7 海の中

 夕方まで続いた土砂降りは夜には嘘のように上がって、いつもより多くの星たちがキラキラと拍手するように輝いていた。アンヘルも戻って、久々に三人で食卓を囲む。アンヘルは水かワインを飲んでるだけだけれど、いつもより賑やかな気がしてティエラも嬉しかった。


「ちょうど祭りの時期じゃないか? いい感じに晴れたから、町に行くのにいい機会だ。そろそろ買い足したいものもあるし」

「そうだね。ちょうどティエラとも買い物の練習をしたところだったし、いい実地練習になるかも」

「あんたが連れて行くのか?」

「風たちもまだ浮かれてるから、水の中そっちの方が安全性は高いと思うよ?」

「そうか……まだ水も濁ってるが……まあ、しゃーねぇか。集合はいつものとこな。明後日まで天気が崩れなかったら行くことにしよう」

「そうしよう。じゃあ、僕は見回りついでに根回ししておくね」


 善は急げとばかりに、アンヘルは空へと駆けて行った。


「お、おでかけ、するの? みんなで? ねまわしって何するの?」


 そわそわと、ティエラの瞳が期待に輝いた。


「勝負中だから、余計な手出しはするなって言っておくんだよ。翼あるものは、みんなあいつが大好きだからな。俺といると、つつきに来やがる。なんてことはないが、集まりすぎると目立つからな」


 肩をすくめるデモニオにティエラは少し同情して、椅子の上に立ちあがると、隣に座っていたデモニオの頭をよしよしと撫でた。キョトンとしたあと、可笑しそうに笑って、デモニオは倍返しとばかりにティエラの頭をわしわしとかき回すのだった。


 * * *


 二日後、見事な晴れ、とまではいかなかったが、海も空も穏やかだった。ティエラは浜に立って、少し緊張しながら寄せては返す波を見ていた。水の中で目を開けて少しは泳げるようになったけれど、そう長い時間息を止めてはいられない。どうするのかと不安と期待が目の前の波のように寄せては返している。

 ティエラの隣に立ったデモニオは、腕の鱗をひとつ剥がして、空中に作り出した小さな水の流れでそれを洗った。指先で軽くこすられたそれは半透明で、青と緑が混ざり合う途中のような綺麗な色をしていた。

 ティエラは感嘆の声を上げる。


「わぁ! きれいね! ……でも、いたそう……」


 鱗を剥がした場所は、そこだけ肌の色が濃くなっている。デモニオの灰色に近い血色の悪い肌の色では血が出ているのかどうかも判らなくて、ティエラはそっと顔を寄せた。


「気にすんな。それより、口を開け。ほら、あーん」

「え? あーん……?」


 素直に開いた口の中、ティエラの舌の上に鱗が置かれる。


「上あごか、ほっぺたにくっつけておけ。舌を切らないようにな」

「んっ……」


 味は特になく、つるりとした舌触りは不快ではないものの、やはり違和感がある。言われた通りに上あごに押し付ければ、あつらえたかのようにピタリと収まった。


「水の中ではなるべく口で呼吸しろよ? 普通にするより楽なはずだから。じゃあ、行こう」


 ティエラを抱き上げて、デモニオはざぶざぶと水に分け入っていく。上半身裸の首元にはキラキラする淡い金色に輝くリングが嵌まっていて、ティエラは思わずそれにそっと触れてみた。冷たくもなく、温かくもなく、固くも柔らかくもない不思議な感触。


「……これ、アンヘルの、なの?」

「ん? あいつがそう言ったか?」

「そうじゃないけど。アンヘルが首かざりにしてるのも、デモニオの角みたいだし……」


 くくっとデモニオは喉の奥で笑って、やや乱暴にティエラの頭を撫でる。


「いい観察眼だなぁ。その目でよく見ろよ? 潜るぞ」


 そう言うなり、デモニオはティエラを抱えたまま泳ぎ出した。ティエラは思わず目をつぶって息を止めてしまう。しばらくゆっくりと泳いでいたデモニオが真直ぐと体を起こしたところで、ティエラは我慢できなくなって息を吐き出した。ごぼ、と空気の塊がティエラの前髪を躍らせる。足りない空気を求めて勢いよく吸い込んだ口には、塩辛い水は入ってこなかった。


「ほら、目を開けろって」


 おそるおそる、ゆっくりと目を開いていったティエラは、目の前を横切る黄色い色にのけぞった。デモニオが笑いながら支えてくれている。黄色いのは魚で、確かに自分たちの周りに水がある。魚から目を離して周りを見れば、海藻やイソギンチャクが草原のように広がっていた。小さな魚の群れが海藻の中に潜ったり、岩の隙間に身を隠そうとして中にいたウツボに驚かされたり。

 遠くに目を向ければ、やはり少し水は濁っていたけれど、それでも差し込む陽の光が柔らかく揺れていて、思ったよりも明るくカラフルで賑やかだった。


「息は苦しくないか?」


 そこでハッとするけれど、陸と変わらず呼吸できている。こんなにたくさんの水に囲まれているのに不思議だと思いつつ、ティエラは頷いた。


「だいじょうぶ……みたい」

「じゃあ、慣れるまでは俺にしっかり掴まっておけよ? いくぞ」


 返事をする前にデモニオは水の中を下り始めた。と、同時に周囲の景色が後ろに流れていく。まっすぐに下りているのではなく、流されつつ下りているのだと解って、ティエラは下を向いた。草原に見えたのは陸の方向だったようで、足元は崖のように急に深くなっていた。底の方は暗くて見えないが、流れに紛れるように何かの気配がする。デモニオがそれに足をついた時、水たまりを踏んだ時のように丸く幾重にか波紋が広がった。

 『気龍きりゅう』と同じ、そこに溶け込むように半透明の何かがいる。

 デモニオがティエラを下ろすと、確かに足元に感触があるのがわかった。


「これが、『かいりゅう』?」

「そうだ。今日は視界が悪ぃし、すぐ着いちまうが……気に入ったらまた来りゃいいし」


 『気龍』と同じようにあっという間に景色が流れていく。けれど、違うのは眼下だけでなく、目線のはるか上にも魚の群れやクジラがひっきりなしに過ぎることだ。陽の届く明るい場所、少し薄暗い深いところ、『海龍』は上下の動きもよくわかる。

 うっかり流れに近づきすぎた小さな赤い魚が、流れに巻き込まれてくるくると回転しながら一緒に流されていくのを、気付いたデモニオがそっと手を貸して助けていた。

 上下左右と忙しなく首を動かしているうちに、デモニオがまたティエラを抱き上げる。


「さ、今日はここまでだ」


 デモニオは軽く飛び上がっただけで『海龍』の流れから抜け出したようだった。辺りは急にのんびりとした世界になって、ティエラは目を瞬かせる。あんなに横になびいていた海藻も、陽の光に手を上げて喜ぶようにゆらゆらと揺れているだけ。

 岩に貝やイソギンチャクがくっついているのを数えながら、二人もゆっくりと浮上していくのだった。




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