第2話
青年は孤独だった。
己の名前を思い出せず。
己がいたはずの世界も思い出せない。
家族がいたのか。
学校に通っていたのか。
あるのは豊富な知識と、かつてはなかったはずの能力。
浮遊する体は移動することを許されず静止している。
──どうしようか。
彼は思った。
まず加速するための装置が必要だが、現状エンジンはなく、持ち合わせは身に着ける制服のみ。
ポケットの中身は空っぽだった。
縋れる打開策は能力だけだった。
それは世界に流れる小さな光を見る才能。
だが、己の内部にも存在することを感じる。
光は掴むことができず、手を振っても風で動くようなことはない。
存在しないもの。
世間では魔力といっただろうか。
使い方はなぜだかもう知っている。
『一の法・飛脚の
光が両足に集中し、収束及び凝縮する。
熱を帯びるように熱くなる。
この状態なら
彼は宙を踏みつけるように大気を蹴り出す。
すると体は前進し、彼は
体験したことのない感覚。
命綱なしのバンジージャンプ。
だが、赴くままに体は動き、陸へと走り降りる。
街がある方へ。
人の住まう地へ。
──さて、鬼が出るか蛇が出るか。
現地の人が友好的とは限らない。
また言語が同じとも限らない。
もしかしたら何らかの法に抵触するかもしれない。
できるだけ慎重に、できるだけ冷静に。
街に近づくに連れ人々の喧騒が耳に入る。
青年には遠くて見ることは敵わないが。
彼らは青年の方を見上げて隣人と会話している。
指さしているものもいる。
──厄介なことがありそうだ。
彼は本能的に独り思い、進路を変える。
まだ顔や姿ははっきり認識できていないはず。
そう考え、街の中心から郊外へ。
郊外からスラム街へ。
彼は無法の地に訪問することにした。
子どもたちがボールを蹴って遊ぶ裏道に降りる青年。
少年たちは彼をじっと見つめた後、無言で立ち去る。
「不審に思われているなあ……」
と、少し残念そうに彼は独り言ちた。
仲良くなりたい訳では無いが、不審者か犯罪者を見るような彼らの目つきは決して気持ちの良いものではなかった。
彼は革靴をコツコツと響かせながら腐卵臭の漂うボロ屋に沿って進んでいく。
継ぎ接ぎもなくただ穴を塞ぐためにボロボロの衣服を重ね着する彼ら。
男女比は男の方が多く、女性は一定以上の年齢からは姿を消している。
──やはり無法地帯か。
それがここの秩序なのだ。
倫理的に正しくなかろうと、親は彼女たちを売り払い、子供は黙って受け入れる。
農村で暮らしていたはずの人々が職を求めに都市に来る。
自分がその立場にいたらと思うとゾッとする。
彼らはこれから一生ここに居続けるのだろうか──
「おい」
初めて話しかけられた。
中年ぐらいの男で、目つきは悪い。
髪は薄く、額は広く、鼻には大きなホクロがある。
今までのように不審者を見る目ではなく、何処か値踏みするような、或いは──
「何だ?」
青年は背筋を伸ばして睨み返す。
別にその男が胡散臭いとかそんな理由ではない。
単に意地を張っているだけだ。
「あんた、奴隷だろ?」
いきなり失礼なことを言う男に青年はキレない。
ただその本意を確かめるために思考を加速させる。
もしここで否定した場合、どんな結末が訪れるかわからない。
そもそも、自分の方が身なりは良いはずなのにどうして彼はそんなことを言うのか。
見た目で判断を──。
「!(外見?)」
今まで黒髪の少年少女たちとは幾度もすれ違った。
しかし、顔立ちは皆そばかすがあったり傷が多かったりと決して綺麗とは言い難かった。
なるほど確かに己の顔に触れると凹凸も炎症もなさそうだ。
この格好も奴隷だから優遇されていると考えれば納得の行く。
「――して、私が奴隷なら何だというのだ?」
彼は徐々にぶり返してきた内心の苛立ちをあくまでも隠しながら小汚い男に返す。
それに対し男はやはりと思い笑みを浮かべ鼻で笑ったあと次の言葉を吐き出す。
「あんたが逃げたところですぐに見つかるってことさ。なんせ奴らは鼻がいいからな」
「警察犬でも来ると?」
「あん? この国に警察犬なんて居ねえさ。まさか別の国から来たってのかい?」
警察犬がいないという事実。
嗅覚が異常に発達した生物の存在の暗示。
人間が奴隷であること。
以上から結論付けられることは――――
(人間の上位存在で嗅覚の優れた生物がいる?)
そう考えれば考えるほど納得がいく。
だがまだ確証は得られない。
青年は繰り返し爪をカリカリと合わせながら考えを固めていく。
「ああ、そうだな」
「なら大丈夫かもな。それにしても
――虚法。
それは彼がこの世界で身につけたと思われる能力。
それを青年は憶測により推理し確定させた。
「ふっ……人間の国は自身を鍛えあげるものが多いからな」
不敵な笑みを浮かべて言葉を選びながら青年は言う。
「あ?」
だが、返ってきたのは困惑であった。
言葉が理解できないという様子ではない。
むしろその感情は青年自身に向けられているものに思われた。
――何か失言しただろうか。いや、しかし人間の国がないとでも?
「おめえ、今なんつった?」
――まずいまずいまずい。どこだ、どこで間違えた?
青年は内心、酷く焦っていた。
必死に心を穏やかにしようとするも、効果はない。
手に汗を滲ませながら次の言葉を待つ。
「人間だと? いくら何でも自意識過剰じゃねえか? 俺たちゃ、劣等種だろうが!!」
反射でびくりと反応するが、それよりも脳がその意味を消化する方が速かった。
つまり――人間はこの世界の最底辺なのだと――
彼は驚愕のあまりに禄に声も出すことができなかった。
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