3 アンヘルと海
着替えには簡素なワンピースが用意してあった。天使の着ていたような真っ白ではないけれど、亜麻色よりは白に近い色。
顔を洗うのはたらいで、水はデモニオが出してくれるか、外のポンプ式の井戸から汲んでくる。恐ろし気な怪物に生活のいろはを教えてもらっていると、ティエラは召使いにでもされた気分だった。アンヘルの姿がなかったので、余計に怖かったのかもしれない。
「そうビクつくな……つーても、しゃあねぇか。取って食いやしねえんだがな。どれ。最低限ってどんくらいだ?」
そう言うと、デモニオの角と爪が急にぼんやりとして、
「こんくらいでどうだ? 少しは怖さが減ったか?」
二ッと笑う口元の牙も無くなって、それが笑ったのだと理解できるようになる。目を丸くしているティエラに今度は苦笑して、デモニオは肩をすくめた。
「最初に本来の姿を見せておく。そういうルールだったんだよ。で? こんくらいなら、慣れそうか?」
小さく二度頷いたティエラに、デモニオは「よし!」とこぶしを握った。
不思議なもので、鋭く尖った部分がなくなるだけでずいぶん心安らかになる。蛇のような瞳に睨まれたら、やはり怖いだろうとは思うものの、見るだけで殺されるのではないかというような思いはなくなった。
食卓につくと、デモニオは昨日のようにティエラの隣に座った。正面の席が空いているのが何となく寂しい。
「アンヘルは?」
「空のパトロール。というか、散歩? 日課みたいなものさ。空から見下ろせるだいたいのことは知ってるんじゃないか。わからないことがあったら、あいつに訊け」
へぇ、とティエラは瞳を輝かせる。
「デモニオはなにをしってるの?」
「ん? そうだな。海の中のことと……世の中の楽しいこと、かな」
「たのしいこと?」
「そう。歌や踊り、祭りに酒に煙草にギャンブル」
デモニオは言いながらスプーンを持ち上げ、皿やテーブルをリズミカルに叩き出した。リズムに合わせて一節歌う。のびやかな声が思いのほか耳に心地よかった。
「と、まあ、あんまりやるとぬけがけだって怒られるな」
「じょうず!」
「そうか? よしよし。少しは盛り返せたかな。さあ、食っちまえ。生活全部までは面倒見ねえからな。自分のことは自分でできるようになってもらうぞ」
ちょっと真面目な顔になると、やはりまだ少し怖い。ティエラはぶるっと身を震わせて「はい」と神妙に頷いた。
* * *
そうして数日。ティエラは二人と、あるいはどちらかと過ごして、小さな南の島の生活に慣れていった。
アンヘルは優しく規律正しく、美しいものが好き。
デモニオは明るく大雑把で、楽しいことが好き。
どちらも不思議な力を使うけれど、ティエラが身に着けるべきことにはその力を貸してくれなかった。
小さな島を知り尽くし、デモニオが本来の姿に戻ってもティエラが膝の上に居座れるくらいには慣れた頃、アンヘルは「そろそろいいかな」と本来の目的を思い出させるように言った。
良く晴れた風の心地良い日だった。
目覚めたティエラは家の中に誰もいないことに首を傾げて、外に出てみた。家は高台に建っていて、坂道が浜へと続いている。デモニオはたまにそこで釣りをしたり、貝を取ったり、少し沖に出て漁をしていたりすることがあるのだ。
二人は本来人間のように食事をしなくてもいいらしいが、デモニオは「作ったり食べたりするのは楽しい」とティエラに付き合ってくれる。
浜を見下ろせば、デモニオではなく淡い金髪が朝日に輝いて見えた。いつもは浜に下りても泳げないからと水に近づかないアンヘルが、膝くらいまでの深さの場所に立っている。不思議に思いつつも、ティエラは坂を下り始めた。
(泳げないって言ってたのに。デモニオを待ってるの?)
視線が海面に注がれているので、ティエラはそう思ったのだけど、彼女がアンヘルの視線の先に目を凝らした時、突然その海が立ち上がった。
驚いてティエラの足は止まる。
アンヘルの背よりも高く立ち上がった黒い水は、いくつかの塊に分かれてアンヘルへと落ちていく。
「アンヘル!」
ティエラの声にも振り向かずに、アンヘルは少しだけ口角を上げた。
「来ちゃダメだよ」
水の塊だと思ったものは、どうやら群れを成す魚のようだった。鱗や水しぶきに朝日が当たってキラキラと光る。けれど、それは綺麗なだけの光景ではなかった。魚たちの開いた口にはびっしりと鋭い歯が生えていて、それらは一斉にアンヘルへと向かっている。
奇妙なことに、その牙はアンヘルには届かなかった。胸元で何かが淡く光を放っていて、見えない膜で覆われているかのようにアンヘルから少しの距離を開けて弾かれ、落ちていく。追い打ちのように強い風が吹き抜けた。
風は魚の群れの真ん中に穴を開け、戻ってきて渦を巻く。小さな竜巻が魚たちを巻き上げ、浜へ撒き散らすように進んで、やがて消えた。
呆然とするティエラを振り返り、アンヘルはゆっくりと戻ってくる。
その足元で、びちびちと飛び跳ねている魚たちは、彼の足に齧りつこうとまだ足掻いていた。
「おはよう、ティエラ。いい朝だね」
魚たちを蹴散らすように足を運びながら、アンヘルはにこりと微笑む。その胸で、銀色の捻れた角が淡く輝いていた。
「なに、いまの……」
「僕は海の生き物に嫌われてるんだ。でも、心配ないよ。あのくらいどうということもない。僕の傍にいなければ、君がとばっちりを受けることもない」
ティエラに近づくにつれて、角の輝きは薄れて、消えた。
「そうだな。イソギンチャクやクラゲなんかの毒のありそうなものには気を付けてほしいけど……ゲームの間は、浅瀬くらいなら君が溺れても助けられるのが確認できた。さ、朝ごはんにしよう」
背を押されながら、不安気にアンヘルを見上げるティエラに、アンヘルは困ったように首を傾げた。
「君がああして襲われることはないから安心して?」
「アンヘルはだから泳げないの?」
「それもあるけど、元々海の中には興味がない……うん。なかったんだ。彼と知り合うまでは、ね」
一度言葉を詰まらせて、少しのあいだ眉をしかめたアンヘルは、すぐに小さく首を振って、また穏やかな表情を取り戻して続けた。
「僕の力は海の中ではあんまり役に立たない。彼の力も水のないところでは今ひとつ。そういうものらしい。だから、空と海の間の大地は、いいゲーム場なのさ。そろそろ僕の見ているものを見せてあげるよ。君がご飯を食べたら、ね」
「……どこかにいくの?」
アンヘルはにっこり笑って真直ぐに上を指差した。
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