第26話

 疲れた体を壁にもたれかけさせていると廊下から軽い足音が聞こえてくる。

 僅かな音の違いだが女将ではないと推定。続いて少女の足音と断定した。

 まだ外は明るさを表に出してグノスィの肌を照らす。休憩に入れた茶の匂い広がる部屋で訪問者を待っていた。


「グノスィ……」


 顔を上げれば黒髪の美少女が扉の先に立っていた。読み取りにくいが安堵の表情。

 紫のピアスを揺らしてルルは二の句を告げる。


「大丈夫?」


 何を言えばいいかわからない、といった少し困った声で彼女は言った。思いの外上ずっているようにも聞こえる。しかしグノスィに彼女の仕草に逐一注意を払う気力はなかった。

 ──できたと思った居場所は家ではなかった。それはただの仮初めの宿でじきに外に出なければならなかったのか。何がしたいんだろう。何を見たかったんだろう。どこに行きたかったんだろう。なぜ生まれてきたんだ。


「私は誰なんだ?」

「え?」


 グノスィは果てしなく続く渦潮から逃れる手段を思索していた。それが意味を成すかは神のみぞ知ることであるが、彼には今何が起きているかわからなかった。故に、自身の核心を貫く疑問を現状最も信頼する他人に委ねた。考えることに疲れてしまった。


「私は自分の名前を忘れてしまった。いや、忘れたことすら忘れてしまったというのが正しいか。グノスィという名前すら自分で考えたものだ……私には何もないんだ。家族も、記憶も、家も、友人も……目的さえも」

 絞り出すようにグノスィは今の心境を吐き出した。

 それに対してルルは彼の側に膝を下ろし、

「でも未来はもってるよ」

 と、優しく語りかけた。

「名前なんてどうでもいい。あなたはあなたなのだから」

 彼女は笑う。母が子を見るように。愛しさか、優しさか、それとも安らぎか。


「あなたは私をあの汚れた船から連れ出してくれた……救ってくれた」

「私には打算があった。善意からだけではないんだ」

 彼は己を否定する。

「誰かを救うのに何も考えない人なんていないよ。あなたは当たり前のことをした」

「だけど……っ!」

 否定し続ける。

「聞いて、グノスィ。あなたはまだ生まれたばかりと同じなの。怖いのは仕方ない。不安なのは仕方ない」

「違うっ……!」

「あなたは一人じゃない」

「ならなぜ私を一人にするんだ! どうして何も答えてくれないんだ!」

 心の叫び声が声となる。グノスィの痛ましい叫びは直接ルルに届いていた。

 その様子はまるで幼子のようで、癇癪を起こしているようにルルの美しい瞳には映った。


「それはあなたが臆病だから。あなたはきっと孤独に怯える。今も怯えてる。一人で立てなきゃ……一人で立てないと……本当に独りになったときにあなたは耐えられない。心が壊れちゃう」

「ならっ……どうすれば……どうすればいいんだ!」

 彼の胸の苦しみから出た言葉が発されると同時に、彼の水色がかったピアスから光が放たれた。

 その光は紫のピアスと酷似したもので、彼の体全体を包み込む。


「え…………っ?」

 光が収束すると彼女は驚愕した。目前の幾度と目にしたもの。毎日必ず目にしてきたもの。

 だが存在するはずがない。

 なぜならそれはこの世界に一人しか居ないはずの人物なのだから。


「私……?」


 グノスィだったものはルルと瓜二つの姿になっていた。服は元のままだが髪の質感からホクロの位置まで完全に一致している。鏡越しとはいえ別人には全く見えなかった。


「髪が、長い……?」


 ようやく自分の変化に気づいたグノスィは髪に触れておかしなことに気がつく。

 高めの声も少女のそれで、というかルルの声そのものであった。


「これがエネアドピアスの力か?」

 ルルはなおも言葉を発せられずにいる。一生涯で、顔の似る血縁関係のない他人はあまりいない。まして完全に同じ人間は存在しない。ドッペルゲンガーでもないかぎり。

 ペタペタと自分の体に触れて確かめるグノスィ。胸のささやかな膨らみ、汚れ一つない柔肌、艶のある柔らかい髪、下半身に存在していた感覚の喪失。


「……グノスィ?」

 やや怒った声に反応してグノスィは手を止めて顔を上げる。

「えっと…………その……」

「……」

 

 幻覚や表層の変化ではないことが判明したが別の問題が浮かび上がってしまった。

 目が笑っていない。見られることは許容するのに触ることは許さないという、ある意味矛盾を感じさせる事態だ。

 さて、ここで一つこの能力を考察してみよう。鏡写しと異なり、彼女と同一の体に変化したわけだが、それは装飾物を除く。

 つまり、紫のピアスはなく、体だけが変わったのだ。

 であるならば入れ替わることは困難を極める。なかなか難しい能力であろう。


「……これどうやって戻ればいいの?」

「知らない」

 彼女はそっぽを向いた。不機嫌であるとグノスィは解釈した。どうやらお冠のようだと。

 どうやって機嫌を直そうかと考える。だが彼女は別のことに気を取られていた。

(混乱が、治ってる? なんで……どうして? 混乱を代償に能力を得たということ? だとするとこの能力はあまり使わないほうがいいの? わからない……)


 ルルの眉間に皺が寄るのを見てグノスィは思った。そういえば彼女はルルに少し似ているかもしれない、と。

 そして変化は再び起こる。ルルの姿となった体の表面がまるで水面のように揺らぎ、波紋を広げて姿が変わる。

 身長は元のグノスィと同じくらいのものとなり、黒髪は変わらず目元は鋭く、鼻が高くなる。

「────グノスィ!」

 グノスィは彼女の珍しい大声にびっくりする。

 何せ彼の姿はトトヌメとそっくりになっているからだ。犬猿の仲に近い彼女の姿となれば怒るのも頷ける。だがその事実を知らないグノスィは何故彼女の機嫌がさらに悪くなったのかわからない。加えて自分の姿が今どうなってるのかも知らない。

 彼は収縮した胸元を見下ろし、ついで髪が短くなったことで元の姿に戻ったと勘違いした。さらに頭が妙にすっきりしていたことで気分が爽快になっていた。

 そのこともあり彼女に無神経に言ってしまった。

「そんなに怒らなくてもいいじゃないか……」

「私はその姿が嫌い。その声が嫌い。どうしても受け入れられない」

 いつもは眠たげな目が今ははっきりと開かれてこちらを見ている。

「……そんなに嫌い?」

 ショックを受けた様子でグノスィは震えた声を出す。


「嫌い。もう二度とその顔を見せないで」

 その一言を発してルルは頭を冷やすために旅館の外へ行く。

 後には呆然と置き去りにされてすぐに元の姿へ戻ったグノスィの困惑する姿が。

 ルルは本来の目的とは全く異なることをしていることに気づいているだろうか。

 グノスィを救うつもりが。実際にはグノスィを拒絶していた。

 この矛盾を孕む行動には呆れるばかりである。さて、しかしながらここで事態は大きく動く。

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