4 空の散歩

 お腹をしっかり満たしてから外に出ると、アンヘルは家の中では消している翼を大きく広げた。片羽から小ぶりの羽根を一本抜くとティエラの頭へと突き刺す。不思議と痛くはない。

 アンヘルはそのままティエラの手を取った。まずは正面から両手を。


「行くよ」


 ばさりと、力強い羽音がした。

 アンヘルと共にティエラの両足も地面を離れる。不安定さに身体が揺らいだものの、アンヘルの手はしっかりと彼女を支え、その声は彼女を力づけた。


「下を見ないで。僕を見て。信じてもらえるほど僕の力は届きやすくなって、安定するから」


 顔を上げたティエラに、アンヘルはにっこりと笑う。


「そう。ちゃんと力が届いていれば、手を放しても簡単には落ちない。でも、今日は手を離す気はないから」


 アンヘルが話している間も、二人はどんどん空へと近づいていた。体が軽くてふわふわする。緊張と下を見てみたい好奇心と、見てしまったらやっぱり落ちそうになりそうで、ティエラは何も言えずにただアンヘルの綺麗な顔を見つめていた。


「いい子だ。もう少し」


 何が、とも聞けないまま、周囲に白い霞が現れては消える。それが雲だと気づくのは、もう少し後だった。

 上昇が止んでアンヘルはしばらくその場にとどまっていた。ティエラはもうここが到着なのかとそっと左右に視線を走らせる。彼女の目には雲の連なりと、雲のところどころに空いた穴が映っていた。


「少し降りるよ。足がつくと思うから、ついたら片手を放して教えて」

「えっ」


 こんな空の上でどこに足がつくというのか、アンヘルは雲の上に乗れるのだろうか、と疑問に思っているうちに、確かに足がなにかについた。思わず下を見たティエラは、足元に何か半透明の台のようなものを認めて、でも怖くなってしまう前にまたアンヘルの顔に視線を戻した。おそるおそる片手を放す。


「よくできました。もうすぐ雲が切れるよ。そうしたら、景色が見える」


 アンヘルはティエラの手をそっと引いて、歩き始めた。

 アンヘルの足元は何も無いようにも見えた。でも、彼が踏み出した足がにつくと、しばらくの間半透明の床か何かが見える。床の下は雲が広がっていて、すごいスピードで後ろへと流れていく。ティエラの足の裏にも確かに踏みしめる感触があって、固いけれどまっ平ではない……木の根があちこちから土の上に張り出した森の中を歩いているような気分だった。

 しばらく歩いてアンヘルが立ち止まり、正面を指差した。


「ほら、雲が切れる」


 白い海原をアンヘルとティエラを乗せたものは飛び出した。

 眼下にはただただ青い海が広がっていた。キラキラと陽光を反射する海面にしばらく目を奪われているうちに陸地が近づいてくる。緑に覆われたジャングルから何かが一斉に飛び立って、風に並走しようとした。それらはすぐに後方へと置き去りになり、今度は人の住む家やビルが模型のように並ぶ景色がやってくる。まばらな雲や薄いベールのような雲が現れては消え、瞬きするごとに景色は変わった。

 呼吸も忘れたようにそれらに見入っているティエラをアンヘルは満足そうに眺め、もう一度正面を指差した。


「次は夜が来る」


 青かった空はしばらくのあいだ黄昏の顔をして、すぐに深い色へと着替えていった。今度は空中に瞬く星々から目が離せない。アンヘルが「ほら」「こっち」とたまに指差す先には、地上に落ちた星明りや、月明かりが白い道を作る藍銀色の海が横たわっていた。

 やがて、海の向こうが白み始め、朝がやってきた。


「……きのうはどうなっちゃったの?」

「どうもなってないよ」


 可笑しそうに笑ったアンヘルが、離していた方の手をもう一度とって翼を広げた。二人の体は再び上昇して青い空に抱かれる。


「今のが一番速い『気龍きりゅう』。ちょっと落ち着かないから、乗り換えるよ。移動するからついてきて」


 泳ぎを教える人のように、アンヘルは後ろ向きのままゆっくりと進んだ。ティエラの体は引かれるがまま進んでいく。すぐ下の雲に二人の影が落ちていて、高さを感じないでいられた。「大丈夫そうだね」と、彼は片手を放し、ティエラの横に並んだ。


「きゃっ……あ、アンヘル!」


 不安になって繋がれた方の手にしがみつけば、彼はなんてことないかのように笑った。


「大丈夫。そのままでもいいけど、手を広げてごらん。バランスがとりやすくなるし、誘導もしやすくなる」


 迷いながらも、ティエラはゆっくりと自由な方の手を広げていった。少しずつ風が下から支えあげてくれる感じがする。繋いだ方の手も徐々に伸ばしていけば、アンヘルが手のひらと指先で押したり引いたり方向を指示しているのが解った。右へ旋回して、次は左。上昇と下降。まるで翼が生えた気分になってきて、ティエラの顔はほころんだ。


「うまいうまい。その調子でついてきて」


 アンヘルはティエラを褒めると、雲の切れ間から下降を開始した。白いトンネルはすぐに消えて、青い水面が見えてくる。その高さに目がくらみそうになったティエラの手を力強く掴んで、アンヘルは前方へと彼女を促した。


「前を見て。少しだから、頑張って」


 顔をこわばらせ、時々ふらつくティエラを根気よく励まして、アンヘルは飛び続けた。やがて制止を促すと、自分だけ空の途中に。とたん、彼女の体が引かれる。彼はティエラを引いたまま振り返り、「おいで」ともう片方の手も差し出した。

 ティエラがアンヘルの胸に飛び込めば、しっかりと抱き留められ、そのまま彼の立つ場所へ降ろされる。そこは先ほど乗っていた『気龍』と同じ感触がした。


「さっきとは違う『気龍』だよ。少し低いところを巡ってる。こちらだと景色を楽しむ余裕があるかな?」


 アンヘルの言う通り、今度はゆったりと景色が流れていた。海辺では海鳥が、都会では鳩やカラスが、アンヘルを見つけては並走し、時には肩や頭にとまって挨拶していく。山の奥深くを蛇行しながら進んだ時は、ティエラと変わらない大きさの変わった鳥がやってきて、ティエラをひと睨みした。胸から上が女の特徴を持つその鳥はアンヘルには甘えた声を出す。


「お久しぶり、美しい人。本日の御用は?」

「今日はないよ。彼女に見学させてるだけ」


 繋がれた手をちょっと掲げてアンヘルが答えると、彼女は渋々といったようにティエラに挨拶をした。


「人の子にあなたの羽根を? こんにちは人の子。美しい人にご迷惑はかけないように。それとも、迷惑をかけているのはその胸で嫌な気配をさせているヤツかしら」

「ふふ。今回のゲームには必要なんだ」

「またですか。あんなのとゲームをするのはおよしなさい。暇潰しならいくらでもお付き合いいたしますのに」

「ありがとう。必要なら呼ぶよ」

「ええ。ええ。お待ちしてます!」


 頬に軽いキスを受けた彼女は、嬉しそうに輪を描いて去って行った。

 また広い海に出てから、アンヘルはそっとティエラに耳うちをした。


「僕の羽根を持っていれば大丈夫だけど、それでも彼女達には気を付けて。時に凶暴で残忍な一面を持つからね。何かあった時は必ず僕か彼に報告するんだよ」


 何があるというのかわからないけれど、ティエラはとりあえず頷いた。

 そうしてしばらく大空を『気龍』で駆け回り、陽が沈みかけた頃、二人は小さな島の家へと戻ったのだった。




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