ウリエルの美しい感情

箱女

1

 天使を見たことがあるだろうか。俺はある。

 それは我が子でもなく、思わず目を奪われてしまうほどのかわいい子でもなく、インターネットエンジェルでもなく、宗教画に描かれてもいない。つまりは比喩ではなく現実に存在するという意味においての、だ。

 これは俺のある夏の体験だ。聞かれれば誰にだって話してやるつもりだけど、誰も信じないだろう。きっと。

 もし俺が将来のどこかで自伝を書くことがあったなら、その初めの一文はこうだ。




 ずどん、という音が響いて衝撃がびりびり空気を震わせる。突然に降り出したすさまじい量の雨粒が降り注ぐ。そのバックは抜けるような青空だった。世界のルールがいちばん底の部分から壊されてしまったみたいだった。大小を問わない水滴のカーテンに夏の太陽光が反射して、手の届きそうなところに虹ができていた。

 虹の向こうには、天使がいた。


 時間はすこし遡る。

 夏は暑くて、俺は健康だった。セミは壊れたように鳴いていて、風がおどろくほどゆっくりと、そして生ぬるく肌を撫でていった。高くに輝く太陽が影をアスファルトに焼きつけている。みんな家にこもっているのか、見える範囲には誰の姿も見当たらない。住宅街を歩いているのに世界には俺ひとりしかいないみたいだった。

 健康な学生がどこかで一度はそう思ってしまうように、俺は完全にひとりになってみたかった。夜に祭りを控えた日だというのにどうしてだろう、と自分でも思うが、そうしてみたくなってしまったのだから仕方がない。ときどき説明のつかない衝動がやってくるのだ。事前に連絡を入れずに。

 ひとりになるのにもちろん家はダメだ。外でないとならない。そして誰かが不意にやってくる可能性を排除する必要がある。俺がこの真夏の炎天下を歩いているのはそういう事情による。目指しているのは学校だ。

 学校の裏手側の、最低限しか手の入っていない林の先にあるフェンスを登る。頂点から飛び降りると足の裏がじんじんと痛んだ。侵入するならここがいちばんバレにくい。門を乗り越えるくらいなら誰でも思いつくし誰でもできるが、それをやるとまず近所の人に見つかって学校と警察に連絡がいってしまう。夜にそれをやった馬鹿がいたせいで翌日に全校集会が開かれたことがあるほどだ。

 その意味ではたしかに危険だが、いったん中に入ってしまえば案外バレない。俺はサンダルで校舎脇のアスファルトを踏みしめた。変な造りだとは思うが、本棟の屋上につながる外階段を上がっていく。


 目の前の水面が、不規則に巻く風で揺れてきらきら光る。俺はプールサイドの庇の下で壁にもたれてベンチに座っていた。太陽の力が強くてそのぶん影が濃い。日陰と日向を比べてみると別世界のようだ。水を撒かずに素足で歩けばやけどをしてしまう部分とそうでない部分ではあるのだから、別物と表現しても問題はないんじゃないかと俺は思う。足のそばの影と光の境界のところの線が、ちりちりと歪んでいるような気がした。

 ここは屋上だから風がよく通る。暑いには暑いけど、でも歩いてきた道のりよりはずっとマシだ。自販機で買ったスポーツドリンクのペットボトルはまだ冷たさを保っている。

 ここでひとりになれるのは夏休みの予定表のおかげだ。全校で部活がない日なら、こんなところには誰も来ない。外でひとりになるのに、この条件以上のものは俺には思いつけなかった。視線を上げると距離感のない空しかなかった。夏の空でしか見たことのない青色をしている。対象物もないのにすさまじく高いことだけがわかるのが真夏の不思議だ。夏が来るたびにどうしてだろうと思って、学校が始まると忘れる。そんなときだ。


 空がキラリと光った。


 その瞬間を俺はよく覚えていない。音がして、目が眩んだ。気がつくとすさまじい耳鳴りの中にいた。着ていたものは中まで全部ぐっしょり濡れている。ひとつも理解できずに混乱したまま周りを見回した。どこもかしこもびしょびしょだった。いや、濡れているなんてものじゃない。まさに豪雨が降りしきっていた。頭の上のビニールの庇はばたばたと音を立てているし、プールサイドにも信じられない量の水滴がたたきつけていた。

 豪雨? 冗談だろう、と思ったところで初めて平衡感覚を失っていることに気がついた。まっすぐ座っていることが難しく、俺の体はぐらぐら揺れた。おそらくとんでもない音のせいだろう。視界の端が勝手にねじれていくような気持ち悪い感覚に襲われる。体は傾いているのに脳だけは向きを変えていないようなズレが気持ち悪い。ぜんぶ嘘みたいに思えた。

 すぐ目の前に虹ができていることに気付いたのは、それからすぐだった。はじめは現実感がなかった。自分と同じ地平に虹なんてできるわけがない。けれど目に見えるものに嘘はつけなくて、俺はそれをまじまじそれに注目した。そこで俺はもっと先に気付くべき違和感にやっと意識を向けることができた。


「……人じゃん」


 それは煙るような水の幕の向こうに佇んでいた。さっきまではいないはずの、いるはずのないこのプールに誰かがいる。奇妙な状況を理解するために頭が高速回転を始めたのか、時間がゆっくり流れるような気がした。落ちる水滴もゆっくりになって、それに日の光が反射して、きれいだった。

 一気に押し寄せてきた意味不明な事態を結局は何も解き明かせず、俺の頭はきちんとした働きを失ってしまっていた。俺が取れた行動は、というか結果的にそうなっていたのは、水の幕と、虹と、その向こうの人影を眺めることだけだった。

 晴れた空からの豪雨のなかを、俺のものではない声がやけにはっきり通り抜けた。


「人ではない」


「は?」


 透き通った声が届けた言葉は、ひどく不穏だった。

 ふつうなら豪雨の音で聞こえるはずもない彼女の言葉をどうにか解釈するために、俺はそいつにじっと視線を固定していた。すると、因果関係があるのかはわからないが、それまで激しい音を立てていた雨が急にやんだ。まるで水道の蛇口をひねったみたいに、ぴたりと。そこには余韻みたいなものもない。プールサイドや俺自身が濡れてなければ雨が降っていたなんてとても信じられないくらいだった。あまりに周囲の状況が目まぐるしく変わるせいで、意識をひとつのところに集中することができなかった。

 雨が終わると、やっと人影の持ち主の顔立ちや姿かたちが見えるようになった。さっきまで降っていたのは二メートル先も見えない滝のような雨だったのだ。言葉を尽くそうにも俺の能力じゃ事足りない。

 確認できたその顔は、きれいなものだった。感想としてはさっき見た虹と同じ種類のものだ。遠くに望むべき非現実的な要素を含んだ景色のそれ。


「人ではない、と言った。私の背面から伸びているものを見るといい」


 彼女は口だけを動かした。言ったわりには背中を見せようともしていない。ずっと背伸びをしたような姿勢のままわずかにうつむいている。ヤバいやつなのだろうか。現時点で出ている要素を並べ立てればイエスだ。それ以外の結論は導けない。けれどショックでなにかが麻痺しているのか、俺は立ち上がりもせずに働かせ続けていた。ヤバいとわかっていながら逃げようという当然の判断さえできない脳みそを。

 背にあるもの、と言われても俺の体はすべて動くことを忘れていて、できることといえばぼんやりそいつを眺めることだけだった。俺には何もわからない。


「いけない」


 ぼそっとつぶやいたかと思うと、そいつの腰の横の空間が波打った。目を奪われてそちらを見ると、この日差しの下でさえふんわり発光する翼が、左に右に二メートル以上伸びている。上空から糸で吊ったようなそいつの姿勢が初めて崩れると、急激に近づかれたような気がした。気がした、とあやふやな表現なのは次の瞬間には俺は眼下に街を望む状況に追い込まれていたからだ。


「うおお! 高っけえ! なに!? こわっ、はあ!?」


「静かにしろ、暴れるな。手が滑ってしまうかもしれない」


 言われて気が付いた、腹に強烈な圧迫感がある。おそらく俺の腹に手を引っかけて持ち上げているんだろう。どうやって持ち上げているか? 現実的じゃないけど導ける可能性はひとつしか見当たらない。こいつは俺を抱えて飛んでいるんだ。

 スピードの乗ったジェットコースターが上がっていくよりも早く地面が遠ざかっていく。起きていることを理解して受け入れられているかどうかは別にして、肩に乗るくらいのすぐそばのところに死があると思った。


「やめっ、やめろ! 落とすな!」


 俺を抱えたそいつは何も答えずに、実際に見ることができていないからこう言っていいのか微妙だが、飛んでいく。地上との距離がかなりあるから速度はよくわからない。顔に感じる風を考えるとそれなりのスピードで飛んでいるらしかった。恐怖は変わらずにあったけど、次第に心には余裕が生まれ始めていた。人間は慣れる生き物だと誰かに聞いた覚えがある。まさにその通りだった。あとで思い返すとそのことが何よりも怖かった。


 真正面にはおかしくなってしまいそうなほどの日向。石畳がそれを浴びて真っ白に照り映えている。土の地面を横切るそれは、まさに神の通り道と言われても納得できるものだった。俺はそれを木陰の地べたに座って眺めている。左に目を向けるとぼろぼろの本殿があって、右を見ると鳥居があった。略式なのか作るときに気合が入ってなかったのか、あとは狛犬くらいしか神社らしいものはない。目の前にいる認めたくないものから視線をそらしても、得られる情報はそれくらいだった。

 俺そのものは乾いたけど、着ていたものはそうはいかない。尻をついている地面のところはだんだんと水が染みてで色が変わってきていた。暑いのに気分の悪い体温の奪われかたをしていて、よくない風邪をひいてしまいそうだ。


「貴様、なぜあのようなところにいた」


 幼稚園児に話しかけるような屈みかたをしているくせに、そいつは無表情だった。そのギャップが俺の恐怖を呼び起こす。声の質と大きさに反して脅迫されているような気しかしなかった。しかし何度でも繰り返すが、俺はそのときなにか大事なものが麻痺していて、取るべき行動をきちんと選びきるだけの余裕はなかった。何が言いたいかというと、俺はつっかかったのだ。


「それを聞きたいのは俺のほうだよ、お前、なんだ? 意味わかんねーぞ」


「私はウリエルだ。あそこに来たのは誰もいないはずの場所だったからだ。これで貴様の質問には答えたな。私の質問に答えろ」


 学校のプールにひとりになりに来た、とは俺には言えなかった。なにせあまりにもこっぱずかしい。旅の恥は搔き捨て、一期一会なんて言ってもかける恥にはさすがに限界がある。正直に話すことはできない。しかしあまりにも変な回答もダメだ。俺はいまだ混乱が抜けないままで口を開いた。


「たまたまだ」


 自分は馬鹿なのかもしれないと真剣に考えたのはこのときが初めてだった。


「そうか。運の悪いことだ」


 どうやらこいつも馬鹿の可能性が出てきた。

 ウリエルと名乗った自称人間ではない存在は、姿勢を保ったままじっと俺の額あたりを見つめていた。まるでそこに世界の秘密が書かれているかのように。だが実際はそんなものなんてどこにもない。俺の額は俺の額でしかない。あってニキビくらいのものだ。もしそれがあるのだとしたら見ないでほしい。

 木によりかかって地べたに座っている俺と、かがんで俺の顔を覗き込むウリエルの距離は近い。自然と俺も目の前の顔を見ることになる。表現として間違っているだろうことを無視して言うなら、おそろしく出来の良い顔だ。人にはそれぞれ好みに差があるからおおげさなことは言えないが、好みに合っていない人であっても整っていることは認めざるを得ない。そんな顔立ちをしている。無表情なのにそう思わせるのがすごいのか、無表情だからこそそう理解させるのかの判別はできない。


「おい、ウリエルって言ったな、お前は何なんだ?」


「貴様も呼んだだろう、私はウリエルだ」


「そういう意味じゃねえよ、俺が人間みたいな話だ。お前は種類として何なんだ?」


「……天使だ」


 ほんの短いあいだウリエルは黙って、そうしてきっぱりと言い切った。


 天使を見たことがあるだろうか。俺はある。

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