第4話

 東浦法律事務所は住居を兼ねており、東浦と権田はここに住んでいる。浴室もあれば、寝室もあるのだ。

 そんな事務所に女性が入るのは、世界が変わって以降は初めてかもしれない。さらに言えば、窓ガラスが割られたことも、隣のビルの非常階段に人が飛び移ったことを見ることも、初めての経験ではある。

 そして権田は物置に散らばる割れたガラスを片付けながら考えていた。何かがあったわけでもないのに一瞬にして信用を得たような気がしたのだが、その要因が分からずにいる。とりあえず、少女が着ていた服はぼろぼろになっていたので、一通り男物の衣服を渡したが、素直に受け取り浴室に向かっていった。窓ガラスを割って逃げるバイタリティとのギャップを理解できぬままだ。

 片付けが終わると、準備しておいた食事をテーブルに広げる。お腹を空かせていることは明白だ。準備をしていると、そこに少女がやってきた。ようやく汚れを落とした姿を見ることができたわけだが、まるで別人のようだった。


「……さっぱりした?」

「はい……ありがとうございます」


 少女は素直に返事をする。窓ガラスを割って飛び降りた人間と同一人物とは思えない。


「僕は、権田一之助。君は?」

君咲綾香きみさきあやか……です。君主の『君』に、花が咲くの『咲』と書いて、君咲です」


 ようやく名前を知ることができたことに、権田は胸を撫で下ろした。一仕事したかのような達成感だ。だが、聞かなければいけないことがたくさんある。


「君咲さん、ね。珍しい名前……よろしく。寝ている間、点滴はしていたけど、全然栄養が足りてないからとりあえず食べた方がいいよ。テーブルにあるのは全部食べていいから。座って」

「……ありがとうございます」


 君咲は座るなり、テーブルに並べられた食事に手を伸ばす。ただただ無言で食べ物を口に運んでいた。その様子を見た権田は、少しの間、別室で待機することにしたのだった。


 少し経って権田が部屋に戻ると、君咲は座ったまま外を眺めていた。テーブルに乗せられていた皿は、全てからっぽだ。


「本当に、よく食べたね、それでいい……体調はどう?」

「ごちそうさまでした……こんなに食べたの、いつぶりか思い出せないくらい……体調は平気ですが、少し眠いです……」


 君咲が目をこする様子に、権田は少し笑みを溢す。そのまま、君咲の対面にを下ろした。


「お眠なところ悪いんだけど、君咲さん。色々お話しないといけないんだ、付き合ってくれるかな。まずは昨日、僕が君を見つけてここまで連れてきたんだけど、それは覚えてる?」

「いえ……いつからかまったく記憶が……」

「新宿駅近くの、西口側に抜けるガード下で、横たわっていたんだよ。今にも死にそうな状態だった」

「そうだったんですね……助けていただいてありがとうございます」

「あとさっき、逃げたでしょ?それなのに何で、急について来る気になったの?」

「それは反射的と言うか……あ、窓ガラス割ってごめんなさい……目が覚めたら知らないところにいたので逃げなきゃ、と思って気づいたら窓を割って飛び降りてました……それでさっき追いかけてきたとき、言葉遣いと表情で悪い人ではないと分かったので……」


 君咲の言葉に嘘はないだろう。権田にもそれくらいのことは分かる。


「そっか。でも、ついてきたら悪い人だった、っていう可能性もあるでしょ」

「いえ、あたし、人のことを見抜くことだけは、自信があります。あなたが悪い人ではないと、確証がありました」


 確証、という言葉に引っ掛かりを覚える権田であったが、今は話を聞くことの方が先決だ。


「……先にこっちの紹介をしたほうがいいね。ここは東浦法律事務所。代表の東浦さんは、いま外出してて居ないのだけど、ここで仕事しながら、二人で暮らしてる。もちろん二人とも家族は、いないよ」


 権田は取り出した名刺を指差しながら説明する。真剣な眼差しで君咲は話を聞いていた。


「仕事……してるんですか?」

「そう。法律は無効だし意味を成していないけど、それでも、いざこざってあるんだよ。今は弁護士の知識を使って、本当に意味での公平性、平等性、を主眼に置いた仲裁業をしてる。依頼、結構くるんだよ」

「おもしろそう……」

「そう?やりたいなら相談してみようか……っとその前に、君咲さんの素性を聞いておかないと」


 君咲は頷き、口を開く。


「君咲綾香、17歳です。家族は皆死んでしまって、いません。練馬駅近くで日雇いの仕事をしてましたが、仕事場が集団に荒らされてしまって……住む場所を失い、新宿へ向かって歩いてました。そこからはあまり、記憶がありません」


 無理もない。実際に死にかけの栄養失調だったわけで、意識も朦朧としている様子を、権田は見ている。


「君咲さん、もしかして一年前の騒動、関わってない?」


 権田の言葉に、一瞬、君咲の表情が陰りを見せる。


「はい……『元学生らの暴動』ですね、メンバーの一人でした」


 案外、すんなりと君咲は認めた。また、その騒動に名称があることを権田は知らなかった。


「そっか……テレビでいっとき映像流れていたから、見覚えがあるな、と思って。その呼び方、初めて聞いたよ」

「この呼び名は、テレビ局がつけたんですよ。現政府も、その名称を使ってますし、学校の再開を検討している教育委員会も、教科書にはその言葉を使用する予定です」

「なぜそんなことを……」

「知っているのか……ですね。あたし、最近も仕事の合間に、色々なことを調べてました。政府のこと、世の中のこと……亡くなった仲間のためにも、やり遂げたいことがあるんです」

「やり遂げたいこと?」


 君咲は頷いて、一呼吸してから口を開く。


「この世を再建して、人々を幸せにしたいんです」


 権田は、その言葉と眼差しに吸い込まれた。その言葉に、偽りがないことがはっきりと分かる。普通、出会ったばかりの他人に夢や目標を打ち明けることはしない。ただ君咲には何のためらいもないのだ。抽象的な内容と思うかもしれないが、この世を生きる人間には意味が通じる内容であり、実現性の観点において共感を得がたい内容でもある。


「理解されなくても、いいんです。こういう世の中ですから。けど、誰かがやらなくちゃいけない……。また世界は、元に……いや、もっと良くできるはずです。そのためにもまずは、何があったのか、解明しなくてはならないと思ってます。亡くなった仲間のためにも……」


 その真っ直ぐな言葉は、権田にとって刺さるものがある。


「……じゃあ、ウチで働いてみたら?色々な人と関われるし、情報収集しやすい環境だよ、きっと……東さんがOK出せばだけど」

「……いいんですか?」

「東さん帰ってきたら、聞いてみるよ。ただ、一つ条件がある……隣のビルに飛び移るような危険は冒さないこと。下手したら怪我じゃ済まないからね……あとガラスを割らないこと、も追加しておかないと」


 権田の言葉に.君咲は表情を緩める。


「少し休んだら?眠いでしょ」

「はい……すみません」


 そう言って立ち上がり、頭を少し下げた。そのまま、先ほどまで休んでいた物置に向かう。権田はその様子を見ながら、安堵とも言い切れぬ、不思議な感覚に酔っているのだった。

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