二十八、ヘッドフォン
誰かに頬を叩かれている。体を揺すられている。声を掛けられている。ぼんやりと浮上してきた意識が、起きろという外部の働きかけに呼応して、頭をクリアに覚醒させる。
かくして卯木淳長が
「やあっと起きたにゃあ、おにぃさん」
「え……、……ルゥナ、さん?」
下手に親しく呼びかけない方が良い気がして、さん付けで呼んでみる。黒猫じみた少女は気にした様子もなく、「そうだにゃあん」にこにこ笑っていた。
「たんとーちょくにゅーに説明すると、ルゥにゃたちは誘拐されて、どこかの廃墟に閉じ込められてるにゃん」
「ゆ、誘拐? また?」
誘拐されることに、「また」と付ける羽目になるとは。光理も言っていたが、人生何が起こるか分からない……と、場違いに冷静なモノローグが、頭の片隅で再生された。嘘だろと情けない声を上げかけたが、何とか呑み込む。
「おにぃさんと新くんはともかく、ルゥにゃとギンちゃんまで攫われるにゃんて思わにゃかったにゃあ。あ、ギンちゃんには逃げてもらって、光理ちゃんを呼んでもらってるにゃん」
寝耳に水を掛けられた心地の淳長に反し、みゃははぁと朗らかに笑うルゥナは、こういう事態に慣れているらしい。淳長も淳長で、廃棄市街で目を覚ました時よりはマシと、冷静を取り戻していった。
ひとまず、起き上がりながら周囲を見渡してみる。淳長とルゥナ以外に人影はなく、室内には目ぼしいものもない。廃墟と言いつつ電気は通っていたのか、はたまた一時的に復活させたのか、天井に張り付いた細長い蛍光灯が白い光を放っていた。二本とも寿命が近く、片方は死にかけで点滅している。
が、落ち込んでいたのは
「新くんも誘拐されたって言ったよね、ルゥナさん」
「そうにゃ。けど、ルゥにゃがここで目を覚ました時にも、新くんはいにゃかったにゃあ。ギンちゃんを逃がした時は、もうおにぃさんと新くんは別の車に移されちゃってたし……ここじゃにゃい部屋に閉じ込められたか、誘拐犯たちと一緒にいるかだにゃあ。まあ、乱暴には扱わにゃいんじゃにゃい? 新くんはもう壊れてるし、
当然のことを語るがごとく淡々としたルゥナの口調に、既に押され気味な淳長だったが、そんな程度で折れてはいられない。自分の命を守れるのは自分だけ、新を助けられるかもしれないのも自分だけ。都市圏外から持ち帰ってこられた体と命を失うわけにはいかないし、恩人の体を損なうわけにもいかない。
「あ、覚悟決めたって目だにゃ。おにぃさんがにゃにするのかはどうでもいいけど、ルゥにゃの邪魔だけはしにゃいでほしいにゃあ。あと、ルゥにゃが銃を手に入れたら、近づくのもオススメしにゃいにゃん。せっかく光理ちゃんが助けた人を殺しちゃったら、ルゥにゃが嫌われちゃうにゃあ」
「銃を手に入れたらって、当てはあるの?」
「んみゃ? あっちが銃持ってるんだから、貰えばいいのにゃあ。ほら、足音が近づいてる」
す、とルゥナはドアを指さしたが、淳長には何も聞こえない。しばらくして、やっとそれらしい音が聞こえてくると、ルゥナの笑みがニィィと深まっていく。それがドアの前で止まると、笑みは瞬時に抜け落ちていった。
不気味なまでの表情変化に、淳長がゾッと寒気を覚えたのも束の間、ぎぃと軋む音を立ててドアが開く。直後、弾かれたようにルゥナの影が動き、隙間をこじ開け簡易的な武装をした男を引きずり込んだ。蛍光イエローの外套の下から伸びた黒い細腕が、たちまち男の首に巻き付いたかと思うと、ろくな発言も許さず締め落としてしまう。
「いっちょあっがりぃ、だにゃん」
呆然と
「他には、特に持ってにゃいにゃあ。一応おにぃさんも確認してみてにゃん。ルゥにゃはもう行くけど……そうだ、これあげるにゃん」
何かと淳長が見てみれば、蛍光イエローの外套の下、上下ともに黒い服の中間へルゥナが手を突っ込んでいた。ちらと肌が見えてしまっているが、イカれいてもうら若い少女は全く気にしていない。慌てて顔を逸らした淳長に向かって、「どうしたにゃん?」と首を傾げる始末だ。
「いやその、女の子の肌を見るとか重罪なので……っていうか恥じらい! 恥じらい持って!」
「ふうん。おにぃさんは恥ずかしがってる子がタイプにゃわけね」
「そういうアレで言ったんじゃないですぅー!」
「あんまり大声出すと他の奴が来ちゃうにゃあ、おにぃさん。ほら、幸運のお守りも貸してあげるから、あとは自分で頑張ってにゃん」
呼ばれて再びルゥナを見ると、何かを投げて寄越された。慌ててキャッチしたそれは、小さな正方形の代物。留め具がついているところを見るに、携帯できる折り畳みバックのように広げられるのだろう。
「これって……」
だが、詳細を訊く前に、広がったドアの隙間に蛍光イエローの外套がひらりと
「すっご、ほんとにあるんだ……じゃない。あー、えっと、どうなってんだ……あっ、留め具は裏側になるのか、なるほど」
ぶつぶつ言いながら、淳長は形状を手探りで確かめつつ羽織ってみる。たまに光を弾いて
「……これほんとに見えてないのかな……いやでも、持ってるときにはもう見えなかった、ついさっき確かめた。うん、大丈夫」
両手の拳を握って頷いた淳長だったが、急かすような銃声が聞こえ始めて、びくりと肩を跳ねさせた。もうルゥナは動いている。
注意深くフードを被り、淳長もドアの隙間を抜け、どことも知れない廃墟の探索を開始した。
まず、銃声が響いてくるのとは反対方向を探る。窓は極端に少なく、部屋に至っては窓がない部屋がかなり多い。電灯で照らされている部屋も通路も、埃っぽい程度でまだ汚いと言うほどではないが、人がまだいてもおかしくない雰囲気が逆に不気味だった。
どの部屋も、人影どころか物品の姿さえない。収穫もない中、銃声が激しさを増していく。さすがにルゥナ一人で、目くらましもなく多勢を相手取るのは時間がかかるのだろう。新もその近くか、最中にいる。
足音を消す手立てはないが、銃声が賑やかに叫んでいる空間でなら、気にする必要はさほどないはず。注意するべきは誘拐犯との遭遇、ルゥナとの距離、飛んでくる銃弾の出所。どこから「貰って」こられたのか分からない光学迷彩マントをお守りに、淳長は雨天の方へ進む。
人手は全てルゥナに割かれているだろうことを思えば、通路を走るのも苦ではなかった。やがて終点へ辿り着くと、一気に視界が開け、フード越しでも響き渡る銃声が耳をつんざく。手すりを掴んで下を見れば、工場か何かだったことを窺わせる屋内の舞台で、黄色の人影と黒い人影たちが踊っていた。かくれんぼをするかのように、水風船でも投げつけ合うかのように、しかし決してお遊びの証ではない火花を散らして。
音響を担う裏方のようなヘッドフォン……ではなくイヤーマフが欲しくなってくる騒がしさだが、もちろんそんなものはない。それより
淳長たちがいた部屋は二階、それもかなり高い位置にあったらしく、銃撃戦の舞台へ降りていくには長い階段を降りなければならなかった。左右の壁にそれぞれ張り付き、踊り場を二つほど挟んだ階段には格子も嵌められているため、安全はそれなりにありそうなのが救い。いざ降りていくと、時おり格子に当たる弾丸の音が響いて背筋も肝も冷えたが。
幸い、弾丸に当たることなく階段を降りきると、淳長は目に付いた通路へとすぐに逃げ込む。同じように隠れている誘拐犯たちの姿も見えたが、お守りのお陰でバレずに駆け抜けられた。
一気に通路の行き止まりまで走ると、淳長は順々に部屋を物色していく。どこも二階と似たようなありさまで、やっと目的の人を見つけたのは終盤だった。
銃撃戦が行われているすぐ隣の部屋、今までの部屋より格段に広いそこに、銃創の風穴が空けられたアンドロイドが安置されている。歯医者にあるような、ベッドと組み合わさったかのような椅子の上で、眠っているかのように。体からは繋がれた長いケーブルが数本垂れ下がっており、近くの机に置かれたコンピューターへと続いている。
デスクトップモニターの手前には、痩躯をシャツとスラックスに包んだ男が一人いた。画面の青白い光を顔に受けている男は、ルゥナが相手をしていた男たちと違って武装していない。それどころか、一般的なサラリーマンの風貌をしている。仮に淳長と並べば、同じ会社の同僚あるいは先輩後輩と見られそうなくらいだ。
新の体から、何らかのデータをダウンロードしているのかもしれない。通路の左右に人影がないことを確認してから、淳長はこっそりと、部屋の中へ歩を進めた。ドアのかすかな
痩躯の男はモニターからじっと目を離さず、透明人間がこそこそ動き回る些細な痕跡にも全く気付かない。断続的な銃声に歩調を合わせて、淳長は男の後ろへと回り込み、薄い肩越しにモニターを覗き込んだ。ダウンロードの進行度を示すバロメーターが中央に出ており、数値は八十パーセントに到達している。どこかへ転送される可能性を考えれば、男をここで、淳長一人で止めなければならない。
自分と同程度の体格で、銃など武器の形態はしていない。そんな相手の背後を取れている有利さが、淳長の自信に変わった。たった一つの明確な目的に視野が
――瞬間、淳長は男に飛びついた。
「んなっ、なんだお前、離せッ!」
抵抗する男もろとも、埃っぽい床へ叩きつけられる。淳長は必死に男を抑え込んでいた。首に腕を回しているが、ルゥナのように締め落とすことはできないし、覚悟もない。ただ、男を止めるという目的だけを定めて、己の腕と足で相手を拘束している。
暴れ藻掻く男の荒い声、抵抗を抑え付け苦悶する淳長の声。どちらの声も部屋を出る前に銃声で押し返され、室内に落ちて散っていく。やがて、痩躯の男の方が疲れ始め、呼吸もかなり危うくなってきた。気絶してしまう前に解放し、咳き込み出した男を、そこらへんに放られていたゲーブルで無理やり後ろ手に縛る。足も縛っておきたかったが、今はそれよりデータの方が重要だ。
モニター前へ戻ると、ダウンロードが完了した旨は表示されているが、転送など次の動きは始まっていない。ほっと一息ついたのち、淳長はウィンドウを開いてデータファイルを一覧した。いずれも淳長には分からない単語が連なっているが、一番下にあったファイルだけは、異質なまでにシンプルで分かる名前が付けられている。
「備忘録……?」
研究員の誰かが保管していたのだろうか。けれど、草加新のデータは初期化されたはず。基本的なデータ以外が残ることなどあるのだろうか。淳長が知らないだけで。
ともかく、接続先の新にもデータが残っているのを確認して、コピーされた分は削除しておく。これで時間は稼げるはずだ。大きく息を吐くと同時に、気が楽になった体が弛緩していく。途端、足からがくんと崩れて、再び床へ叩きつけられた。何が起こったのか理解するより先に、淳長を見下ろす影が、蛍光灯の逆光を受けて立ち塞がっていた。
「やってくれたなこの野郎。また一からやり直しだ」
さすがに、ケーブルで手を縛っておくのは無理があったらしい。よろけながらも復活した痩躯の男は、腹を中心に何度も蹴りを入れて淳長をサンドバッグにしたのち、怒りに震える声で吐き捨てた。苦痛に顔を歪めて咳き込み、腹を押さえる淳長が動けないのを確認すると、再びモニターと向き合う。
「……そういや、お前いいもん持ってんな。どっから奪ってきたんだ、こんなの」
光学迷彩マントがはぎ取られ、今度は男の痩躯を隠す。それは借り物、と若干ズレたことを言いかけたが、再び腹に蹴りを食らって沈黙せざるを得なかった。
淳長が床で芋虫よろしく苦しんでいる手前で、再びデータのダウンロードが始まる。ささやかな機械の駆動音が降り積もる中、遠く銃声が響いていた。
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