第4話 トレーと日原君。それから猫。えっち。


 ボクは公園の一角のベンチに腰を下ろす。


 ここは時々猫の集会が見られる、お気に入りの場所なのだ。猫は警戒心が強い生き物だ。そんな猫も、やはり人は見るようで。近づいても良いと思う人間と、距離を置いて見ていたい人間と。区別しているように見えるかくいうボクは……。


 ――絶対に、近づきたくないニンゲン。

 そういうことなのだろう。


 死臭がするのかもしれない。

 ずっと、研究をしてきた。


 研究を続けるということは、多くの命を代償にするということでもある。

 それは、自分のためだった。


 でも、今は爽君という理由がある。でも、それも言い訳で。どんなに言葉を言いつくろっても、正当化なんかできない。


「……そんな思い詰めた顔をしたら、猫も緊張しちゃうんじゃないかな?」

「日原君?!」


 考え事に夢中で、全然、隣に座る日原君に気付かなかった。


「ど、どうして、ココに?」

「……へへ。せっかく、友達からって、水原さんが言ってくれたからね。どうせなら、一緒に帰ろうって思っていたのに、もういないからさ。今日はダメかなって、思っていたら、水原さんを見つけちゃったんだよね」


 ニコニコ笑って、そんなことを言う。ボクは今、きっと呆けた顔をしているんじゃないだろうか。


「……あ、もしかして。邪魔しちゃった?」

「い、いや……そんなことは、な、ないよ?」


 緊張したらドモる。日原君は、こういう感覚だったのかもしれない。


【心拍数の上昇を検知。他、バイタル値は正常。特に脅威は感じられません】


 支援型システムあーやが警告を発するが、余計なお世話だった。

 見れば、きょとんとした顔をして――それから日原君が笑みを溢す。


「え……なに?」

「あ、いや、その。なんでもないから」


「え? 何? すごく気になるんだけど」

「あ、そんな、たいしたことじゃ……その、水原さんの、そういう顔、初めて見たから」

「え?」


 自分の顔が分からない。今、ボクはどんな顔をしているのだろうか?


「そういう顔、良いと思うな」

「にゃー」


 日原君の声に賛同するかのように、猫の鳴き声がして――猫?

 ボクは目をパチクリさせた。

 ボクの足元に黒猫がいる。興味深そうに、ボクを見上げていた。


「ほら猫も、そんな水原さんが良いってさ」

「いや、良いも悪いも。ボクは、そんなガラじゃないし――」


 日原君と話をしていると、調子が狂う。ボクの時間は、とっくに失われているのだ。高校生とお友達ごっこをする余裕なんか――。

 と、膝の上に質量を感じた。


「へ?」


 見れば、猫がボクの膝の上に飛び乗っていた。それから肉球でふみふみと、スカート越し、ボクの大腿を揉む。それが、妙にくすぐったい。それから、なぜかスカートに鼻を埋めて、クンクンと匂いを嗅ぎはじめる。


「こ、こら――!」


 猫は、人間の2倍、嗅覚細胞をもっていると言われる。研究室ラボに無造作に、制服をかけていた。


(いや、ハンガーにかけてくれるのは、爽君とひなたちゃんだけれど)


 遺伝子研究において、少なからず、培養実験や負荷実験で薬剤を使用することがある。猫は、その匂いを敏感に嗅ぎ取ったのかもしれない。


 浮かれすぎ、と自分を戒める。

 日原君は一般人なのだ。やはり、彼との距離は置くべきで――。


「良いなぁ」


 羨望の声が、日原君から漏れた。

 絶賛、猫がボクのスカートに顔を埋めている最中で。

 ボク、それから猫、日原君の視線が混じり合う。


「……え?」

「にゃー?」


「え、あ、いや、違うよ! 膝の上に乗った猫が羨ましいって、だけで。水原さんが、思っているようなこと、考えてないから!」

「ボクが思っていること……?」


 耳朶まで真っ赤にさせる、そんな日原君を見やりなが悪戯心が芽生える。


「ボクの膝の上に乗りたかったの?」

「ち、違うから!」

「それとも、こっち?」


 ピラッと少しだけ、スカートをめくってみせる。


「ちょ、ちょっと!」


 慌てて視線を逸らすのが、なんとも可愛い。いざって時に動けないのは困るから、中はスパッツだけどね。実験室の研究者である以上、不測の事態は、いつだって起こり得るのだ。

 それにしても――。


 スマートフォンの地図アプリを見やる。

 ボクが独自に、アレンジしたものだ。


 一般的に、旧型コロナウイルスの感染者数は、報告をされていない。


 唯一、各医療機関から、地域の医師会に報告される旧型コロナウイルス感染情報。そのデータベースが存在していた。


 基本、関係者以外アクセスは不可。でもセキュリティー対策が甘すぎた。データを少し拝借した程度では、気付きもしないのだから、お気楽なことである。


(……感染者数は微増、だね)


 ワクチンは重症化予防。免疫の低い高齢者、心疾患、呼吸器疾患がある患者はリスクが高い。これは、もはや既定の事実。だけど、このウイルスは本当に旧型コロナなんだろうか?

 そう思ったボクは、ウイルスのサンプルを取得するよう指示を出す。



SOUソウ:了解。



 ダイレクトメッセージが返ってきた。それからボクは――。





「水原さん、聞いてる?!」


 必死な顔で詰め寄る、日原君の距離が近い。


「へ?」

「だからボクは、そういういことが目的じゃいから! ただ、水原さんと一緒に過ごしたいって思っただけなの!」


 真剣な表情で、訴えかけてくる。そういう姿は可愛いと思ってしまう。あーやから言わせると『そういうトコだぞ、茜ちゃん!』と言われるような気もするけれど。


 でも、ボクからしてみれば、教師に扮したあーやだって、馬子にも衣装。可愛い過ぎて、殿堂入りだった。


「……うん、分かった、分かったよ」

「それ絶対、分かってないヤツだよね?」

「分かってるって」


 ニヤリと笑ってみせる。いつも、あーやを揶揄からかう時のように。


「日原君がエッチだってこと」

「やっぱり分かってないじゃん!」

「分かってるって」


 クスッと笑って、それから日原君の耳元に囁いてあげる。


「えっち」


 面白いくらいに、日原君が凍り付いた。


「――だからぁ!」


 ますます顔を真っ赤に染め、声を荒げて。そんな純情な日原君を尻目に、ボクは頬が緩むのを、止められない。バカみたいに笑ってしまう。


 たまには、こういう時間も、許してもらえたらって思う。

 どうせ、こんな時間はすぐに終わってしまうのだ。


 でも。

 だから――。


 やっぱり、気が緩んでいたのだと思う。


 脳裏に響いた警告アラートを聞き逃すくらいには、ボクは舞い上がっていたのだ。






【申し訳ありません、対象の接近を把握できませんでした】

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