10 賭け
涙が出たのかどうか、水の中では判らなかった。
ティエラは自分から細かい泡が立ち上るのを見ながら、いつかもこんな気分を味わったことがあると思っていた。自分は大好きなのに、相手にとっては邪魔でしかないのだ。
冷やりとした肌も、少し乱暴に頭を掻きまわす大きな掌も、もう戻っては来ないのかと――
もがく気力もなく、ただ沈むに身を任せ、溜息をつくように息を吐き出す。
息を止めていられるのも、もうあと数分もないだろう。
「おや。あの人の気配がすると思ったら」
「きゃあ!!」
突然体を掴まれて、ティエラは思わず悲鳴を上げる。自分の声が聞こえたことにびっくりして、周囲にある水が口に入ってこないことにも驚いた。それからすぐに思い出す。そっと舌で上あごを撫でれば、つるりとした感触がそこにある。デモニオの鱗。
(溺れないって、わかってた?)
もう一つの声の主を仰ぎ見れば、綺麗な女の人だった。髪は長く、水に溶けてしまいそうな深い青の色。瞳は夜空に浮かぶ月のように淡く光を灯している。
「ああ、やっぱり。人の子が水の中で呼吸できるはずがないものね。何かご用事かしら。外は珍しく騒がしいようだけど」
ティエラは一生懸命説明した。女の人は時々小さく首を傾げたりするので、上手く伝わっているか判らなかったけど、邪魔だと言われて泉に放り込まれたところまで話して、一息ついたら涙があふれてきた。
「あらあら。泣かなくてもいいの。しょうがないわねぇ。外の騒ぎが収まるまで少し待ちましょう? もう。ここには子供用のおもちゃはないっていうのに」
そう言うと、彼女はティエラの手を引いて泳ぎ出した。よく見れば、彼女の下半身は魚のようで、腰のあたりに小さな翼のようなものが生えている。人魚というのが一番しっくりくるけれど、森の中に人魚がいる話など聞いたことがなかった。
人魚は光の揺れる岩までティエラを連れていって、そこに一緒に座ると歌を歌い始めた。
透き通るような声は水を震わせ、あちこちから小魚が顔を出す。彼女が手を差し伸べれば、小魚たちは踊るように身をくねらせた。
うっとりと、いつまでも聞いていたい心地になるけれど、人魚は一曲終わるとそれでやめてしまった。
「やめちゃうの? もっとききたい」
「涙が止まったのなら、おしまい。後であの人に歌ってもらいなさい。私の声は刺激が強すぎるわ。中毒になるのよ。それにほら、お迎えが来たかも。うちの子たちはあまりうるさくないけれど、関わらないに越したことはないから……少しは泳げる? さあ、光に向かって行って」
優しく押し上げられ、ティエラは上を向いた。水の中を進む太陽の光とは別の、柔らかな光が揺れている。ティエラは一生懸命足をばたつかせた。どうにか近づいて手を伸ばせば、光もまたティエラに手を伸ばした。光がティエラを捉えると、そのまま一気に水を飛び出す。
「ああ、よかった……僕はそんなに深く潜れないから。大丈夫? ティエラ。ごめんね遅くなって。ケガはない?」
「アンヘル……デモニオが……デモニ……」
涙目で周囲を見渡しても、デモニオの姿は見つけられなかった。ハーピーの姿も。本当に置いて行かれたのだと思うと、また泣けてくる。アンヘルがさっと全身をチェックして、ほっと息をついた。
「大丈夫そう。さて。どうしようかな。僕の羽根は誰が?」
「女の人のかおの鳥。でも、デモニオがとりかえして……それからはわかんない」
「なるほどね。じゃあ、いいか」
アンヘルが手を出すと、革紐の付いた小さな羽根が現れた。切れた革紐を指でつまめば、あっという間に元のように繋がる。アンヘルはそれをティエラの首にかけて「元通り」と笑った。
「……アンヘルもデモニオとけんかする……?」
羽根をつまんで問えば、アンヘルはちょっと怒った顔を作った。
「そうだね。怒ってやらなくちゃ。「どうして君は嘘ばかりなの。ゲームを勝手に放棄するつもり?」ってね」
「うそ?」
「ティエラが悲しくなるようなことを言ったんだろう? なんて言ったの?」
よしよしと優しく撫でられて、でも、気持ちは沈んだままで、ティエラは小さく小さく囁いた。
「じゃまだって……」
「それで、羽根も取られて、泉に投げられた」
頷いてしまうのが嫌で、ティエラは地面を見つめながら黙っていた。
その視線の先にアンヘルの指先が入り込んで、スッと視界の外を指差したので、ティエラはつられて目を向ける。鳥の羽根が散乱していて、ぽつぽつと赤い色も見えた。
「彼はああ見えて僕よりずっと優しいから、ゲームの邪魔をされても文句を言ったこともない。でも、今回は君に危害が及びそうだったから、さすがにお仕置きしようと思ったんだと思うよ。ハーピーも、いつも反撃されないからってちょっと調子に乗りすぎたね。だからいつも止めたのに。「邪魔」なんて言ってるけど、君には刺激が強すぎると思ったに違いない。あとは……君に見られたら、嫌われると思ったのかも」
顔を上げて、ティエラはじっとアンヘルを見る。
「ほんとに?」
「僕は嘘は言わないよ。彼と違ってね。……だけど……彼がゲームを放棄するつもりなら、もう戻ってこないかもしれない」
「え!? それって、どうなるの? アンヘルの勝ち? だいちをお空にもっていっちゃう?」
ふふ、とアンヘルは笑った。
「空で暮らすのはいや?」
「いや、ではないけど……」
もっとじっくり海の中を見たかったし、何よりまだ二人と一緒にいたかった。
「おねがいはかなう? わたし、まだ」
アンヘルの一本の指が、ティエラの言葉を止める。
「それではゲームが終わってしまう。僕もこのままでは納得いかないからね。ひとつ、賭けをしよう。ティエラ、君の付けた彼の名前。それで彼を呼びだそう。彼がまだ僕のリングを持っていて、僕たちにその名を呼ばれたければ、彼の一部であるこの角に惹かれてやってくる。だけど、その名前になんの思い入れも無ければ、リングだけがこの角と入れ替わりに戻ってくる。そうしたら、そこでゲームも終わり。どう?」
「呼ぶだけでいいの? ほんとに?」
「ティエラの声が届くように、その羽根を握って心を込めて呼ぶんだ。ティエラ、君は大好きな人に名前を呼ばれるとどう思う?」
「うれしい……」
「もっと呼んで欲しいと思ったりしない?」
「する」
大きく頷いて、ティエラは胸元の羽根を握りしめた。
アンヘルも同じように胸元の銀の角に触れる。
「せーの、デモニオ」
「デモニオ!」
ティエラの声が小さくこだまして、手の中で羽根が震えた。アンヘルの触れていた銀の角はきらめきを残して消えて、アンヘルの頭上に淡い金のきらめきを纏ったリングが現れる。
ティエラの強張った視線を追うように、アンヘルは顔を上げた。
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