鈴蘭

◎鈴蘭

科・属:キジカクシ科・スズラン属

英 名:Lily of the valley

花言葉:『再び幸せが訪れる』


***


彼との出会いは、ふらっと立ち寄った大衆居酒屋。

―私の世界にあなただけじゃ、私はだめな女になってしまう。




「鈴蘭って、俺がいなくても生きていけそうだよな」

よく聞く台詞。使い回された台詞。

あなたたちだってそうじゃない。

私じゃなくちゃいけない理由なんてないくせに。


雨が降っている。

くせっ毛の私にとって、雨の日は時間との戦いだ。

この日もうまくまとまらなくて、結局ポニーテールにして家を出た。


湿ったストッキングと小さな水たまりができた靴。


仕事が終わっても雨は止んでいなかった。

潰されたらぺしゃんこになってしまいそうなくらい重たい灰色の雲。

私の気持ちもどんよりしている。


いつもだったら少しでも早く帰って、武装と外面を解いて、自分を癒すことに尽力するのだけれど、なんとなく帰りたくなくて、商店街の方へ足を伸ばした。


入ったのはテーブルが油でべとべとしている大衆居酒屋。

平日だと言うのに、店内はそれなりに賑わっていた。

仕事終わりのサラリーマン、大学生っぽい出で立ちの男の子たち。

男男男男男…の中にぽつんと1人。

お客さんもお店の人も、最初は珍しいものを見るみたいにしてたけど、もう何もなかったかのように飲んで話して騒いでいる。


壁に貼り付けられた紙が目につく。

『おでん、あり〼。』

雨で冷えた私にちょうどいい。

「すみません、おでんと焼酎のお湯割りください」

「あいよ。おでんの具は何にしましょう」

「ええと…大根と牛すじってありますか?」

「ありますよ。あとは適当に見繕いますね」

「お願いします」


何回かおかわりをして、エイヒレの炙りを待っているとき、声が聞こえた。

「お姉さん何しとん?」

流暢な関西弁。

「何って…特に何も」

「ふぅん。隣、座ってもええ?」

私の返事を待たずに座った。強引な人だ。


「で、何しとん?」

「何って、だから特に何も」

「何もしてへんことないやろ。平日ど真ん中やのになんでこんな美人さんが1人で酒引っかけとんねん」

失礼な。美人だろうとそうじゃなかろうと、男だろうと女だろうと、好きなようにさせてよ。


「あ、怒った?顔、むすっとしとんで」

もう面倒くさいので放置することにした。

「なあなあ、お姉さんさ、それってキャラなん?」

キャラって何よ。それってどれよ。

「無視はさすがにないんちゃう?」

ああもううるさい。

「うるさい!」

自分でもびっくりするくらい大きな声が出てしまった。

辺りが一瞬しんとして、視線を感じる。

いつぶりだろう、こんなに大きい声出したの。普段使わない声帯を使ったのか咳き込んでしまった。


「ハハハハハハハハハハ」

視線も、私の止まらない咳も、全部かき消すくらい大きな声で笑う彼。

「ああおもろ。お姉さんちゃんと腹から声出せるんやん」

少し涙ぐみながら彼は続ける。

「ごめんな、気に触ること言って。なんか無駄にツンツンしとうなこの女、と思って気になってん」

「あなたは随分と馴れ馴れしいのね」

「フレンドリーって言ってくれや」

いやあいいもん見してもらったわ、といつの間に来たのか、ビールを片手にまだ笑っている。

「変な人」

「おお?声に出とんで?」


結局そのあとも彼は私の隣に居座って、私をからかって面白がっていた。


時刻は20時40分。

明日もあるし帰ると席を立つと腕を掴まれた。

ひょろひょろしてるくせに、よく見れば腕は筋肉質で力も強い。

「なに。痛い」

「おじちゃん、俺とこの子の分会計して」

「あいよ」


「いいよそんなの」

「ええからええから」

「いやでもっ…」

「お姉さんほんま不器用やな。こういうのはありがとう〜って上目遣いしとけばええねん」

「…」

不器用。小さい頃からたくさん言われてきた思ってきた、私のどうしようもない性格。

「じゃああれや。つまみ代。お姉さんで随分遊ばせてもらったから」

な、と押し切られ奢られてしまった。


雨はあがっていた。

傘を持って、彼にお礼を言ってお店を後にする。


が、後ろに気配を感じる。

「なんでついてくるの」

「そっちに喫煙所あんねん」

「お店の前にも灰皿あったでしょう」

「あっちの喫煙所で吸いたい気分やねん」


もういい。知らない。


「勝手にすれば」

「おう」


駅に向かって歩いていくと本当に喫煙所があった。

喫煙所というか、煙草屋さんの前にいくつか灰皿が置かれている広場みたいなところ。


「な、あるやろ」

「じゃあここで」

「つれへんなあ。そんな俺と話すん嫌?」

そんな子犬みたいな目で見ないでよ。私が悪いことしてるみたいじゃない。

なんだか馬鹿らしくなってきた私は、もう何も考えないことにした。

後悔したって、言い訳ならたくさん思いつくのだから。


諦めた私を察したのか、また彼は小さく笑って、段差に座りこんだ。

慣れた手つきで煙草を吸い出す彼。


あれもこれも全部お酒のせいだ。雨のせいだ。何かのせいだ。


「火、貸して」

「おう」

甲高い金属音と滑りのいい歯車の音。


深く深く煙を吸いこんで、ふぅーっと吐き出した。


「ねえ、このあと――」




「お姉さんよくこういうことするん?」

「まあたまに」

ベッドの周囲に散らばった武装の破片を拾って装着する。

「へぇ」

「がっかりした?」

「いや、別に」

仕事に疲れていたし、雨も降っていたし、彼氏もいない。

誰に責められているわけでもないが、心の中でたくさん言い訳を述べていた。


若い頃は人並みかそれ以上に遊んで、朝帰りなんてザラだったけど、もうそういう時期は終わったのだ。

夜はいつも使っているクレンジングで化粧を落としたいし、自分の寝床でしっかり眠りたい。

もう20代も終わりが見えてきて、落ち着きたいな…なんて思っていた矢先の破局。

そりゃあ知らない男と肌を重ねたくもなる。

扉にもたれかかって、窓に映る明日の気配を感じていた。


もうすぐ家だという頃に携帯電話が震えた。

『凌:家ついたで』

『凌:気をつけて帰るんやで、すずらんちゃん』

既読だけつけて、元に戻した。




それからたまに会って、食事と行為をする所謂そういうお友だちになってしまった。

お誘いはほとんど彼から。

最初はその日の寂しさを紛らわせられたらいいやって思っていたのに、こんなことになるなんて。


何度会っても彼は名前以外教えてくれなかった。

どこに住んでいるのか、どんな仕事をしているのか、私は彼のことを何も知らない。

重度の脚フェチでスカートを履いてきてとお願いをする彼。

湯気で見えないふりをするけど、ラーメンを頬張る私を愛おしそうに見つめる彼。

パーソナルな部分に踏み込んだとき、少し困った顔をして追々な、と答える彼。

どれも彼だけど、本当は彼本体の輪郭すら捉えられてないんじゃないかと不安になる。こんなの私らしくない。



『凌:なあなあ』

『凌:今週の日曜日って空いとる?』

『凌:仕事でそっち行くから会いたいねんけど』


初めて出会った駅の、あの広場で待ち合わせることになった。

紫外線が気になるから日傘を差していった。


「おう」

仕事で来ると言っていたからてっきりスーツ姿だと思っていたけど、彼はいつも通り柄シャツを着てサングラスをつけていた。

「今日はどうする?何時までいられるの?」

「17時くらいには出たいな」

時刻は13時を少し過ぎたところ。今日はごはんはなしかななんて考えていると、信号が青になった。


いつもと同じホテルで、いつも通りの行為をした。

彼はジーンズだけ履いて、煙草を咥えてうろうろしている。

意を決して声をかけた。

「ねえ、1つ聞きたいんだけど」

私に背中を向けたまま返事が来る。

「出会ったときから言ってる、私に対する好きって何?私を落とすなんて言ってるけど本気じゃないでしょう」

「好きは好きやろ。お前を落とす気なんも本気」

彼は続けた。

「大体なあ、好きでもなんでもない女のために仕事の合間時間作ってわざわざ会いに来るか?」

そんなの初耳。今日だって、私と別れてまた次の人のところに飛んでいくものだと思っていた。

ベッドから降りて、ごつごつしていて大きくて、仕事か子供のころかいつついたのか分からない傷だらけの背中に抱きついた。


「どうしたんすずらんちゃん」

「名前、呼ばないでって言ってるでしょ」

「どうしたんすずらんちゃん」

「うるさい。こうしていたいだけ」

彼は静かに煙を吐いた。




帰りの電車に揺られながら、自分の感情について考えた。

彼は私のことをちゃんと好きらしい。

ちゃんと好きって何?

私は彼のことが好き?

いなくなられたら寂しいけど、好きかどうかは分からない。

あっという間に最寄り駅に着いてしまった。


きっと望めば手に入る。

私は彼の彼女になれる。

でも一歩、その一歩を踏み出したくない理由――


「もしもし。ごめん今大丈夫?」

「おう。どうしたん。もう俺が恋しくなったか?」

「あのね、話があるの」


彼のことは好き。

でも彼への好きが溢れてしまって、彼からの好きよりも多くなってしまったら。


元々ないものがないままなのは何も変わらない。

でもあったものがなくなるのは怖いし辛い。


ううん、それよりも何よりも怖いのは、彼との未来が見えないこと。

彼女になってその先は?結婚したい?家族を作りたい?

どれだけ関係が進んだって、その地位は永遠じゃない。

むしろ儚いことを私はよく知っている。


そんな恐怖と戦いながら、私の世界が彼ばかりになってしまって、どうしようもないくらい弱い女になってしまったら…?


そんなの耐えられない。私が許せない。



電話口の彼はどこかホッとしたような、寂しそうな声で「分かった」とだけ言ってくれた。


この先、彼は私を必要としなくなるかもしれないし、私もそうなるかもしれない。

でも今は、今この関係性でいられる間なら、先のことなんて考えないで、ただ彼との時間に浸れる気がするの。

その方が、私が好きなままの私で、あなたの記憶に残れる気がするの。


だから、ごめんね。


ずるいけど、あなたにとって未来が見える人が現れるまで、その一歩を踏み出すまでそばにいさせて。

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彼女になりたくない物語 ◯◯ちゃん @mamimumemo88

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