二、喫茶店

 第三安全生活都市圏。通称、第三都市。異物あるいはその上位種が人間の生活圏へ攻め込んできた場合、防衛可能な区域として再建された三番目の都市。都市近郊にも人間の生活区域は広がっているが、近隣に異物が現れた場合は、安全圏内である都市区域までの避難が推奨・勧告される。

 改道光理は五年前から、第三都市近郊で暮らしていた。学生でありながら、前線での異物掃討を稼業とする傭兵として。

 同居人にして後見人でもある師匠たちは、学生生活に専念するよう言ったものの、光理は首を横に振った。課業中の時でさえ、連絡が入れば後方支援に回り、放課後や休日にはライフルを手に前線へ出た。同年代の友だちを作って遊ぶより、尊敬する背を追って役に立つ方が嬉しかった。


 幸い孤立するようなことはなく、三年間の学生生活は充実していたと、光理自身が満足できている。入学早々に気が合い、近い所にもいた友人ができたことも良かったのだろう。それこそが草加新だった。

 異物掃討の後方支援ナビゲーターとして、既に実績も積んでいた新が、光理たちと協力するようになるまで時間はかからなかった。協力関係は五年にわたり、五年目にして突如、終わりが顔を出した。


 光理はこの協力関係を終わらせたくなくて、だから新と一緒に逃げている。けれど、嫌がっているのは自分だけで、新はただ付き合っているだけだと知っている。

 何もかも分かりきっていながら感情に負け、子どもの駄々を冗談では済まされない逃避行に押し上げてまで、見苦しく茶番を演じる二十歳の大人。それが、改道光理という女の現状だった。


 ***


 微睡まどろみの中をふわふわ漂っていた光理は、ふっと目を覚ました。体の感覚が早くも勤勉に動き出し、包まった薄い毛布の触り心地や、冷え切ったコンクリートの硬い感触と匂いをどんどん拾い上げていく。

 瞬きながらまぶたを上げると、ちょうどいい仄暗ほのぐらさが寝ぼけ眼を浸していく。崩れかかった外壁から、産毛めいたか弱い日差しの斜線が傾いていた。もぞもぞ動きながら周囲を見回せば、新も同じく毛布に包まって眠っている。まだ起きそうな気配はなく、目を凝らして呼吸の微動を確認しなければ、後ろの壁から作り出した彫像のように見えた。


 毛布を解いて密やかに立ち上がり、ぐんと伸びをする。足音を響かせないように進んで、仄明るい斜線の中へ出る。見上げた空は紺色から抜け出して、すっきりと美しい天色あまいろへ変わりつつあった。胸のすくような青色を吸い込むと、光理自身、同じ色へ溶け込めてしまいそうな気がしてくる。


「――おはようございます、改道さん」


 静謐を緩やかに泳いで、新の挨拶が隣へやって来た。短時間で高い明度に慣れた光理の目は、暗がりを見抜く精度がすっかり落ちている。


「おはよう、草加くん。起こしちゃった?」

「いえ。正確な時間通りの目覚めです」


 視線を向けてみると、新はおもむろに伸びをして、未明からゆっくり上がってくるところだった。黒眼鏡はまだケースに入れられ、白衣のポケットに突っ込まれているが、掛けていなくても不自由な素振りはない。


「早起きっていいね。何だかわくわくするし、でも騒いじゃいけない雰囲気があってさ。透き通って綺麗で、触れたら終わっちゃいそうに儚くて。夜の名残とか、朝日が覗くまでの短い色合いとかに、自分が溶けていきそうな感じがして……いい、よね」


 起きて間もない光理の声は、普段より低くかすれ気味。頭もまだぼんやりして、ふんわり楽しい気分がささやかに漂うだけ。体を地上へ縫い付けるように重いプロテクターや、掴んだ瞬間から手に馴染んで体の一部となる小銃も無いので、このまま空へ浮き上がってしまえそうな気さえした。空想のし過ぎだろうかと、すぐに足を落ち着けてしまうかもしれないが。


「改道さんの感性は素晴らしいですね」

「そこまで言われるほどじゃないと思うなぁ」

「改道さんだけが持つ、唯一無二の感性です。素晴らしいという評価に、間違いはないかと思います」


 涼やかな音色は、美しく光理の心を満たして重くする。「あなただけが持つ感性」という表現は、光理でなくても当てはまる言葉だ。当たり障りがなくて、ひんやりとして――とても、心地が良い。


「いつもより早いですが、朝ご飯にしましょうか。喫茶店には及びませんが、目覚めの一杯とそれに合う食事を提供できますよ」

「うん、お願いしようかな」


 天然のスポットライトにも似た斜線に入ることなく、新は眼鏡を掛けながら、先んじてトラックの方へ向かった。その後ろ姿をぼんやりと眺めて、光理も足音を潜めず歩き出す。澄み渡った静謐の時間は、ケトルやカセットコンロの音、インスタントコーヒーの香りに押され、緩やかに終息を迎えていた。






 軍用トラックは露天の喫茶店モード(そんなものはない)から通常モードに切り替え、見る見るうちに明るくなった世界へ走行を開始した。盛夏の青空や伸び盛りの草木は色鮮やかに、廃墟群とひび割れた道路は風雨の色濃い痕跡に埋もれ、たまにその間を異物が通り過ぎていく。

 あまりにもたくさんの異物を狩り過ぎると、痕跡として辿られてしまう可能性が出てくる他、祓魔術を用いても弾数や銃火器本体の消耗が積み重なる。よって、光理と新が事前に取り決めた条件を満たしていない状態では、異物を発見しても掃討とはいかない。


「見る分には、綺麗な異物もいるのにね」


 今日は冷房の効いた助手席に座った光理が、空を飛んでいく白い鳥型異物を眺めながら呟いた。水鳥のようなシルエットをした異物は、優雅に青空を渡っていく。体にみどり色の渦巻き模様がのたくっていなければ、さぎと見間違うほどだ。


「あの異物は、特定条件下でなければ無害ですからね。食べられますし」

さばくのは大変だったけどね」

「ええ、大変でした」


 先月は逃亡を開始してからしばらく経った頃。狙撃で撃ち落とした鳥型異物を二人でえっちらおっちら運び、大ぶりなサバイバルナイフで手分けして捌いたことを思い出して、光理の目は遠くなった。大変だった、本当に。下手をすれば別の異物を引き寄せてしまいかねず、物資を狙う人間や、手間取っているところを狙って賞金稼ぎまで寄ってくるかもしれない。あれはあれで一種の戦闘でもあったのだ、たぶん。


 かつてあった祓魔術の歴史から見ても無茶苦茶な魔改造としか評せない、魔術と科学を融合した還元祓魔術なる技術を手に入れた人類は、敵性生物たる異物を食すというとんでもない行動をも可能にした。還元祓魔術は異物を「る」ことで分解に繋げる技術だが、それが異物を食用に変換するなんて発展の仕方をするなど、先人は想像だにしていなかっただろう。……いや、光理たちの先人が食に貪欲な性質を持っていたらしいとは知られているので、冗談交じりの予想はしていたかもしれない。

 もちろん、そういう発展を遂げたことで恩恵もあった。異物は様々な用途に使われるようにもなり、大打撃を受けていた数多の資源が、旧式資源を補う形で見事な新生を遂げた。都市圏の生活水準は向上し、ナンバリングされた都市間の流通も何とか復活している。河川や海洋での異物対策がまだ追いついていないため、船による輸送はまだ困難を極めるが、陸路での運搬は比較的安全に行えるまで回復した。


 とは言え、それは安全が確保された法治の都市圏に限った話。新生都市を初め、新たに国道として整備された道が通っている場所以外にも、人が暮らしている場所はある。


「今日は異物掃討こそ行いますが、捌く必要はありません。廃棄市街を経由しますので、そちらで食料を補充しましょう」

「今日一番目の仕事だね、頑張るよ」


 口角を上げつつ手短に応じて、光理は傍らに寝かせたライフルのケースを撫でる。できることなら、人に向けることがないよう祈りながら。


 絶賛逃亡中な上に賞金も掛けられている光理と新は、当然誰からも狙われる身。傭兵や賞金稼ぎ、金銭に困った人間たちが暮らす廃棄市街では、札束が詰まったアタッシュケースに手足が生えたような存在と言える。いかなる接触も油断はできない。

 目指す廃棄市街が見える前に、トラックは廃墟の物陰に停車した。ただでさえ目立つため、途中からは光理が単身かつ徒歩で向かわなければならない。異物掃討を生業にする、流離さすらいの傭兵を装って。


「では、よろしくお願いします、改道さん。お気をつけて」

「うん、草加くんも気をつけて。行ってきます」


 相棒のライフルを背負い、ボロボロの外套で顔や体格を隠した光理は、くぐもった声で返事をする。マスク越しかつ変声機も通した声はざらつき、乾燥や砂埃にさらされてきたような響きに変わっていた。

 いつも通り、重装備の下には冷風が送られているが、日差しを浴び続ければ暑くなる。廃墟の陰を伝いながら、光理はかつての都市圏へ踏み込んでいった。異物が現れる前に栄えていたのか、現れたあと死に絶えてしまったのかは分からない。ただ、一年で最も色彩が鮮明なこの時だからこそ、どす黒い風雨の痕を抱いた都市の死相が浮き彫りになっている。


『――改道さん、聞こえていますか。近辺に登録番号第八の鼠型異物がいます。獲得して等価交換に役立てることを推奨します』

「了解。こちらでも視認した、装填をお願い」


 早速、仕事が始まる。相変わらずのナビゲートに従い、光理は道中、小型や中型の異物を適当に狩猟採集していった。狙った異物はいずれも食用や薬用が可能な異物で、等価交換においては無視できない価値を有する。時に、金銭より雄弁ですらあることは、光理自身が何度も体験済みだった。


 新が目標に設定していた数だけ異物を狩り終えたのは、約二時間半が経過し、日が中天へ差し掛かる頃。廃棄市街もようやく見えてきて、気配を漂わすように人影もぽつぽつ視認できるようになってもいた。光理が装うような流浪の傭兵だけでなく、着古して草臥くたびれた衣服を纏い、敷布の上や廃墟に店を開いている廃棄市街の住人の姿も。

 市街地からも外れて暮らす人間は、大抵何らかのトラブルを抱えているため、無視するか振り払って進むかしかない。幸い、すがりついて引きずり込むような人間はおらず、光理は目的地の玄関口へ到着した。


 並木林のような整然さで立ち並ぶ建物群には、ところどころ割れたり崩落したりした天蓋が掛かっている。かつてはアーケード街だったのだろう。抜けるような青空には看板も掲げられているが、盛大に傾き損傷も激しく、くすんだ赤色の文字は読めない。

 外套の下へ仕舞ったライフルを意識でなぞり、光理は迷いのない、慣れた足取りで看板下をくぐる。今日二番目の仕事、食料調達および情報収集が始まった。

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