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「で、お前なにしに来たの?」


 持てる選択肢の少ない俺は、自称・天使ウリエルに俺の座布団を出して座らせた。あのまま神社で話していたら濡れた服のせいで体調を崩していただろうし、そのうえ誰かが来たらひとりで会話をしている危険人物に見られかねない。そうなると選べる選択肢として残るのは俺の部屋だけだった。絶対に誰にも見られないと自信をもって言える場所は世界でここだけだ。この天使を放って帰るなんてことはできなかった。人型で飛ぶ生命体を見ないことにして生きていけるほど、俺は世の中に無関心ではないのだ。

 俺がその質問をしたのはシャワーを浴びてすっきりしてからのことだ。家に着いたときには妹がすごい顔で俺を見ていたが、まあずぶ濡れの兄貴が帰ってきたらそうもなるだろう。


「貴様、名前は?」


「なんだよ急に」


「そのほうが会話が円滑に進むからだ」


 周囲の空気さえ止めてまっすぐ伝わるような透明な声は、透明すぎて温度さえ感じ取れない。その意味ではたしかに人間らしさはない。要求は簡潔でその意図も明確に示されている。不必要なものを削ぎ落とし続けて、その結果として奇妙な輝きを手に入れてしまったような印象を受ける。

 ウリエルの要求に対してノーを唱えるだけの理由を俺は持っていなかった。


「遠藤惟親これちか


「この国は姓名の順だったと記憶している。惟親だな」


 耳慣れない理解の過程を経て俺を認識したようだった。

 通常の呼吸よりもすこしだけ深く息を吸った。


「質問に答えよう、惟親。私は人の感情を学習しにきた」


「感情ったって誰でも持ってんだろ、それぐらい」


 ウリエルは首を振った。否定の動作としては自然なものだが、表情にその意図が見えないとひどく不思議なものに映った。誰かにやらされているようで、機械が動いているようでもあって。

 それにしてもこいつは何を言いたいのだろうか。誰しもが感情を持っているわけではない、という厳密に言えば例外があることか。それとも自身が感情を持っていないということなのか。


「言いたいことがわからねえ」


「芸術とは、莫大な感情の繊細な表現である。別の捉え方もあるのかもしれないが、ここではこのように定義しておく」


「待て待て、何の話だよ」


「そしてそれらは時代の移り変わりによって潮流に変化がみられる。技法の流行り廃りも、込められる感情もだ。そういった見方をするなら、芸術とは時代に求められて生まれると言い換えることも可能だろう」


 つまることなく語られる内容の意味こそつかめないものの、キーワードらしきものがふたつあることだけはわかった。芸術と感情。自称天使はこのことを軸に話を進めていくつもりのようだ。俺は芸術についてはまったく知らない。興味を持ったこともない。というか俺たちのような中学生高校生の年代で、芸術に対して興味を持ち、さらに知識を深めているやつがどれだけいるというのか。いないわけじゃないんだろうけれども。


「待てよ、だからそれがお前とどう関係あるんだって」


「……芸術を生み出すことは稀有な才能だ。莫大な感情を調整し、削り、組み換え、変換し、質を落とすことなく自身以外にもわかるかたちで表現するのだから」


 こっちの話を聞く気がないのかもしれない。かけた声にわずかな視線だけを投げて済ませ、ウリエルは自分の話を続ける。その内容はわかるようなわからないような、俺とはすこし違う水準の話のような気がした。そうなると口も挟みづらくなる。まず黙って話を聞いたほうがいいのかもしれない。ここへ連れてきたのは俺なのだから。

 顔も視線もこちらを向いてはいるが、俺を見ているかは不確かだった。こんなことでさえこいつが天使だと言い放ったことに多少は説得力を持たせるのだから厄介だ。人間的でない部分、まあ翼がある時点で人間のカテゴリには入れられないが。


「しかし感情の出力というものは極めて不安定だ。そのせいで優れた才能を持った人物が芸術作品を生み出せぬまま死んでいくことが起こり得る」


「……」


「聞いているか?」


「ああ」


 なんだよこいつ黙ってたら黙ってたで聞いてたかどうか確認してくんの!? 面倒くせえな!

 けれど逆説的にというか、初めてこいつの目が俺に向いた気がした。自分でも何を言っているかわかっていないが、初めて対象になったとでもいうような。これまでは発話をしても矢印が一方向でなく、たとえば太陽の光のように全方向に向かっている感じを受けていた。


「私はそれを認めない。ほんのすこしの感情の量の欠如で生まれ損なった芸術が存在することを」


「いや、聞いた感じどうしようもなくねえ? いったん正当性とか全部置いといて、感情が足りないといい芸術ができないんだろ。できないときにはできないじゃん」


「それを埋めるのが私の役割だ。その足りないほんのすこしの感情を、注ぎ足してやればいい」


 いよいようさんくさい話になってきたが、でもこいつが人間でないことが先に来ているせいで否定から入ることはできなかった。いや、おそらく否定そのものが難しいのかもしれない。なにせ相手は翼を持った非現実的な存在だ。それは現実的にあり得ない、と言うだけの根拠が俺には持てない。

 しかし一向に変化が見られない表情を前にしていると、すくなくとも冗談を言っているようには見えなかった。もし仮に嘘なのだとしたらお手上げだ。そうまでしても俺を騙すというあらゆるものに説明がつかないことをする意味と理由がわからない。

 俺はとりあえずウリエルの言うことをすべて呑み込んで話を進めることを決めた。疑問に思えば質問はするし、待ったはかける。けれども大前提は否定をしないことに決めた。そうしないと話が進まないのだ。


「ウリエル、お前の言う感情と俺たちのそれは同じものなのか?」


「そうだ。何かの事象に対して喜び、悲しみ、怒る。それらのことを感情と呼ぶ」


「それならどうして感情を学ぶ必要があるんだ、表面上は知ってるじゃねえか」


「私たちに感情はなく、理解もできない。たとえばなどはきわめて難しい感情だ。私たちの定義では感情とは実質的に断定の不可能なものを指す。同じ言葉である者は泣き、ある者は笑う。まったく同じ条件下に人を置いても個人によって生まれる感情は異なる。定義できないものは理解と結びつかない。違うか?」


「いやまあそれはそうなんだろうけど」


「そして惟親、貴様の誤解は私たち独自の表現によるものだ。学ぶ、とは私たちのあいだでは身の内にストックすることを意味し、そしてそれらは常に消費される以外の道をもたない」


「……あー、それが芸術家に感情を注ぎ足すってことか?」


 ウリエルは鷹揚に頷いた。信じがたくはあるが、そういうものとして話を聞けば筋道は通っているような気がする。つまりこいつは感情を中身こそよくわからないものの、手に取って動かせるものとして認識しているらしい。そしてその使い道が芸術作品の誕生に関わっている、と。

 座布団を見てみると、そこにはたしかに重みがあるようだ。実在を伴ってそこにあることは間違いないらしい。それがまったくのすかすかで手を触れることもできないような存在だったら幻覚を疑うこともできたが、もうそれは無理だった。抱えられて空を飛んだこともそうだし、幻覚なら俺の知見を超える話をすることはどうしたって不可能だからだ。


「それで、感情を学ぶってのはどうやるんだ?」


「私がそれを浴びればいい」


「いや難しくねえかそれ、どうやってお前に感情を向けるんだよ」


「……厳密には人が向けた感情の先に私がいればいい、という言い方になる」


「は? どういう、ああ、他のやつに向けた感情を拾えるってことか?」


「そうだ。この翼の届く範囲のものは拾うことができる」


 丸めた自分の翼をひとなでしながらウリエルは言った。よく見ると翼は腰の後ろについているらしい。飛ぶ機能は当然として、さらには感情を捕まえるための網としての役割も持っているらしい。その範囲が広いものかどうかは判断がつかないが、しかしそんなことは関係ない。


「まあいいや、俺がお前に感情を向ければそれで終わりだろ?」


「馬鹿か貴様。芸術に要求される感情が一般的なもので済むはずがないだろう」


「うわ面倒くせえ、なんだよ、何日かやらないとダメなの?」


「貴様の日常の感情では、たとえ何十年をかけたとしても量も鋭さも多彩さも補えるとは思えない。言い換えれば貴様が一〇〇〇人がかりで絵を描いたところで天才の芸術と張り合えるのか、という話でもある」


 腹の立つ言い方だとは思うが反論はできなかった。ヘンテコな論理に思えるかもしれないが、俺にはそれが納得できるものとして受け入れられた。芸術を感情から生まれるものとしたうえで、そして俺が素晴らしい芸術と縁がないのなら、それは俺に感情が足りない証明にならないだろうか。あるいはこちらのほうが正確な言い方かもしれないが、芸術家たちの感受性が優れていることの証明にならないだろうか。技術という土台がないのだからそもそも、という気もするが、それ以上に俺には実感があった。

 ただ引っかかるところもあった。俺のような一般的な人間の感情をどれだけ集めたところでダメだと言うのなら、どうしてこいつはここにいる?


「だとしたら来る意味ないだろ、世界のほとんどは一般人だぞ」


「私も憂慮している事項のひとつだ。しかし私が動かなければ生まれることさえ叶わない芸術がある」


 すべての論理がここに帰結するのだから、こいつの最大の目的は芸術を滞りなく世に出すことなんだろう。おそらくその目標を達成するまで帰らないわけだ。まあでも聞く限り俺にできることは何もないらしい。それに助けを求めてやってきたわけではなさそうだ。目的のために自分で動く。それだけを考えれば好感の持てる相手だ。それと実際の評価は別だけど。

 とりあえず聞きたかったことは聞けたような気がする。聞いてどうするんだ、と言われたらその通りなのだが、この状況で何も聞かないのも無理だろうとも思う。


「ところでウリエル、なんでいきなりプールから俺を抱えて飛んだんだ?」


「誰か人の来る気配があったからだ」


 言われてみればそりゃそうだとしか言いようがない。警備の人か当番の先生が見に来るに決まってる。あの雨、いま考えればプールの水だ。あれが雨みたいに降るほどデカい衝撃があったのなら誰だって気付く。そんな現場に居合わせたら、なんて想像したくもない。

 ……あれ。ということはこいつも逃げる必要があったってことで。つまりバレたらよくないと認識していたってことで。待て待てもしかして、おいおい。


「え、お前もしかして俺以外のやつにも見えるの」


「何を言っている? 私がいるのに私が見えないなんてことがあるわけがない」


「ちょっと待て! 天使なんだろ!? なんか力を使って透明になるとか……」


「私は実体を持ってここに在る」


「俺は死ぬのか」


「会話が成立していないな、惟親」


 理解して顔が赤くなるほど恥ずかしくなった。必要としていないのに、神社からの経緯が勝手に頭によみがえってくる。外を歩いて帰って来たのだ。この翼を備えた非現実的存在を連れて。両手が知らず知らずのうちに頭を抱えていた。

 ウリエルは相変わらず無表情のままだったが、俺の心理状態のせいなのかかすかに不思議そうな顔をしているように見えた。不思議というのは感情なのだろうか。もしそうならこの顔は俺の思い違いなのかもしれない。混乱しすぎてまったく関係のないことを考えた。ああ、死んでしまいたい。


「やべえ! ウリエル、ここで待っててくれ!」


 それだけ言って俺は部屋を飛び出して階段を駆け下りた。

 本当に何も気にせず早く下の階に行くことだけに集中したせいで、母親がいれば叱られるほどの足音が五つ立った。

 家でいちばん大きなテレビのあるリビングに行くと、それにはニュースが映されていた。手前のソファには見慣れた頭がひとつだけある。しかし強い違和感があった。この頭の持ち主は一人ではニュースは絶対に見ないはずだからだ。悪い予感が走る。俺はそいつの前に回り込んだ。


「お、お、おう。お兄ちゃん。本日もいいお日柄じゃんね」


 目をこれでもかと泳がせながら耳慣れない言葉を発した。動揺が前面に押し出されている。我が妹ながら心配になる故障ぶりだが、しかしこれは俺の想定した最悪の事態の証明になりそうだった。


「玉緒……、見たよな?」


「あ、あー、えーと……。すげーレイヤーさんナンパしたね……」


「違う! コスプレの人じゃねえ!」


 そう叫ぶと妹が怪訝なものを見るような目で俺を見た。本気で説明したかったが、そのためには強力な手段が必要だった。目の前のこいつはいま完全に俺を危険人物としてしか見ていない。その目をされたままで天使だなんだと言えば、おそらく家族に連絡を取られてしまう。なにかのきっかけで俺が壊れた、と。

 それを避けるためには落ち着きと実証が最善と考えられた。いったんこいつを落ち着かせてからウリエルを連れてくれば、ある程度の理解は得られるはずだ。


「玉緒、契約だ。制限なしのアイス券二枚で他言無用。どうだ?」


「マジ? 期限は?」


「ない。一〇〇パーセント保証する」


 俺たちのあいだでのみ通じる約束の重い形式。それがアイス券だ。普段なら値段に上限をつけるが、事態が重い場合はその上限がどんどん上がっていく。つまり今回は最大限の契約だということだ。それも二枚で使用期限もなし。俺がこれまでに玉緒に提案してきた中で最上の条件だった。

 玉緒はしっかり一分ほど考えた。自分のなかで様々な角度から検討を重ねたのだろう。すくなくとも意味は理解しているということだ。悪くない。


「……いいよ、乗った。アタシは誰にもしゃべらない」


 差し出してきた手をぐっと握り返す。契約は成立だ。これでウリエルを外に出してやれる。こいつを騒がせたままでウリエルを帰そうものなら、あることないこと吹聴されるに決まっている。

 信じるかどうかは別にして、とりあえず事情は説明してみるか。

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