二十六、深夜二時
草加新だった機体に、生気はない。カメラが内蔵されたガラスの眼球は影に閉ざされ、風穴を塞ぐ異物の体も黒々と凝っている。
首輪をつけた傭兵二人、招待を受けた賞金稼ぎ二人、操縦者の私情までしっかり反映する探査機一台、草加新だった機体を作った研究員複数人。汚れはしたものの、都市圏外では充分に綺麗な研究所施設へ集った観客たちを前に、茶番の逃亡劇はラストシーンの幕を上げた。
開演の合図は、主演の女傭兵と、助演として巻き込まれた青年による些細な靴音。観客の耳まで届かないそれは、同じ舞台に上がったままの、もう一つの主演にはしかと届く。
「……う、つ、ギ……あ、ツな、ガ……?」
心地良かった新の声とは似ても似つかないほど不格好な響きが、淳長の名前をなぞった。カメラと、風穴を塞ぐ異物の体で構成された双眸が、淳長へと定まる。見ているのは淳長ではない。新を仮宿にした異物は、淳長を仮宿にした異物へ語り掛けている。
光理がじっと息を潜める傍ら、淳長は自分の体に変化が起こっていないか、静かに意識を巡らせていた。けれど、反応は何もない。かすかに、我が身に別の何かがいると分かる程度で、しかも感じ取れる気配さえ弱まっている。
「……アンタら、もう限界なんだね」
淳長が静かに確かめてみれば、ほんのわずかに新の目線が下がった。異物にも目を逸らすという意思表示行為があるのか、新のデータベースから人間の挙動を学習したのかは分からない。
「光理ちゃん。さっき、オレが光理ちゃんの後ろにあった異物の壁を……壊した? 時にね。なんか分かったんだ。駄目なんだなって。この壁は、コイツらが最後の力を振り絞って作ったんだっていうの、察したんよ」
新に宿った異物の方を向いたまま、淳長は淡々と光理に告げた。拭い切れなかった軽薄気味な雰囲気も消え去った横顔は、抜身の刃物を思わせる。
それ故に、光理は察した。卯木淳長は異物に乗っ取られてもいなければ、異物が人間に化けた存在でもないと。
「気象観測所のプレハブ小屋でさ、オレの中にいるコイツを呼んだ時に、今ある全力を使っちゃったんでしょ。深夜二時くらいに一回起きて、その後にまた寝たオレを起こさないまま動かせるくらいなんだし。それで、この施設のシステムを好きなようにして、色んな所に出入りして、オレのこと探して……そうしてるうちに、とうとう限界が来ちゃったってワケだ。探し回ったせいで撃たれて、防御とか回復にもリソース回しちゃったんだろうし」
異物の双眸はこちらと合わず、草加新の双眸もまた同じ。最低限の挙動で意思を伝えたいようにも見えてくる。大人しくしてもらえるならしてもらった方が、淳長も饒舌になれた。確信があると言っても、完璧な意思疎通が図れる保証はないのだから。
「で、どうしてそこまでして、オレの中にいるコイツを呼びたかったの? もう消えちゃうかもだから、会っておきたかったとか?」
人間と同じような感情があるかも分からない相手に、感情から引き出しを見つけようとする。どう見ても都市圏外の人間のやり方ではないが、光理は無駄だと思わなかった。今ここで、誰よりも異物のことを知っているのは淳長だから。
その姿勢が伝わったのか、淳長の事情ありきなのか分からないものの、異物は再び視線を合わせた。
「……り、カい、シた、カっタ。こ、コで、ワ、れわ、レ、なゼ、ト、ジこ、メ、ラ、れタ、か。なぜ、わレ、われ、キり、わ、ケ、らレ、た、カ。……に、ン、ゲん、は、ナ、にヲ、し、タかった、ノ、か」
なぜ閉じ込められたのか。なぜ切り分けられたのか。人間ではないそれが提示した疑問は、鮮明ではないながらも答えへ線を引いていく。秘された施設内でさらに秘されていた階層にて、人間の体内へ入れることを目的に切り分けられたのだろう異物。善悪問わず人間の利益のためにどうこうされた事実や絵面のおぞましさに、淳長は思わず顔を
「……うつ、ギ、アつ、なが。あ、ナた、に、イれられ、た、ワ、が、いチ、ブ、を、トお、しテ、いマ、けっカ、が、デた。……われ、われ、ハ、り、ヨウ、さレ、た」
最後のピースが揃って現れた答えに、憤怒や悲愴といった感情が発生した様子はない。そもそも、異物から見て何らかの反応を起こす原因となる事象なのかさえ分からないのだ。自身を侵害されたという点において、看過できないことではあるだろうが。
けれど、異物はじっと淳長を見ている。右の
「……あな、タ、も。……リ、よう、サれ、た。……かイ、ど、ウ、ひカ、り。あな、たモ」
淳長へ注がれていた視線が、ゆっくり、わずかに光理へも向けられる。二人も同じ立場にある、という確認に、まず光理が頷いた。東丘総合研究所という一大組織に利用されていた、という点は、確かに三人とも共通している。
「お、ナじ、もノ、は、ツど、ウ。……ちガ、う、カ?」
続いて淳長が頷くのとほぼ同時に、問いが投げかけられた。限界が近いと言いながら、何とか限界を引き延ばそうとしているのかもしれない。最後の最後まで、何かをする気でいるのかもしれない。
警戒を解かないまま、質問に答える役は光理が担う。
「違わないが、集まる道理はない。そちらとこちらでは、これといった目的を共有してはいない」
「モ、くテ、き。……シり、たイ、おモう、こト。チがう?」
「わたしたちは、歩く道が交差しただけ。その交差点で行き会っただけで、
「……フ、カ、かイ。り、ソー、す、ゲん、カイ……さ、イゆウ、せン、かク、ニん、ジ、こウ。あ、なタたタはハハはこノでデデでたタタをヲを」
音声も正常に出力できず、新の頭が大きく揺れる。思わず支えようと前に出た淳長の体を制して下がらせ、代わりに光理が前に出た。
最優先確認事項。光理が答える前に壁が壊れ、流されてしまっていた問いは一つ。草加新の機体データ復活だ。重要なデータはチップ状媒体となってレイモンドのポケットに収まっているため、異物の助けなど不要。そこに入っていない、草加新という疑似人格のデータは、もしかするとここで復活するかもしれない。
けれど。
「そちらの言うデータは、望んでいない」
光理は首を横に振った。大人に成り損なった女傭兵と、人のため人が為に作られたアンドロイドによる茶番の逃亡劇において、絶対的な結末を覆すわけにはいかなかった。杭で穿たれ留められたそれは、覆せるような事実でさえない。
草加新は消去された。もう、どこにも存在しない。
呆気ない終わり。味気ない締め括りの台詞。だが、最初から全て承知していたことで、心の片隅で準備は出来ていた。とうに落下は始まっていて、墜落地点も最初から見えている。どんなに光理が逃げたところで、逃げたいと願ったところで、避けきれるものではないのだ。
顔で感情を表す動作も知らない異物が、デフォルトの無表情を貫いたままぎこちなく一歩を踏み出し、光理へ手を伸ばした。ありとあらゆるものを切り離してきたナイフに、追い縋るかのような姿で。
「こ、ノ、カラ、だ、ニは――」
言い終わる前に、衝突の音が空気を震わせる。銃で空けられた穴を異物で塞いだ機械の体が、崩れ落ちるように倒れた音だった。
塞がっていた風穴から、緩やかに異物が流れ出てくる。もう渦模様は見えない。流れ出た端から霧散して、どこにも付着することなく消えてしまった。もっとも、浄化装置で施設一帯を掃除しなければ、完全に消えたとは言い切れないのだが。
携帯していた浄化装置を機体の傍に置き、異物の反応が皆無だと判明してから、ようやく光理は新に触れた。軍用
「これで全部おしまい。帰ろう、卯木くん」
複雑な苦みを帯びた好青年の顔に、光理はにこりと笑いかける。銃器に加えてアンドロイドという重荷を支える姿に、淳長が再び手を伸ばしかけたが、届かずに終わった。光理が一歩引いたので。
「ごめん。僕に運ばせて」
「……そっか。うん、そうだよね」
すっかりよれて
喝采はなく、一つだけ動かなくなった体を抱えて、逃亡劇の役者と観客たちは地上へと進んでいく。地下から坂を上り、死骸が転がる道を伝っていくそれは、不揃いながらも葬列のように見えた。生死が入り混じって、逆転して、どこへ進んでいるのか分からなくなりそう。
涼やかな声が聞こえないまま、光理は、施設の出入り口へ到着した。外国産トラックが無理やりぶち抜いた痕跡の残るドアを出れば、照り付けられた地面が吐き出した一息の熱気が体を包む。空は黄昏の終盤に差し掛かっていたが、まだ
空から地上へ目を向けて見れば、勢ぞろいした軍用車両の群れと、間を埋めるように立ち尽くす軍人たちの姿がある。その中央に、ひときわ目立つ女性の影があった。
「やっと顔が見られた。無事で何よりです、光理ちゃん」
「……ご迷惑をおかけしました、千衣さん」
「そうねぇ、よくもまあ一か月以上逃げおおせてくれたものだわ。貴女の身柄は一度、軍の方で預かることになるけど、アルゴの人たちとのやり取りも承知しています。そう長くは拘束しないから、少し時間を貰うよ」
「はい」
光理に処遇を伝えた後、千衣は淳長にもこれからの対応を説明し始める。その間、光理は研究員たちの方へ向かい、レイモンドに新の体を明け渡した。ついでにルゥナとギンの姿を目だけで探してみたが、軍がいたからか、気配を消して撤退したらしい。軍の方も、ネームドの賞金稼ぎを追跡するつもりはないらしい。
「ありがとうございました、改道さん」
「いえ。……一応、お伝えしておきたいことが。異物がデータの復活を
チップを取り出すのと同時に、搭載されていたデータは初期化されている。光理の狙撃による損傷も踏まえると、これまでに累積したデータの復活は不可能に等しい。それなのに異物が言及したのは、技術というか生態を持ち得ていたのか、そのための足掛かりが残っていたのか。光理には分からなかったが、分かる必要はない。調べるのは研究所の役目だから。
「教えていただき、ありがとうございます。機体の方も精密に調査しましょう」
表情を引き締めたレイモンドに頷き返し、光理は踵を返した。
千衣の方へ戻るのと入れ違いに、科学担当の軍関係者に付き添われた淳長とすれ違う。これといった反応もせず通り過ぎようとした光理を、「待って待って、光理ちゃん!」と淳長の声が引き止めた。
「ありがとう、オレのこと助けてくれて」
「……そういう約束したからね。第六都市までは送り届けられなかったけど」
「じゅうぶんだよ」
にっと笑って手を振り、遠ざかっていく淳長に、光理もささやかに手を振った。あちらが背を向けても何となく眺めていると、今度はアルゴの研究員たちへ、中でもレイモンドへ駆け寄る姿が見える。
鶯色の軍人たちと、白衣の研究員たちの間で、夕日を受けた淳長の茶髪が美しく燃えている。軍が貸し出した暗色のジャンパーを羽織っているのも相まって、夕と夜をその身に混在させているかのような好青年は、レイモンドたちが支えていたアンドロイドに触れていた。
――そこまで見られれば、こちらもじゅうぶん。
細まった目を行き先へ向け直すと、西日でさらに細まってしまう。待ってくれている重満や千衣は逆光で顔が見えにくくなっていたが、啓一郎の美顔と髪だけは淳長以上に輝き、いつも通りよく目立って美しい。
これ以上待たせないよう、光理は小走りで馴染みの顔たちへ合流する。斜陽に照らされた光理の黒髪が、かつて夕焼け空を飛んでいた鳥の羽ばたきのように、軽やかに上下していた。
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