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 多くの人の流れに逆らうのは大変だ。道を歩く人の顔がほとんどすべて一方向を向いていて、俺たちはそれとは反対に進んでいかないとならなかった。まるで全校集会で演壇に立った生徒会長のように、すべての顔を見ることができた。わずかな救いとしては、それらの視線のすべてがこちらに向けられているわけではないということだけだった。

 ざぶざぶと激流をかき分けて進んでいく。彼らは誰もが彼ら自身の世界の中で完結していた。友達と話したり、電話をかけたり、これは危ないがスマホを見ながら歩いていた。だから誰も俺たちに注目はしなかった。俺たちの近くを通る人が迷惑そうな目でちらっと見る程度だった。

 空はおだやかに透き通った橙色に、夜の深い藍がさし始めていた。太鼓の音がもう遠くに響いている。夏の夜の込み入った暑さがあたりに充満している。祭りが始まっていた。


「異常なほどの密集具合だ」


「夏祭り。あっちでみんなで集まってわいわいやるんだよ」


「こんなに人がいるのか。世界中から集めたのか?」


「近所の人だけだと思うけど? 遠くてもちょっと電車に乗るくらいじゃね」


 横に並んで歩くと迷惑になるということで、俺の真後ろを歩いていたウリエルは辺りをきょろきょろ見回しているようだった。たしかに日本の人口密度は外国のそれに比べてかなり高いと聞いた。ウリエルが今までどこにいたのか知らないが、一般的なところと比べると疑問に思うのも仕方ない。

 空気がむっとしている。夏の真昼の暑さとは意味の違うものだ。人という生き物が作り上げる暑さ。そもそもの気温が高いから汗をかいて、それが蒸発して湿度が上がるからくりだ。ミツバチがスズメバチを倒すために何匹も群がって熱でどうにかするなんて話を前にテレビで見たが、俺は規模にかかわらず祭りと聞くとそれをすぐ思い出す。蜂球だったっけ。


 後ろに天使を連れて人波に逆らっていると考えると、なんだか奇妙な気分になる。なんだか、説明が難しい。まあ、翼はしまっているから外見は完全に人間なのだが。服装に関しては玉緒の意見を全面採用した。サングラスだけは夜だと逆に目立つということで、Tシャツの丸首のところにぶら下げることにした。髪はもう仕方のないものとして、あとはシンプルに仕上げている。足のサイズが玉緒と近くて助かったが、あいつが自分の新しいサンダルをおろしてきたときには驚いた。


「惟親、私たちはどうしてこちらへ向かっている?」


「作戦実行のためだよ、ふつうに祭りに行ってもよかったんだろうけどさ、こっちのやり方のほうが効率が良さそうだと思って」


「さっきも祭りと言っていたな。ここでは何を捧げ、何を祈る?」


「そういう重たいもんじゃねえよ。ずっと昔は知らないけど、いまはみんなで集まってわいわいやるもんなの」


「……? 集まって何をする?」


「ありがちなもん食べたり単純なゲームやったりだな。それだけ。雰囲気を楽しむのが目的なんだよ、ちゃんとした理由なんてない」


 俺の声がウリエルに聞こえているかは自信なかったけど、会話が成立していたから問題はなかったんだろう。人混みのなかできちんと顔を向けずに話しているのによく聞こえたものだ。その反面、ウリエルの声はわけがわからないほどクリアに聞こえていた。これは天使の能力と言われても納得のいくものだ。勝手なイメージが働いている気がするけど。


「……祭りとは私には理解できない理由で行われるものらしい」


 感情が理解できないのならそうだろう。気にしなくていい、と声をかけようかと思ったが、それも必要ないと思いとどまった。たぶん言われるでもなく何も気にせずに人の洪水を無表情に眺めているに違いない。

 朝の空を見ただけですでに決まっていたようなものだけど、空はやっぱりきれいに晴れ渡っていた。さっきよりも藍色が深まっている。もう三十分と経たないうちにすっかり夜の空になりそうだ。


 気の遠くなるような人混みを抜けると、心配になるほどに一気に人の数が減った。まだ祭りの現地についてもいないのに半熱狂状態にあったあの場から離れると、急に空気が涼しく感じられた。盛り上がっているところがあるせいで、いま俺たちがいるところの閑散ぶりがより強調される。

 もう横に並んで歩いても誰かの肩にぶつかるようなことはない。さっき家で計画とだけ言ったものの内容を話してもよさそうだ。なんでわざわざここで話すのかと言ったら、あまりこいつのことを広めたくないという意味で玉緒にも話したくなかったのだ。変な言い方だけど、あいつはたぶん天使の認識がまだ甘い。


「ウリエル、飛ぶのってどれくらいいける?」


「飛行状態の維持という意味なら無制限と考えていい」


「よし、じゃあ大丈夫だな。お前が欲しがってる量はわかんねえけど、今日でそれなりの感情がストックできると思うぞ」


「そうか、私には手法がわからない」


 まるで数学の壁にぶつかって投げ出したようにウリエルはつぶやいた。わからない状態にあるということの意思表示だけして、それ以上は考える努力をしないと暗に伝えているようだった。感情なく言葉だけを発すると会話の前後次第では受け取られ方がまったく違う。その意味では本当に感情表現は大事なものなのだ。ウリエルに教わるのは逆説的で、すこし笑えた。

 時間まではまだしばらくある。十九時三十分か二十時ちょうどか、そのあたりだ。それまでにこいつが飛び立つ瞬間を見られない場所に行く。そこまで来たら、あとは成功が約束されたゲームだ。俺の頭で考えつくのはとんでもないウルトラCなんかじゃなくて、閃いたらそれで問題なしのものだ。本当なら計画なんて呼ぶのもおこがましい、子どもが叫ぶような単純な作戦。


 たどりついたのは地図に名前が載っているのかもあやしい山。フェンスがないからおそらく私有地というわけでもなく、それなのに切り拓いたり開発を進めるわけでもない奇妙な山。昼間だと回り道したくないからと通り抜ける人もいるが、夜になるとさっぱり人は寄り付かなくなる。好条件。ただ木が繁りすぎているせいで、山道に入ってしまうと空は真上くらいしか見ることができない。ここでじっと待っているだけというのもつまらないから、俺はウリエルに頼んだ。


「なあウリエル、木の上あたりまで俺を運んでくれないか」


「構わない」


 そう言うとウリエルはすぐに俺を後ろから抱えて翼を動かした。羽ばたくごとの体の揺れが、翼の存在を強く訴える。不思議な力で飛んではいないらしい。そんな力を持ったものをいったいどこにしまっていたのだろう。考えるだけ無駄な気がした。

 ぐいぐい引っ張られて、昼間のプールサイドから連れていかれたときのことが頭に浮かんだ。たぶん歴史上の人間が一度も体験したことがないことを、俺は一日に二度も体験している。高層ビルにある外が見える高速エレベータをより切実に高速化した感じだ。足元に踏みしめるものがないとこんなにも不安になるとは知らなかったし、他の人はまず知らないに違いない。軽々しくウリエルに頼んだのを後悔した。


「あそこの枝のところ座れそうじゃん、あそこで下ろしてくれ」


「枝が折れると非常に危険だ。見晴らしの点を考慮するならば私が惟親を抱えて飛行していたほうがよほどいい」


「飛びっぱなしは疲れるだろ」


「私に疲労の概念はない」


「いやそれになんか、恥ずかしいっつーか」


「わからないな、暗ければ誰にも見えない。きっと恥ずかしいことはないはずだ」


 まあ言っても仕方のないことだろうよ。天使に男子高校生の気持ちはわかるまい。

 すぐに説得を諦めた俺は観念して抱えられたまま視線を前に向けた。そこには誰も見たことのない視点での夜の姿が広がっていた。それぞれの家の明かりがぽつぽつと点いて、かなり遠くにぽうっと光のドームのようなものができている。あれがきっと夏祭りの出店とかが出ているところだ。街のみんながあそこに集まって、年に一度の夜を楽しんでいるのだ。

 空撮とは違うし、山のてっぺんからも木で見えない。それを踏まえるといまの俺の視点はリアルな鳥のものだ。知っているだろうか、夜の街並みは黒いうねりに見えるということを。俺はいくらか言葉を失った。街中は夜でも明かりが点いてるから怖くないと思っていたが、本当はまだまだ光が届いているところなんて少ないものだ。


「惟親、これからどうするんだ? ここに留まったままか?」


「疲れないんだよな? じゃあ移動だ。あっちのほうに川が見えるだろ」


「わかった」


 ウリエルの飛行で街の光が後ろに流れていく。そこだけを見れば夜のゆるやかな電車みたいなものだった。違うのは頬に風が当たることだ。見下ろすとときおり人の姿が確認できた。電信柱の電灯や民家の窓から漏れる光に輪郭だけがなぞるように細く照らされている。腹に感じるウリエルの腕の圧迫感がなければ、自分が死んで、そうして空を飛んでいるのだと勘違いしてしまいそうだ。


「川べりに何人か集まってる場所があったら教えてくれ、俺も探す」


「わかった」


 二つ返事。もうちょっと疑問を持ったほうがいいのでは、というのは指示を出してる側から言っていい言葉ではない。本人が言うことを聞いたほうが正しいと判断しているのなら、俺が気に掛けるべきことは計画の成功だ。そしてそれは簡単なことだ。だから俺は何も心配しなくていい。ウリエルを心配をさせることもない。


 ウリエルの飛行速度は日中よりもよくわからなかった。周りは暗いし、見えるのはすこし距離の離れた家々の明かりくらいだ。土地勘があってもどのあたりを飛んでいるのかまったくわからない。川べりの人を探すためにゆっくり飛んでいるのかもしれない。すくなくとも川がよく見えるところまではたどり着いているのだ。


「惟親、あれはどうだ、左のちょっと先」


「お、当たりっぽい。そしたらウリエル、川からちょっと離れてもうすこし移動だ。あっちの祭りと俺たちであの人たちを挟む位置取りがいい」


「彼らに用があるのではないのか?」


「違う、でもあの人たちがいないと成り立たない」


「……惟親の言うことは私にはむずかし――」


 ひゅるるる、と未完成の笛のような高い音がして、ドォン、と轟音が夏の夜空に響き渡った。一瞬、あたりが光に照らされて、夜に輪郭が与えられた。ひとつ大きな花が咲いてその存在を誇示したかと思うと、そこからはせわしないほどに次から次へと色づいた火花が新しく暗い空に散っていく。ぱっと弾けるごとに世界が光る。この夏でいちばん目立つのはこれだ、この国で花火に目を奪われないやつなんているかよ。

 深い深い藍色の世界で、誰もがある一点を眺める。力強く咲くために大きな火力が必要となり、そうして連れてくるのが大きな音だ。肌も内臓も、血液さえも震わす空気の振動が、俺たちの頭をつかんで離さない。花火が打ちあがっているあいだに話をする人もいるだろう。でもそれは顔を合わせたものではなくて、視線を固定しながらの、叫ぶような大声のものであるはずだ。


 俺もウリエルも口を開かなかった。すくなくとも俺は声を失って、圧倒されたようにぼんやりとそれを眺めていた。この世でいちばん近くで打ち上げ花火を見た人間は俺に違いない。視界からはみ出る火花なんて、想像さえしたこともない。ちりちりと熱くて、目がひりひり痛む。涙が浮かぶ。感動なんかじゃなくて、目を守るための体の反応だ。

 俺はなんだか興奮してしまって、単純に祭りに遊びに来たようにいつもよりずっと声が大きくなっていた。小さなころに初めて観覧車に乗ったときにもこんな勢いだったかもしれない。経緯そのものは意味不明だが、この瞬間だけはウリエルに感謝してもいいかもしれないと思った。

 なんだか知らないが、急に笑えてきた。


「はは、ははは、なんだこれ、すっげえ」


「お前の言うとおりだ惟親、すごいぞ、すさまじい量の感情が飛んでくる」


「数はわかんねえけど、もしかしたら一万人くらいいるかもな」


「……ほとんどが似たような前向きの感情だが、どうしてまれに悲しい方面に属する感情が混じってくるのだろう」


「何かしら花火に関係するつらい思い出があるんじゃないか。そういうこともある」


 それきりまた俺たちは口を閉じた。色鮮やかなそれは人々の目を釘付けにしてぴったり一時間、夜の空に咲き誇った。

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