宿題

桜舞春音

宿題

 —名前の意味を探しておいで。それがママからの大人になるまでの宿題。


滋賀県彦根市。彦根城、琵琶湖で有名なこの地のはずれに、一人の少女が原付を飛ばしていた。

ヘルメットからはみだして暴れる茶色い髪はお世辞にも綺麗とは言えない。美少女と言うには冴えない目つきをした少女の名は三織みおり。彼女は十六の夏に身分証と移動が目的でとった原付免許を行使している。

母親が市内のスーパーへの通勤に使っている電気自動車タイプのスクーターは別に静かでもなく乱雑に走る。三織は家のある住宅街から大通りを挟んだ向こう側のマンションに原付を停めた。先にバッテリーをサブの物に換えておく。シート下にバッテリーを置くタイプの黄色い原付は、ヘルメットの置き場がなかった。仕方なく三織はヘルメットを小脇に抱えてマンションの風除室にあるインターホンで七〇五号室を選択して呼び出しボタンを押した。

「はい。」

出たのは中年の女性らしき声。三織が

弘人ひろとくんお願いします。」

と言うと、女性は後ろを向いたようで「ひろと~!」と呼んでいた。


少し遅れて弘人はモニターで三織を確認した後、「どうしたの?」と言う。

「どうしたの?じゃないわ!報告があるからこっち来て!」

三織は取り敢えず興奮していた。


弘人が来るまでに、三織は手鏡を見て前髪を直し汗を拭いた。ガラス張りで陽が入る南向きの風除室はそこまで涼しくない。

「三織、どうしたんだ。」

弘人は見慣れた制服やデート服より相当ダサい服で出てきたが、そんなことを言っている暇はない。


「弘人、ねえ聞いて!赤ちゃんが出来たの!」

三織はそう言って、さっき試した妊娠検査薬の結果を掲げた。


三織と弘人は付き合って二年六ヶ月一四日になる。なんでそこまで細かく覚えているかと言われれば二人とも知らない。

先日行為を行う際にゴムが破けてしまったが、気付いたのは弘人が果てた後。弘人は産婦人科で薬を貰うことを勧めたが、三織は楽観的な考えで放置していた。


「だから病院行けって言ったのに...」

弘人は喜ぶどころか頭を抱え始めた。三織は首を傾げ声を張る。

「どうして喜んでくれないの⁈ウチたちの赤ちゃんだよ?嬉しくないの?かわいくないの?」


ウチは嬉しかったのに。

そんな思いだった。勿論もちろんこれは望まない妊娠と言う奴だ。それに弘人には責任はないと思う。だって自分があの後まともに対策しなかったのが原因なんだから。それでも今の三織は原因と言う表現に違和感を抱くほど幸せだった。

赤ちゃんへの漠然とした憧れはあった。卒業後は弘人と結婚して子供を産むつもりでいた。それが早まっただけで、一体何を悩むことがあるのか、三織には理解できなかった。ニュースでは一〇代の出産は危険と言っていたが、女の生理も男の精通も早ければ小学生くらいで来るんだから、高校生ともなれば大人と然程さほどかわるはずないと思う。


「とりあえず適当に理由つけて母さんに言っとくから、産婦人科行こ。」

弘人はそれだけ言って着替えに戻っていった。


三織は原付をマンションの駐車場に停めた。探したらメットロックが装備されていたので、メットはそこに置いておいた。二人となれば原付は使えない。押して歩く原付ほど邪魔なものはこの世に存在しないだろう。

弘人はすぐに降りてきた。デートの時よりは軽装だが、鞄は珍しく帆布製リュックだった。

産婦人科は歩いてすぐのところにある。三織の母親には現地集合と言ってある。

その間も、弘人は浮かない顔をしていた。


「三織!急に産婦人科って、なによ?まさか...」

母の淑子よしこは慌てた様子で三織を問い詰める。

「なんで家を出る前にそれを言わないのよ!」

「だって赤ちゃんがいるかもしれないなんて言ったら原付に乗せてくれなかったでしょ。弘人の家遠いんだから。あとこの病院も。」

三織は唇を尖らせる。


「これは確実な妊娠ですね、まだ四週目ですが、比較的成長が早いですね。」

医師はそう言った。三織はお腹の子の存在が確実となったことを心の底から喜んだが、横を見ると淑子までもが深刻な顔をしている。


「弘人、お母さん、何その顔。さっきからそう。何で嬉しくないの?」

三織は言った。すると淑子が涙目で三織を見る。


「あんたが弘人くんと何しようが勝手だけどさ、話を聞けばあんたが対策していれば防げた妊娠じゃないの。どうして...」

三織の検査中、二人は妊娠の心当たりについて話していたらしい。

三織が理解できないまま首をかしげると、医師まで衝撃的なことを口にした。


「三織さん、あなたは確かに、赤ちゃんが出来て嬉しいと思います。ですがまだ十七歳ですから、母子ともにリスクが伴います。」

医師曰く、十代後半と言えどまだ体は未熟な点も多く、未熟児や流産の確率も「妊娠適齢期」である二十代より高いらしい。さらに学業との両立の難しさ、就職も道が限られることなど、社会的に不利になる事も多いという。

「なんでですか?世間では産め産めって言われてるじゃないですか!なのに何でダメなんですか?」

三織は意味が分からなかった。―若い母親が冷ややかに見られるのはなんでなの?


家に帰ると、三織は脳卒中の後遺症で寝たきり、会話もままならない父親と弘人も含めて家族会議を開いた。

「ウチは産む。この子を産む。絶対死なせたりしないんだから。」

三織はそれだけ言った。淑子は黙っている。弘人は

「三織がそう言うなら、僕も賛成だよ。バイトも出来るし、お金は頑張るよ。」

と言った。


すると淑子が突然

「いいや、三織、その赤ちゃんをろしな。」

と言った。いつになく低い命令口調で、俯いたまま〝言い放った″。

「お母さん...?何で?」

今まで淑子が三織のやりたいことを止めたことなんてなかった。ピアノがやりたいと言って二か月でやめたいと言ったときも、ダンスを始めるときも、弘人と付き合うのだって許してくれた。赤ちゃんが欲しいっていったら、笑顔で「じゃあ頑張らなくちゃね。」と言った。


「あんたは事の重大さを理解してないんだよ。妊娠が原因の体調不良は大人の女で早くても一年くらい続くの。それに学生で育児なんて疲れるわよ。わたしの姉さんだって、産後うつでああなっちゃったんだもの...。」

三織は言い返せなかった。三織の伯母は産後鬱で現在名古屋にある施設にいる。そして三織の従弟いとこにあたる息子の圭太けいたは虐待で亡くなっている。

話によれば、産後鬱はひどくなると自分の子どもが人間だと思えなくなるような感覚に襲われ無意識に虐待をしてしまうことも多いという。

「いや。折角せっかくウチをママに選んでくれたなら、死んでも産む。墓から這い上がってでも世話するわ。ウチは強いママになる。」


淑子はそんな娘の目を見た。

これまでのどんなお願いよりも真剣でまっすぐなその薄茶の瞳を。

「わかったわ...。弘人くん、あなたも協力してくれるわよね?」

弘人が頷く。

「いいこと、三織。お腹の子かあんたのどっちかが危なくなったらすぐ堕ろす。産んだら進学せずにその子をわたしたちと弘人くんの家庭とで支えてあげるから、皆で育てる。この二つを約束して。」

三織は脳内でその内容を反芻はんすうした。弘人はバイトである程度稼いでいるし、何より向こうの家は公務員の父親と大企業の開発チーフの母親を持つエリート金持ち一家。三織は大して深く考えずに

「わかった。約束する。」

と言った。


それからの日々は地獄だ。

まず強烈な吐き気と腹部の痛み。そりゃあ、何を食べても赤ちゃんに栄養を取られていくんだから体調なんてよくならないし、人間の中に人間が居て痛くないわけがない。神様は何でこんな訳の分からない体を作ったのだろう。卵みたいにポンって産まれてきて温めるだけなら楽なのに。愛する赤ちゃんだが、正直体内に生きたままの人がいると思うと気持ち悪かった。

弘人はとてもよくしてくれた。中には妊婦に暴力を振るい罵詈雑言を吐き別れた後の養育費も送らないという最低極まりない男もいるようだが、弘人は優しかった。元々部活以外に趣味もなくお金を使わない人だったというのもあり、よく自分の小遣いやバイト代でいろんなものを買ってくれた。

「弘人、悪いよ。ウチの為に...。」


その日も弘人は吐き気を軽減すると絶賛のツボ押しグッズやお粥の材料を買ってきてくれていた。

「ううん。三織もママだけど、俺もパパだから。当たり前でしょ?」

弘人はニカッと笑った。いつになく眩しい笑顔だった。三織は子どもって母親独りで育てていくものだと思っていた。世の中の風潮はそんな感じだというのも知っていた。

でも冷静になれば、家族全体のサポートがあるのも、父親が積極的になるのも当たり前だった。イクメンなんて言葉で飾らずともそんなこと義務。弘人は本当にいい奴だと思った。同時に、父親がこの人で良かったと心底安心した。


「男の子ですね。成長は順調ですよ。」

妊娠七ヶ月目の検診で、子どもの性別が判明した。三織が欲しいと言っていた、男の子だった。

弘人は喜んでいた。淑子は喜びと共に安心で涙ぐんでいた。


しかしこの頃になると、つわりより腹部の痛みが勝った。ネットで調べるとこの時期には胎動による痛みはしばしばあるという。医師からも、検診で正常な発達が認められ、胎動さえあれば心配ないということだった。


そして翌年の四月、三織は帝王切開で予定日の四日前に出産した。

初めて抱いた赤ちゃんは温かくて、柔らかくて、弱かった。

三織と弘人、そして淑子はこの子を一生守ろうと再度固く誓った。


退院後はしばらく体力が戻らず、三織は子育てをしながらも学校には行かなかった。

母乳の出も良くなく、医師の勧めでミルクに切り替えた。

「この子の名前、息織いおりにしようと思う。」

三織はその日弘人に告げた。そろそろ出生届を出さなければいけない。名前の欄のみ決まっていなかった。

「いいんじゃないか?素直に育ちそうだ。」

弘人はいつもと同じ笑顔で言った。


なんて幸せな空間なんだろうと、三織は思った。愛する「夫」と息子がいて、支えてくれる人たちがいる...。ケースバイケースと言えど若くして産むのは大変だと言われている。でも周りの協力があるかないかですべては変わる。

三織は果てしない幸せを感じていた。しかしそれも長くは続かなかった。


翌日。

弘人がバイトをしている間何もしないのも申し訳ないと、回復してきたなけなしの体力でニュースを見ながら三織が掃除をしているとニュースキャスターの声が鮮明に耳に入ってきた。

「速報です。滋賀県彦根市のファストフード店に民間業者のトラックが突っ込む事故があり、現在火災が発生した模様です。」


「この近くやないの、怖いわあ。」

三織が何となく聞き流していると、三織のスマホが鳴った。SNSの通知だ。入院してからしばらく使っていなかったが、覗いてみると友達からのメッセージだった。

その言葉を見て、三織は言葉を失った。


—ニュースでやってる火事の店って、弘人くんのお店だよね...


三織はテレビに目線を映した。上空からでぱっと見では分からないが、よく見れば、弘人が働いていて、今日さっき出勤した店だ。


三織は弘人に電話した。

発信音がこんなにも遅く、長く続いたのは初めてだった。そして、留守電にもならず電波が途切れた。メールもラインも届かない。SNSでは火事がトレンドに上がり、野次馬のコメントは着信音だけで三織を苦しめる。さっきの友達が全世界に公開されるSNSで連絡してしまったために、野次馬は三織のアカウントに集中攻撃を始めた。


「やめて...やめて...もう、やめてーーーっ!!!!!」

三織は持っていたスマホを投げる。壁に当たって鈍い音がして、通知音がなくなる。壊れたかもしれない。今はどうでもいい。

テレビの電源を切り、床に突っ伏して大声で泣いた。ただひたすらに、大声で。


結局例の店舗は全焼。

フライドポテトや大量の調味料に引火し、火元がトラックの軽油だったことが鎮火を遅らせたらしい。警察は運転手の取り調べ、車体や防犯カメラ映像の情報からトラックの不具合による事故として処理し、運転手には禁固二年、執行猶予四年の非常に軽い判決が下った。


焼け跡からは、弘人と思われる男性の遺体が見つかった。顔以外は焼けてボロボロになり、その目は固く閉じられていた。三織は弘人物体を前に、カラカラの涙腺を絞る様に泣くしかなかった。


三織は葬式から帰ると、ベビーシッターにお礼を言うこともなく玄関に崩れ落ちた。


もう愛した人はいない。

息織はあんなにかっこよくて優しくて一生懸命なパパを知らずにこれから生きる。

何よりウチまでこんなに壊れてしまいそうなのに、息織の育児、家事に追われる日々が始まる。

色々な感情が三織の中で喧嘩し合う。三織は息織を抱き、ミルクをあげると、

「息織のためにも、弘人の分まで強く生きなくちゃね。」

と決意を口にした。


しかし現実はそう簡単なものではない。

善意でやってくれているのは解るのに、同情やお悔やみの言葉が嫌だった。の回数は息織より三織の方が多かった。

さらに恐れていた事態が起こった。


息織が泣いている。


—ああ、おむつ換えてあげなきゃ、何か臭う...

—もう少し待ってよ、ママ今頑張ってるよ。

—どうしてそんなに泣くの?


気付いてから十五分が経っていた。

それでも何も考えられず、やっと重い腰を上げて息織の作業おむつ替えをする。

排泄物がずっと肌に触れていたせいで息織の下半身はかぶれて赤くなっている。

痒いのか、何をしても泣き止まない。


—どうしてなくの。おむつはかえて、ごはんもあげたじゃない。

—何が気に入らないの、どうして喋らないの。

—ママを苦しめたいの。ママなんてパパみたいに死んじゃえって言うの。


「…ギャンギャンうるさいんだよーーっ!!!!!」


三織は腕を振り上げた。駄目だ、とわかる。手をあげちゃ、駄目だ。

なのに、理性は身体から遠く離れている。

やばい。これは絶対に、産後鬱だ。


「お待ち!」

間一髪で、淑子が腕をつかんだ。今まで宇宙人の様な何かに視えていた息織が、かわいい息子となって三織の目に映る。三織は声をあげて泣いた。ごめんなさい、と誰に向けたかもわからない謝罪を叫びながら。


—弘人、ウチ、ママ失格だ...


 三織は産婦人科医の勧めでカウンセリングを受けた。三織はそこで産後鬱と診断され、鬱症状を抑えるため抗鬱剤を飲みながら生活した。三織はすぐに復帰したが不安定なのは相変わらずで、淑子に何日も息織を預けることがあった。

そんな生活もすぐに終わった。弘人がいなくなって一年もすれば三織は元に戻り、すっかり母親になっていた。

「あれ~?三織?ママじゃん。大変だねw」

弘人と共に失ったのは友達だった。でもそれは三織から望んでしたこと。息織や弘人の存在を笑う奴等に、ウチの友達なんて称号勿体無もったいない。

息織は元気に成長し、六歳になった。明日は小学校の入学式だ。

小学校入学は物入りだった。

費用は軽く収入を超え、入学後も細々とした出費が続いた。この時三織は二三歳。そろそろ真剣に手に職を付けなければならない。しかしあの後結局高校を中退し最終学歴が中学になる三織に就職は難しく、バイトを続けるしかなかった。


三織は息織を見た。小学生になり、いつの間にか大きくなった。

息織が素直に育っている。それは三織にとってどんなことよりも嬉しいことだった。


三織は、今日も布団で寝息を立てる息織の頭を撫でた。


 —六年後— 

「息織の名前の意味を探しておいで。それがママからの、大人になるまでの宿題ってことで。」


息織は驚いた。まるで「今夜までに夕飯のメニュー決めといて」とでも言う様にさらりととんでもない宿題を出されて驚かない人は少ないんじゃなかろうか。しかもそれが実の母親からの宿題だったわけだ。

息織は明日中学入学を果たす十二歳。母の三織は祖母の支援を受けながらこの家で息織を育てる二九歳。高校二年生で息織を産み、その年に父である弘人を亡くしてから一人で育ててくれていた。


自分の名前の意味。

三織からは何も聞いていない。それがより息織を混乱させた。名前を付けた親からして意味を探して来いという。息織の単純な脳みそには理解に時間がかかった。


「わたし今日仕事だから。帰り遅くなるけど、九時までには帰るわ。」

三織は今飲食店でバイトをしていた。週五でのバイト、ネットフリマの僅かな収入は生活費で消える。プラスアルファの教育費などは、父方の家と母方の祖母からの仕送りで成り立っている。何とか借金はせずに生きられているが、絶望的な経済状況であることは息織にも解る。


息織は外に出た。

この暑い日に家にいればエアコンやら照明やらで電気を使う。それよりは気晴らしに自転車に乗った方がいいと思った。息織のコンフォートスポーツタイプの青い自転車は隣の人から譲り受けたもの。乗り心地は荒いが、乗れれば問題ない。息織はメットを被り、琵琶湖周辺をサイクリングして家に戻った。風呂に入って髪を乾かせば三織が帰ってくる。

その日の夕飯は店で貰ってきたらしいパスタだった。


入学式の間も、昨日三織から放たれた言葉が息織の脳内を支配していた。別にこれといった意味なんてない、ただ似せただけ。言おうと思えば名前なんてそんなもんだと言えてしまう。でも息織はそういう事ではなさそうだと知っていた。


「お前の母ちゃん高校生で産んだんだろ?やばくねw」

「あの子のお母さん遊んでたらしいよ...」

「うーわwそういう女の子どもってやっぱやばいんじゃね?」

「貧乏そうだし、バックにヤクザでもいるよね、借金取りのw」

教室では細々と、息織を噂する声が聞こえた。初めての事ではない。キラキラネームとかと同じで、世の中は「そういう親」の子を白い目で見るらしい。


「ちょっとアンタ、こっち来なさいよ。」

夕方、帰ろうとしていると一人の少女に話しかけられた。雨が降りそうだったので早めに帰ろうとしていた息織はムッとして睨み返すが、童顔過ぎて全く怖くない。


ガシッと、腕をつかまれたのは直後だった。いつの間にか大柄な男子生徒に囲まれ、拘束されていた。少女は煙草に火をつける。息織が怯えている間に煙を吐き、取り巻きと思われる男子生徒たちに少し手を緩めるように指示した。

「イオリだっけ...?あんたに提案があるんだけど。」

瀬里奈せりなと言う名の彼女は息織に突然ある提案をしてきた。


それは‶万引き″という名目だった。

「あたしら金欠でさ、あんたなら地味で目立たないし捕まっても代わりなんていくらでもいるもの。」

瀬里奈はつらつらと末恐ろしいセリフを並べる。

「断るんなら、便器でも舐めて貰いましょう?」

瀬里奈は校則違反のネイルで息織の顔をひっかく。血が滲み、痛みが響く。息織は頷いた。頷くしかなかった。何の抵抗も出来ない閉鎖された空間。無理な抵抗は死を意味している気さえした。

それからの日々は地獄だった。コンビニ、書店、いろんな場所で万引きを繰り返す日々。いつバレるか、捕まるかわからず悪いことをしている罪悪感に駆られる夜。

そしてその時はすぐに訪れた。


「君、ちょっといいかな?」

夕方のコンビニを出たところで、警察に捕まった。過去の被害届などもあり、すぐに逮捕され、懲役こそなかったものの、多額の賠償金を払うことを余儀なくされた。三織は何も言わなかった。押し黙り、表情も変えなかった。

瀬里奈は成績優秀で、非の打ち所がない上家柄もいいので、彼女に言われたと訴えたところで意味はないと思い、息織は自分ですべてを背負っていた。

そのあと何とか高校に通えたが、前科者で相も変わらず地味な息織は日陰の身だった。三織に宿題を出されてから既に四年、息織は自分がフラフラしていることに気付いていた。


設楽したらくん。」

息織は珍しく名字で呼ばれて驚いた。

「今日も読ませてもらったよ。中々いいじゃないか。」

廊下で話しかけてきたのは先輩だった。息織は名を伏せて学校のホームページで小説を投稿していた。匿名だが、どこからか噂が広まり息織であることがバレ、同じく地味系グループの奴に白状したら全員に広まった。

「それで、僕の親が出版社で働いているんだけど、紹介したらぜひ会社うちで扱いたい、って。」


息織は不思議な気持ちでいた。元々これはなさすぎる読解力を鍛えるために始めた趣味。それを評価されるのは嬉しいが、自分がそれでいいのかとも思う。

前科者で、優柔不断で、親からも最近は見放される存在。高校では食事も母親の三織とは絶縁に近い状態。その自分が認められても、その分世の中に埋もれてしまう人がいると思うと複雑だった。

「一度、保留で。」

息織は慣れない会話を手短に済ませた。家に帰ってからは夢じゃないことを確認すべく顔をつねったり引いたり押したりしてみたが、夢ではなかった。

それからさっき教えて貰った連絡先にメールを送り、食事をして寝た。


翌朝、昨日の先輩は一体なにをどうごまかしたか編集者を学校に招き入れて会議室を借りていた。

「...では、今回はこれで。」

息織のデビューは高校の会議室で決まった。多分世界一変な場所で生まれた小説家だろう。

息織は幸せだと思った。とはいえ、小説で書くより気持ちは淡い。息織は感情の起伏あまりがなく、感動しても悲しくても涙なんて出ない。前に泣いたのはいったいいつだっただろうか。

発表後、息織の作品は高い評価を得て、ついに賞を取り映画にまでなった。成人式を迎えるころには世界的に有名な作家として、いつの間にかネットで調べれば多くの情報が出るようになっていた。


しかし幸せは長くは続かない。

母の三織が倒れた。


仕事中の事故で緊急搬送されたが、くも膜下出血で脳がダメージを受けていて、いつ亡くなるか判らないらしい。病室で力なく寝込む三織に活発で突飛なかつての彼女の面影はなかった。

三織には意識があった。三織は息を吐いてから、静かに話し始めた。

「息織...、あの宿題覚えてる?」

息織はすっかり忘れていた。中一のあの頃、出された「宿題」。息織は首を振った。三織は笑って

「あなたはまだ、国語が苦手みたいね。昔のままだわ。」

と言った。


「中学校二年生の時、いじめられていたでしょう?」

息織は驚いた。三織が、あのことを知っていたことではなく、その次に三織が放った言葉に。

「瀬里奈ちゃんはわたしの友達の娘なの。頼んでそうしてもらっていたの。煙草も取り巻きも偽物よ。」

息織はそれから母の話を聞き、冷たい態度も息織の為にやっていたことだと聞いた。

「ねえ、一つお願いがあるの...。」

三織は言った。息織が帰らなければならない時間になっていることに気が付いていたのだ。

「あんなことでも乗り越えられた息織だから、きっとこれからも大丈夫よ。陳腐だけど、生きる喜びを忘れないで。」

息織は頷いた。息織は陳腐でありふれていることは悪いことではないと思う。それだけ人々に浸透するいいものだということだから。


二日後、三織は亡くなった。葬式が終わって遺品整理をしていると、息織は神棚から手書きの半紙を見つけた。そこには息織の宿題の答えが記されていた。


—息織 常に前向きに、確実に‶息″をして自分の「物語」を織っていってね—

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宿題 桜舞春音 @hasura

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