさえよく分かっている。

 冷たい壁に背を預けて座り込み、味気ない天井を見上げながら、光理は滔々と答えを積み重ねていく。まだ消灯まで余裕のある室内は明るいながら沈黙し、冷房の動く微音が緩慢に空気を這っている。


 犯罪者に身を落とすほど、新の喪失に対する抵抗は凄まじかったはずなのに、今の光理はすっかり消沈していた。いや、旧第二研究所の施設にいた時から炎は消えていたし、燃え続けることもなくなっていた。別の使命という燃料と新しい火を入れたから、再燃に至っていただけ。

 生気のない透明を纏っている檻の中は、崩れかけの焚き火あとのようだった。人工的な冷気で芯まで冷やされ、触れた場所からボロボロ塵に変わっていきそうな木炭の小山。堅牢な外殻を貰うには、あまりにもお粗末な中身をしている。


 完全に力を抜いて、あれこれぐるぐると考えていた光理だったが、そのせいもあってか一向に眠くならない。頭が活発なのに加えて、銃器を手放さず浅く眠るという生活を繰り返していた体が、睡魔を撃退するようになっていたのも一因だろう。新のセンサーが優秀だったお陰で、夜間の警戒はそれほどしなくても良かったのだが、何事にも絶対はない。たとえ都市圏内の堅牢な檻の中にいようとも。


 ……残念ながら、その警戒は無駄ではなかったと証明されることになる。


 かこん、とん。何かが入れられ、そしてマットレスの畳にぶつかる音。檻の格子越しに人影はない。他に格子で阻まれている箇所と言えば、小窓と通気口。動いた影は見受けられず、床へ素早く視線を巡らせても、照明に暴かれた侵入物の姿は見当たらない。

 それでも油断することなく、光理が壁から背を離し、袖を握って腕を口元近くへ持って行った直後。しゅうう、と噴出音が聞こえたかと思えば、白煙が瞬く間に室内を満たし始めた。ほとんど同時に警報音が鳴り響き、アナウンスが入る。


『侵入者あり、侵入者あり。男が一名、改道容疑者の留置部屋に向かった模様。各位、急ぎ確保せよ』


 どうやら光理を狙う誰かがいるらしいが、光理自身に覚えはない。正確には恨みを買った対象が浮かぶものの、そのうちの誰というのはまるで分からない。加えて、わざわざ軍施設へ侵入するという、デメリットが大きすぎる賭けに出そうな顔見知りもいない。……いや、一人思い当たるが性別が違う。

 立ち上がって身構えつつ、頭の中で候補を消していた光理の前へ、答えが自ら現れるまでには数秒もかからなかった。光理を少し超すくらいの身長を黒い衣服で包み、白煙と似た色の銀髪に黒いメッシュが一筋という組み合わせの持ち主は、光理が予想しつつも性別違いで外した候補の間近にいた青年。


「吸っても平気だよ。単なる目くらましだから」

「……なんでこんなところにいるの、ギン」

「ルゥナが研究所の連中に攫われた。俺も一緒に攫われるところだったけど、何とか抜け出してここに来た。頼れるの、お前くらいしかいないだろ」


 単刀直入に要点だけを投げられ、理解しつつも光理は虚を突かれた。何故、ルゥナが攫われるなんて事態になるのか。軍に見つかる前に逃げたと思っていたのに、違っていたのか。


「本当にお前しか頼れる奴がいないし、何よりお前にも無関係って話じゃないんだ。そうだろ? ルゥナを攫ったのは研究所の奴らだ。お前と一緒にいた連中も嵌められたみたいだし……お前の連れだった二人にも、何が起こるか分からない」


 これ以上ない動機を提示する侵入者の双眸は、全く曇っていない。本気の協力要請だと察せられるほど、真剣な眼光が宿っていた。

 光理が知りうるギンの性格――見え透いた危険に足を突っ込まないところや、冷静な視点の持ち主であることを考えてみても、ギンの言動に嘘は無いと感じられる。今、ここへ乗り込んできたことこそ、何よりの証左。


 疑う余地は無いとすぐに結論を出して光理が頷けば、ギンは軽やかに通気口内へ先行した。


 道中、様々なところが白煙で満たされているらしく、換気を優先する指示が飛んでいる。通気口内もたちまち白くなっていくが、白煙の製作者たるギンが打ち消すため、濁りはするものの視界は良好だった。後続の光理には、どうやって煙を消しているのか全く窺えない。使用しているだろう還元祓魔術の反応を予測できる程度だ。


 煙が無害であることは既に明らかとなりつつあるが、視界を阻むそれが一斉に流れ込む通気口内に人影を疑われることはないだろう。行きの時に付けてきた些細な目印を辿たどり、ギンはたちまち屋外への脱出を成功させた。

 ギンが先に張っておいたロープを伝い、光理も出てきたそこは建物の裏手。降りた場所には生け垣が茂っており、その先には道を挟んで、頭に有刺鉄線を乗せた高いコンクリ製の壁がそびえている。そちらから登って逃げるのは得策ではない。


「……今更だけど、きみ、どうやって入ってきたの? ここって小さいは小さいし、人員もさほど多くはないとはいえ、仮にも軍関係施設なんだけど」

「人員もさほど多くはない、ってところが既に穴だろ。お前がお利口だったのと軍の計らいで、忍び込むのがまだ簡単なところにいてくれて助かった」


 光理の問いに答えることなく、ギンは真っ黒なフードを被って銀髪を隠す。たちまち全身真っ黒に変わったギンと、味気ない軍用作業着を着っぱなしだった光理の姿は、夜陰によく馴染んでいた。


「足は?」

「もうある」


 手短なやり取りののち、ギンは生け垣の中へ戻ったかと思うと、自転車か何かを連れ出してくるような動作をし始めた。この期に及んでまさかふざけてはいないだろうと光理が黙し見守る前で、ギンは布のような何かを取り払う動作へと移る。途端、どこから盗んできたのか問いただしたくなるほど立派な黒いスポーツバイクが、マジックよろしく光理の前に姿を現した。


「安全都市圏内の住人は最高だな。手間をかけずに鍵をれて」


 嘲笑と共に成果を誇るギンに対し、光理は天を仰ぎたい気持ちを抑え、心の中で持ち主に手を合わせた。手を合わせて詫びないといけない人間は他にもいるのだが、完全に巻き添えをくらわせてしまったので優先的に。

 光理が複雑になった心を整理している間、ギンはバイクの傍らにしゃがんで、光理にもしゃがむよう手招いた。身をかがめた途端、ギンが手にしていた何かを、大型バイクごと二人にも覆いかける。


「いい獲物だろ、これ。光学迷彩ってやつを使った布だから、仮に誰か来てもすぐには見つからねぇ」

「よくもまあそんなの持ってるね。道理でスリも簡単なわけだ」

「スリ程度で使うとかこいつが可哀想だろ。でもまあ、こいつのお陰でどこにでも、簡単に侵入できるのはそうだ。センサーなんかはまた別の手段で避けないとだけどな」


 実際に使って見せるから、どう侵入したかの問いにはすぐ答えなかったのだろう。ひとり納得していた光理に、「行き先だけど」とギンが話題を変える。


「正直言って、どこに向かったもんかはぜんっぜん分からん。拘留所見つけたのだって、車ん中で事前にルゥナが盗み聞きしてた情報と、おめでたいくらい親切な道案内看板頼りだったし」

「盗聴はともかく、後者に関してはそうだろうね。となると運転は僕担当ってことで、あとは……電話か通信機、持ってる?」

「非常時用の使い捨て通信機なら」

「じゃ、それで千衣さん……守衛軍の渡貫中佐に連絡して情報共有する。ひとまず出よう」


 第三者を頼ることに異論は唱えられない。ギンはそんな状況ではない。二人を探す懐中電灯の光が建物裏へ先行し始める中、光理はバイクにまたがってハンドルを握り、ギンは後ろへ乗って光理に掴まった。

 いたぞ、と叫ぶ声が、火が入り目を覚ましたエンジン音でかき消される。ノーヘルメットに二人乗り、行き先不明で駆り出されるのは盗んだバイク。危険と違法の塊と化した即席コンビは、進路阻害と確保の準備も済ませられなかった人々を置き去りにして、一気に拘留所から脱出した。


 出入り口を通過する際、降りかけていた遮断機を破壊してしまったと気に病みつつ、光理は速度を緩めないまま軍関連施設から離れていく。帰宅ラッシュの時間帯は過ぎているため、渋滞に引っかかる懸念は無かったが、依然として車や歩行者は多い。せめて事故だけは起こさないよう、光理は細心の注意を払いながらも突き進んでいった。


 ルゥナたちを攫った連中の行き先は、光理もまだ見当がついていない。ひとまず落ち着いて態勢を整え、千衣とも連絡を取らなければならない。そのために光理が第一の目的地として選んだのは、住宅街とオフィス街の中間地にある公園だった。緑地の確保を名目に作られたようなそこは、遊歩道の中継地と言っても過言ではない。

 自転車進入防止柵の手前に停車し、光理はバイクに乗ったまま、同じく乗ったままのギンから受け取った通信機トランシーバーを起動させる。光理の脱走はすぐに伝わっていたのだろう、千衣が出るのは早かった。


『光理ちゃん!? 今どこにいるの!』

「ごめんなさい千衣さん。場所は言えませんが、拘留所内に侵入してきた〈灰猫〉のギンと一緒にいます」

『……それなら、もう草加くんと卯木さんが誘拐されたことも知ってるってわけね』


 ルゥナとギンが第三都市まで連れて来られていたことも把握済みらしい。『監視カメラの映像で大まかな事情は把握している』と、手短な答え合わせが成された。


『カメラに写っていた車両はまだ都市部から出ていないから、出入り口は全て封鎖済み。車両の識別データもすぐに割れて、今は捜索中よ。誘拐犯たちの正体は、おそらく第三研究所内に潜伏していたグリードの構成員って線が有力視されてる』


 誘拐犯たちはこの前にも、アルゴの研究員たちを出奔させるべく、研究所内で工作を行っていたと思われる……と、スムーズに補填されていく情報を聞くうち、光理はだんだん、自分が脱走した意味を失いかけていた。これなら軍に任せておいた方が、と思った矢先、「おい」とギンが通信機へ声を掛ける。


「ワタヌキ、だっけ。軍が探してくれるのはありがたいけど、正直、ルゥナがいる場所に軍だけで接近しない方が良いぞ」

『〈灰猫〉のギンね、貴方。どうしてかしら』

「ルゥナは問答無用で銃を撃つ。武装した軍の連中ならともかく、一緒にいるかもしれない草加新と……、なんだっけ、あのすぐ死にそうでチャラそうなの」

「卯木くん?」


 散々な言われようだが、正直その印象は光理も抱いている。案の定、「そう、ウツギ」と正解の返答があった。


「そいつに流れ弾当たるのは避けたいだろうし、可能性も低くしておきたいだろ。だから、見つけてもまずは俺と改道光理が接触するべきだと思う。俺は言うまでもないけど、改道光理はお気に入りだから、ルゥナはまず話をしようって気になる」


 だから光理を連れ出した、と言外に説明もしたギンに、考えるような千衣の沈黙は数秒。『そちらの言い分は理解した』という答えが、そのまま光理への指示も予測させる。


『改道光理。第三都市守衛軍傭兵徴用法に基づき、任務への協力を命じます。誘拐犯を無力化し、〈黒猫〉のルゥナへの接触を先行してください。通信機はそのままに。これより、現在挙がっている誘拐犯潜伏候補地への案内を開始します。まずはこちらの部隊と接触し、位置情報デバイスを受け取ること』

「了解!」


 付属品のインカムを装着すると、光理は再びバイクのハンドルを握った。ギンが胴に掴まったのも確認すると、今度は規制に従ったスピードで走り出す。

 軍による交通規制が始まっているという情報交じりに、最初に向かうべき候補地の住所が読み上げられる。さんざめく夜の都の影を縫って、モノクロの二人組は追加公演の舞台へと突き進んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る