3

「お兄ちゃん、アイス券一枚返すわ」


「は? どうした急に」


 ウリエル本人を連れてきて一通りの説明をすると、玉緒はたいして驚くこともなく話した内容を受け入れた。天使だなんだと非現実的な話なのにもかかわらず、すぐにそういうものなんだねと頷いたことに俺は驚いた。もしかするとこいつはまだ自分が物を知らないと自覚していて、だから突飛な話をただの知らない話として受け取ることができたのだろうか。

 さておき玉緒は話を聞き終わると、すぐにウリエルを連れて自分の部屋に戻った。俺としては早く天使を自分の仕事に取り組ませてやりたかったが、あまりにも玉緒の表情が鬼気迫っていたせいで何も言うことができなかった。

 そしてすこし経って階段を下りてきたかと思うと、出し抜けにアイス券を返すと言ってきたのだ。


「え、だってウリエルちゃんにいろんな服着てもらうの超楽しいし」


「何してんのお前」


「何してんのはそっちでしょ。あんなよくわかんない服装のまんま帰すつもりだったの? それは終わってない? まあまあ人の道外れてると思うけど」


 そう言われて俺はウリエルの服装を思い出そうとしたが、驚くべきことにまるで頭に浮かんでこなかった。俺の記憶に焼き付いているのは無表情かつ整った顔と、腰の高さについた翼だけだ。他はと言われると長かった髪ぐらいしか出てこない。人間はパニックに陥ると本当に記憶が簡単に抜け落ちるものらしい。まあまあの罵倒なんてほとんど気にもならなかった。

 しばらく黙って思い出そうと努める俺がどう見えたのかは知らないが、玉緒はとくに気にした様子もなく続けた。


「だからアタシがコーディネイトすんね。はー、めっちゃテンション上がるわ」


「そりゃ構わんけど、時間決めてやれよ」


「たしかにそうしないと無限の可能性あんね。天使やべー」


 俺の返事なんて待とうともせずに玉緒は引っ込んでいった。服を着てもらうことが楽しいという感覚が俺にはよくわからないが、止める理由はなかった。玉緒が満足すればすべて終わりだ。ウリエルが本当に天使でも良しとしよう。事情も聞いた。そのうえで俺はただ送り出すことを選ぶ。選ぶというかそれ以外にできることがない。

 テレビはまだニュースがつけっぱなしになっていた。やはり内容は頭に入ってこなかった。縁側に出られる窓の向こうには、すさまじい夏の光が降り注いでいた。この中を歩いて帰って来たのだと思うとぞっとした。エアコンが家の中と外とを別世界に作り変えていた。


 そのまま十分か二十分か、確かめる気にもならない時間が過ぎた。そのあいだ俺は何も考えなかった。何か思いついたような気もするが、結局それは泡のように消えてしまった。

 こうして落ち着いていると、俺が家を出て学校に向かおうとしたところから夢だったんじゃないかという気がし始めていた。何もなかった。俺はびしょ濡れになんてなっていないし、空を運ばれてもいないし、天使に会ってもいないのだ。しかしもちろんそんなのは貧弱な妄想でしかなかった。


「お兄ちゃん!」


「お、わぁっ、なんだ、今度は何?」


「ウリエルちゃんのお手伝い、すんだよね!?」


 言葉の体裁としては確認を取るものだったが、その実質は命令形と変わりがない。もともと手伝いをするつもりならそれで良し、手伝うつもりがなかったのなら考えを改めさせるためのものだ。どうも圧が強く感じられる。

 こいつウリエルから何を聞いた? 事情はさっききちんと説明したはずだし、ウリエルも自分から手伝ってほしいようなことを匂わせはしないだろう。あれは人を選んで話をするタイプじゃない。出会って一日も経ってない俺がわかったような口を利くのも変だが、ここについては自信のようなものさえある。それが人間でないことの証明になるかは別にして、ウリエルは度を越して公平なのだ。そこに愛があろうがなかろうが、公平さは徹底すれば無関心に似ていくところがある。


「いやさっき言ったろ、俺にできることはないんだって」


「それはお兄ちゃんがどうにかする場合の話じゃん、ウリエルちゃんのアシストになるようなアイデア考えるくらいならできるでしょ」


「それは玉緒の言う通りだけど」


 まいった。この感じだと引き下がらない。こいつと暮らしてきた年数が俺に結果を教えている。イヤだといえば玉緒はいずれ泣くだろう。もう絶対に勝てない流れに乗ってしまっている。兄とは、すくなくとも俺の認識ではそういうものだ。本気で頼まれたのなら応えなければならない。それが間違っているものでない限りは。

 そして玉緒がいま言っているお願いは妥当というか、優しさから来るものだ。俺はもはや諦めていた。


「じゃあいいよね?」


「なんでお前そんなに入れ込んでんだよ」


「こんなかわいい子をひとりで頑張らせちゃダメじゃん。ウリエルちゃんに悲しみを学習させるわけにはいかないよ」


 たぶん話半分に聞いてたなこれ。ウリエルの感情の学習は、本人の言うことに嘘がないならストックすることであって理解することじゃあない。そしておそらく玉緒はウリエルが人間的に成長するみたいな感じで受け取っている。でもなあ、その間違いを指摘したところでこいつの考えは変わらない気がする。なんというか、道筋はもう決めたうえでその理由付けをしているようにも見えた。

 わかったよ、いいよ、やってやるよ。夏休みでよかったな、考えがないわけじゃないんだ。


「……わかったよ。じゃ悪いけど玉緒、お前も手伝ってくれ」


「え、なに、ものわかりいいじゃん」


「だってお前どうせキレるんだもん」


「は? キレないが?」


 押し問答もそこそこに俺は玉緒に指示を出した。これは俺にはできないことで、協力が必要だ。別に難しいことをやろうってんじゃない。ひとつひとつは簡単なことを重ねて計画的に進めるってだけの話だ。俺の役割はちょっとした調べ物をするだけ。それが終わればあとはウリエルにやることを説明して終わり。

 まあ人生で何度迎えるかわからん夏のうちのたった一晩くらい、ヘンテコな動きをしたって悪くないだろう。いまの俺は人に言ったって信じてもらえない経験をしてるんだ、その波に乗らないのも冷めすぎってもんだ。やると決めたら吹っ切れたのか、だんだんとテンションが上がってきた。あとで証拠にスマホでウリエル撮ってやろ。


 玉緒とウリエルが下りてきたのはそれから三十分は後だった。何かで聞いてはいたけれど、女子は本当に準備に時間がかかるらしい。着替えなんていま着てるものを脱いで次に着る服を頭からかぶれば済む話だと思っているのだが、どうやらそう簡単にはいかないようだ。

 玉緒は得意げな顔のなかにいくらか満足感をにじませていた。さっき着せ替えが楽しいと言っていたから、それを思うさま試せたのだろう。そんなに服持ってたのか、お前。

 ウリエルはさっぱりとした、というか俺にはいささかシンプルすぎるように見える服装だった。白地に英語がプリントされた袖の短いTシャツに、黒のホットパンツ。それでおしまい。無機質に整い過ぎた顔立ちと合わせて見ると、なんだか着せられたからこんな恰好をしている、と言っているようにも感じられる。


「時間かかったわりにはあっさりしてんな」


「言うてこんなもんだって、素材良すぎるもん。肌白すぎるし髪は銀っぽいでしょ、だから日本人に馴染ませんの無理ってことで、美人偏差値鬼のひとのオフっていうのをイメージしたんだよね」


「はあ」


「外出るときはマリンキャップかぶってさ、黒の。あとお母さんのデカいサングラス借りようよ」


 俺はマリンキャップがどんなもんだか知らないが、コーディネイトは玉緒に任せると言った。だからそれでいい、と頷いた。たしかに言われてみれば目立たなくするのは難しそうな外見だ。街中でウリエルを見かけて、びっくりして視線を向けてしまうのは俺だけではないだろう。

 ウリエルとの衝撃的な出会いからだいぶ時間が経ったおかげでようやく混乱がある程度おさまって、はじめて天使を真正面から見ることができた。要素としてもっとも抜きがたい翼を無視すれば、おそろしく姿の整った人間だった。無視すれば? どうもなくなっているように見えるが。


「あれ、おい玉緒、翼はどうした」


「ああ、あれ? でっかいからしまって、ってお願いした」


「それでなんとかなるもんなの?」


「うん」


 なるらしい。


「そうか、ところでいくらなんでもこの髪は目立つんじゃないか?」


「アタシもそう思ったけど、どういじっても目立つんだよね。結ってもお団子でも変わんないよ。それなら逆に堂々としてたほうがいいかなって。あとで編み込んだりはするけどね、趣味で」


 色の表現が貧弱なせいかもしれないが、銀、とするのがいちばん近い髪だ。天使であることが関係しているのかはわからないが、なにやらうっすら発光しているように見える。現実にこんな髪色が存在するのかは知らない。きらきら輝く灰色。目立つのは避けられないか。ここも玉緒の言うとおりだろう。


「惟親、手伝ってもらえると聞いた。ありがとう」


「気にすんな。妹が駄々をこねるのが決まってるから、みたいな部分がある。だから感謝するなら玉緒にしな」


「わかった」


 玉緒がすごい目でこちらを睨んだがそこでとどまった。ここでいちいちケンカをするのも無意味だとわかっているのだ。さすがに昔に比べて成長している。ウリエルが帰ったあとはどうなるか知らんが。


「じゃあ、あとはそうだな……、夕方まで待機だな。俺の部屋でもいいし玉緒の部屋でもいいけど」


「え、別にここでよくない? ソファあるし」


「母さんにまで説明したくねえの。絶対うっとうしいじゃん」


 他人の噂で生きているのかと思うほどゴシップ好きなあの年代が俺は苦手だ。人の気も知らないで勝手に盛り上がる。悪意はないのかもしれない。あるいは善意なのかもしれない。ただそのお世話が俺には余計なものにしか感じられないのだ。反抗期と言われたら否定するつもりはない。でも絶対に面倒になるのは決まり切っている。だからあの人からはウリエルは遠ざけるべきだ。

 夕方前に外をうろついて姿を見られたくないし、居間で母親に見られたくもない。だから結論は俺たちのどっちかの部屋だ。


「アイス券もあるし協力してくれよ。外出るときもさ」


「まあ、そうだね」


 最終的に俺の部屋で休憩することが決まった。ネットで動画を見てもいいし、漫画を読んでもいいし、ゲームで遊んでもいい。自室での時間なんていくらでも潰し方がある。もちろん勉強してもいいし、ギターの練習なんかをする人もいるだろう。俺はというと、とくに深く考えることなく天使に質問を飛ばしていた。


「天使ってなんか食べたりすんの?」


「食事は可能だ。肉体を人間に近いものに作り変えればいい。味も理解できる」


「なんか、お菓子とかいる?」


「不要だ。お菓子を食べることが場を円滑に回すことにつながるなら選択肢に入るだろうが、惟親と玉緒を相手にその必要を感じない」


「アタシも夜に向けて我慢する」


 “も”じゃねえだろ。あとウリエルは立場的に客だから許されるのであって、お前は俺の部屋でお菓子を食べることは許されていないぞ。なんかこぼすからな。


 そうして俺たちは空の色が青から橙色に変わるまで待った。

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