2 天使と悪魔

 隣の部屋はこぢんまりとしたダイニングキッチンという感じだった。

 テーブルの上にはごちそうが並んでいて、少女のお腹はもう一度鳴った。

 大きなロブスターの丸焼きに、貝類がたくさん入ったシチュー、海藻のサラダに、何か魚のフライ。天使がスライスしたパンを焼いてくれて、香ばしい匂いが小さな家中に充満していった。

 テーブルの上から目が離せなくなっている少女に、天使の甘い声が「どうぞ」と許可を出す。おずおずと手を出して、どれを取ろうかその手が迷った。


「俺が作ったのに、あんたが許可を出すのかよ」


 びくり、と少女の手が止まった。


「早く食べさせてあげたかっただけだよ。ほら、そんなこと言うと、意地悪に聞こえるよ?」

「子供には言ってねぇ。ほら、好きなだけ食え。こっちは容姿みためにハンデあるんだから、ちっとは遠慮しろよ」

「ハンデなんて。誘惑はお前の得意分野じゃないか。取れるリードは取っておかないと」

「くっそ。明日からは変身アリなんだよな!?」

「街に出る時以外は最小限というのを忘れずにね」

「わーってるよ!!」


 怪物は勢いのままロブスターを二つに折って、乱暴に殻を剥くと、ほぐした身を少女の皿へと置いた。殻の方は自分でバリバリと食べてしまう。その姿と勢いにまた少し身体を震わせたものの、少女は目の前のロブスターの身をつまんで、おそるおそる口へと持って行った。あっさりとした塩味は、噛むごとに甘さとうま味を口の中に広げていく。いくらでも食べられそうだと目を見開いて、ぽいぽいと皿に飛び込んでくる身を、少女は夢中で口へと運んでいった。




 そのペースが落ち着いた頃を見計らって、天使は口を開いた。


「食べながらでいいよ。聞いて。見ての通り、僕たちは人間じゃない。人によっては悪魔や天使と呼ぶ者もいるけど、そういう役割でもない。この星の、僕は空を、彼は海を、気に入って住み着いた。もうだいぶ長いことね。それで、この南の島で偶然出会った僕らは、時々暇つぶしにいろんな勝負をした。勝ったり負けたり、勝敗は五分五分かな? そろそろちゃんと決着をつけようかということになって……今まで緩衝地帯でもあった空と海の間の大地を勝った方がもらうことにしたんだ」


 なんだか大きな話すぎて、ポカンとしてしまう。


「……もらうって、どういうこと?」


 天使はにっこりと笑った。


「好きにするってことさ。僕が勝てば、いくつかの大陸を空に浮かべたいと思ってるよ」


 と、いうことは、角を持つ彼の方は海へ沈める気なのだろうか。

 わずかに青褪めた少女に、天使は変わらず微笑みを向ける。


「そう怖がらないで。言ったでしょ。安全は保障する。君に怪我を負わせたり、死なせた方は問答無用で負け。ゲーム後も新しい世界に適応して暮らしていけるようにしてあげる。その他に願い事をひとつだけ叶えてあげるよ。ああ、ただし、死んでいる人を生き返らせることはできないし、永遠の命を与えるというのもちょっと無理だ。できるかできないかは確認してもらってかまわないから、ゲームが終わるまでに考えておいてね」


 勝手と言えば勝手な話に、少女は震える。けれど、彼女にはどうすることもできないし、心配するべき家族も友達も思い出せなかった。昏い最期は、その地への未練をも飲み込んでしまったようだ。

 頷く以外を選べなかった少女に、隣の怪物はフン、と鼻をひとつ鳴らしてフライを口に放り込む。紫色の舌が鋭い爪を舐めとる様子から、少女は慌てて目を逸らした。


「じゃあ、お互い呼び名を決めよう。僕らの名は君には発音できないし、名前で呼び合った方が親しみも増すというものだろう?」


 その通りかは判らなかったけれど、すでに少女の中では決まった名があった。それぞれを指差して告げる。


「アンヘル、と、デモニオ」

「天使と悪魔か。いいんじゃない? わかりやすい。じゃあ、君は……」

「俺が『海の者』、あんたが『空の者』なんだから」

「『ティエラ』」


 天使と怪物の声が揃った。


「大地の子、だね。ふふ。ゲームの準備が整っていくね。よろしく、ティエラ」

「よ、よろ、しく……?」


 よろしくしてしまってもいいものか、はっきりと確信が持てないまま、ティエラはアンヘルとデモニオを交互に見やった。どちらも得体の知れないもので、でも、今のところ酷い扱いはされていない。ご飯は美味しく、ベッドには綺麗なシーツと柔らかな布団がセットされている。


「こ、ここ、は、ふたりの……おうち?」

「いいや。この家は君が来るから建てた。この島は俺のお気に入りの場所だってだけだ」

「年中暖かくて、天候も割と安定してる。人が暮らしやすいんじゃないかってね」


 これから勝負をするというのに、二人にギスギスした雰囲気はない。並んで皿洗いをしていても、軽口の応酬程度で、身をすくませたくなるような冷たさもない。容姿こそかけ離れているけれど、彼らはただの仲の良い友人にも見えた。


「僕らは君に自分の好きな世界と自分をアピールする。君は好きな方を、あるいは都合のいい方を選ぶんだ。期限は設けないけど、寿命の来る前にはちゃんと選んでね。さあ、今日はおやすみ、ティエラ。また明日」


 天使はティエラを優しく抱き上げて、その瞼に口づけを落とす。

 柔らかな羽根で撫でられたような感触に、ティエラの意識がふわりと浮いた。つい最近感じた、闇に落ちていくような感覚とは正反対の。

 朝が来るのが怖かったのは初めてではないけれど、少なくとも「この夢の続きを」とティエラが願ったのは初めてかもしれなかった。


 だから、次の朝目覚めて、顔をのぞかせたデモニオに悲鳴を上げてしまっても、逃げ出す気にはなれなかった自分に、彼女は顔を覆った両手の下で小さく笑ったのだった。




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