嘘つきな鱗と譲れない翼

ながる

1 いざない

 死ってくらくて寒いんだな。

 少女は最期の時にぼんやりとそんなことを思っていた。

 よく聞く話のように家族や天使が……あるいは死神さえも、少女を迎えに来ることはなかった。

 ただひとり、暗がりにうずくまりながら、それでもわずかながらの熱を作り出そうと体は震えている。瞳が光を拾わなくなり、どろりとした闇の中に沈んで、やっと楽になるのだと身を任せる。少女だった意識がほどけて闇に混ざり、確かに彼女は一度

 それが。

 突然胸に熱湯を注がれたような熱さと衝撃を感じて、少女はたまらず飛び起きた。

 文字通り飛び上がった身体は、バランスを崩してベッドから転げ落ちる。

 痛い、ということは、自分はまだ死んでいないのか。脈打つ胸に手をやって、力強く拍動している心臓を押さえつけた。自分の中にあるとは思えないほど弱々しかったリズムが、今は熱を持ちながら体中を駆け巡っている。

 は、と自らの吐く息の音を聞いて、少女は呼吸を意識した。

 吸って、吐いて。今度は少し長く吐いて、吸って。思い通りに呼吸できることが不思議でならなかった。


「暴れるかも、って言っただろ? なんで手を出さないんだよ」

「暴れて引っかかれるのは嫌だもの」


 そんな会話が聞こえてきて、ようやく少女はその場に他に人がいるのだと気が付いた。何か違和感があるけれど、ゆっくりと声のした方へ顔を向ける。編み上げたサンダルがまず目に入り、白い下衣にゆったりとした白いシャツ。桜色の唇とスカイブルーの瞳に細く淡い金の髪……そこまで見上げて、その金髪の奥に白い翼が揺れるのを見て、少女は息を飲んだ。

 うつぶせた体勢から起き上がった身体は、そのまま止まることなく傾いて、今度はぺたりとお尻が床に着く。

 少女を見下ろしている瞳が不満気に細められた。


「……運動野が正常に機能してないのか? お前は嘘ばかりだな」


 たおやか、と言っていい細腕が少女を抱き上げ、ベッドの上にその身を下ろす。


「違うって。どう見たってあんたに驚いてるだけだろう」


 世間でいう、天使のような人からようやく視線を外して、少女はもう一つの声を振り向いた。同じように白い翼をもつ人なのではないかと思ったのは、彼女でなくともそうだっただろう。そうならば、自分はやはり死んだのだと、きっと彼女も納得したに違いない。

 振り向いた先には、蛇のように縦長の瞳孔を持つ金色の瞳が鎮座していた。灰色がかった不健康な肌の色に、組んでいる腕には青とも緑ともつかない色の鱗が生えている。髪は少し明るめの茶だが、傷んでいるのか艶はなく、額の左上部分に銀色のヤギのような捻れた角が一本、髪を割って突き出していた。動きを止めてしまった少女は、それが口を歪めて獣のような牙が見えた瞬間、悲鳴を上げて天使に縋りついた。

 少女の体をゆるく抱き締め、天使は嬉しそうな声を出す。


「僕が一歩リードかな」

「まあな。見た目に関しちゃあ、仕方ねぇな。それに、運動野も問題なさそうだろ?」

「そうだな。たぶん。ちょっと歩いて見せてよ」


 あっさりと体を押しやられ、少女は戸惑った。何が起こっているのかわからない。自分はどうなったのか。彼らは怪物と天使なのか……それとも、怪物と怪物なのか。解るのは、要求に従っておかなければという恐怖と力関係だけ。震える足で、少女は向こうの壁まで行って、振り返った。

 ベッドと、サイドテーブルに角灯ランプ。小さなクローゼットと本棚があるけれど、ほとんど空だった。ベッドを挟んで怪物と天使が少女を見ている。天使の手に銀色の捻れた角が握られているのに、少女は気が付いた。怪物のものに似ている。


「問題なさそう。声は出るようだけど、話せる? 僕たちの言うこと、解ってる?」


 そこで少女は最初に感じた違和感の正体に気が付いた。

 全く、聞いたことのない言語だった。でも、解る。小さく頷いてから、少女は慌てた。


「わ、わかる、けど、はな……はなせるか、は……」

「おーけぃ。充分」


 満足そうに笑むと、天使は握っていた角に視線を移した。見ている間に、するすると縮む角に驚く。銀色の巻貝のようになった角に、天使は革紐を巻いて首にかけた。怪物は特に何も言わず、少女と同じように一通りを眺めているだけだった。

 バランス的に右側の角ではないのか、と思わず確認したぶしつけな視線に気づいたのか、怪物が少女を見やる。彼はまた口元を歪ませようとして、少女が怯えて身をすくませたので、やめて小さく肩をすくめた。


「では、まず確認だ。君は名前を憶えてる?」


 ハッとして、少女は答えようと口を開け、天使の顔を見上げて愕然とする。自分の名前が出てこない。口を開け閉めする様子を見て、天使はうんとひとつ頷いた。


「別に、おかしくない。そういう風にしたのだから。心配しないで。両親、友人、嫌なやつ。好きな人。関わりのあった誰かの記憶は?」


 そう言われて思い出そうとしてみるけれど、少女の頭の中にはぼんやりとしたイメージがあるだけで、どう暮らしていたのか、誰と関わって生きていたのか、何一つ具体的なことが出てこなかった。ひとり寂しく闇に落ちたことだけが、はっきりとしている。

 ゆるゆると首を振れば、少女の重たい気持ちとは裏腹に、天使は爽やかに笑った。


「いいぞ。こんなに理想的にいくとは。いいかい。君は生まれ変わったんだ。厳密には違うけど、そう思っていて問題ない。それでね、君には僕たちのゲームに参加してもらいたいんだ。ああ、安心して。君はプレイヤーではなく審判だから。安全は保障しよう。やることは僕と彼、どちらを選ぶか。簡単だろ? 期限は無し。君がどちらかを選ぶと宣言した時点でゲームは終了だ。とはいえ、現状僕が有利だろう? フェアにいきたいからね。少し僕たちに慣れてから、ゲーム開始だ」


 自信満々に微笑んで、天使は翼をゆるく広げた。


「さあ、質問は? お嬢さん」


 わからないことが多すぎて、すぐには言葉が出てこない。「あの」とか「えと」とか無駄な音を口の中で響かせているうちに、少女のお腹が小さく鳴った。

 天使は少し呆れた顔をして、怪物は口元に手を当てて喉の奥でくくっと笑う。


「まずは食いもんだとよ。盛大なディナーといこうぜ」


 鋭い爪のある大きな手を広げられ、少女は自分が食べられるのではないかと、少しだけ飛び退いた。




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