第77話 誤解としての出発



「完成~! ショートツインテのアッシュ君!」


「やッッば、めちゃ似合うじゃん!」


「わぁ~! かぁ~わぁ~い~い~!」


「そ、そうですか……? あまり自分では分からないのですが……」


“ケンタウロス”2階にある大部屋の談話スペース。そこでルフル達に絡まれているアッシュは、彼女達のノリの良さにタジタジになっていた。


 というか、アードベルから王都に向かっているこの数日、女装を済ませたアッシュに対して、ルフル達は終始テンションが高いままだった。


 この“ケンタウロス”の乗り心地の良さや、そのラグジュアリーな雰囲気というか、そういうものが彼女達のテンションの高さを底上げしているのかもしれない。



 クラン『鋼血の戦乙女』が所有している大型高速馬車“ケンタウロス”は、馬車というよりも陸を走る客船に近いかもしれない。


 魔導機械術によって製造されたその車体は、内部の広さを確保しつつ前後に長い筒状になっていて2階建てだ。


 1階にはトイレやキッチンスペースが備えられ、個室が10部屋並んでいる。2階はゆったりとした大部屋となっており、談話用のテーブルセットと仮眠スペース、更には簡易シャワールームまで完備されている。


 かなり豪華というか、この非常識なほどの機能性を備えたこの車体は、当然の如く巨大だ。普通の馬では引くことなどできない。そもそもこの車体自体が、もはや車両ではなく建築物に類するスケールだろう。


 だが、魔導機械術士達の技術は、この車体を馬車として運用することを可能にしていた。


 車体底部に装着してある高位魔導具が常に重力魔法を発動させているため、車体が地面から浮き上がっているのだ。


 これにより車体重量で街道を傷つけることもなく、他の馬車とすれ違う際にも、街道から完全に外れて道を譲ることも可能としている。


 更に、この“ケンタウロス”を引くための馬は、魔術的な品種改良と筋骨強化によって誕生した、超大型の軍馬達だ。


 新種として生み出されたこれら大型種の馬は『タイタン』と呼ばれ、温和な性格でありながらも、夜目が非常に利いて肝が据わっており、並みの魔物を遥かに凌ぐ筋力とスタミナが特徴だった。軍属動物としての優秀さから、他国の軍からも是非欲しいと注文が集まっているらしい。


 そんなタイタン達が引いてくれる“ケンタウロス”は、重力魔法によって浮き上がっているだけでなく、前後左右への推進力も発生させることができる。そのため、どんな悪路でも走破するだけでなく、タイタン達への負担も大きく軽減しているのだ。


 並みの馬車などよりも遥かに上回る高速移動を可能にしている“ケンタウロス”だが、車輪を必要としていない車内は殆ど揺れないし、かなり静かだ。魔導機具による空調も効いているし、かなり過ごしやすい。下手な安宿より余程快適だろう。


 だが――。


 ルフル達に囲まれているアッシュにとっては、落ち着かないことこの上無かった。もちろん彼女達に悪感情や悪印象を抱いているわけではないのだが、どうも彼女達の勢いに圧倒されてしまうのだ。


「もう何回も言ったけどさ~。無自覚なのは勿体ないってアッシュく~ん。お洒落の楽しさに目覚めたら、きっと世界が広がるよ~?」


 はしゃぐように言うマリーテ=ルノティフが訳知り顔になって、腕を組みながらうんうんと頷いた。


 カルビよりも身長は低いだろうが、マリーテも高身長な女性である。


 鼻筋が通ったすっきりとした美人顔も、切れ長だが少し垂れ気味の目も蠱惑的だし、サラサラとした赤紫の髪を後ろで束ねているのも、颯爽とした雰囲気があって似合っている。ローザ達とはまた違った感じの、格好良いお姉さんといった感じだ。


「まぁ、アッシュ君は素材がいいからねぇ~。男の子の恰好でも、女の子の恰好でも、薄味でバッチリ決まっちゃうのは羨まし~」


 マリーテに続き、おっとりした声を楽しそうに弾ませたのはステファ=シェルルだ。


 艶のある褐色の肌、猫のようにくりくりとしていながらも何処か眠たそうな目、そしてクリーム色のセミロングの髪が印象的な彼女も、少女然とした笑みを浮かべてアッシュを眺めてくる。


 クラン『正義の刃』に所属する彼女達は、クラン内でも特に優秀だとして選抜された女性魔術士だ。今回は彼女達も、王都まで歌姫を迎えにいく任務に就いている。


“護衛する冒険者を女性で固めて欲しい”という事務所側からの要望のため、クラン『鋼血の戦乙女』が主体となり、『正義の刃』の女性メンバーが同行し、そこにアッシュも加わっているという状況だ。


 歌姫を含め、彼女が所属する事務所スタッフ達を安全にアードベルまで送り届けることが、まずはアッシュ達の仕事になる。


 今回、王都に向けて走っているケンタウロスは2台。そのうちの1台にアッシュ達が乗り合わせて、あとの1台にはヴァーミルやシャマニなどが乗り合わせている。


ケンタウロスに乗り込む際のルフル達が、「うわー! 王宮のお偉いさんとかが乗るヤツじゃん!」「やばぁ! こんな機会なかなか無いって!」「王都まで姫様気分を味わえるねぇ~!」などと、めちゃくちゃテンションを上げていた。


 まぁ、王都に着くまでの間は護衛する対象もいないので、その間にリラックスして英気を養っておくべきなのだとルフル達も判断しているのだろう。


 歌姫や事務所スタッフを迎えたあとは、気を休める暇など無いはずだ。


 そのことを思えば、ああやって緊張を緩めるタイミングにメリハリをつけるのも、精神的なスタミナの維持というか、長期の任務をこなすための一種の技術に違いない。


 ルフル達の無邪気な明るさの奥にある、その職業的な冷静さは間違いなく信頼できるものだ。エルン村での共闘で、アッシュはそれを知っている。


 ちなみに会場警備役のローザ達は、ケンタウロスには乗り合わせてはいない。アッシュと彼女達は別行動である。


「あーし的には~、アッシュ君はカッコイイ系よりも、可愛い系の方が似合うと思うんだよね~」


 言いながらアッシュの目の前に移動してきたのはルフルだ。彼女は艶のある唇をぺろっと舐めてから、アッシュが着けたウィッグを正面から弄るために手を伸ばしてくる。


「ほら、こんな感じで~……」


 アッシュの目の前で無防備な前屈みになったルフルは、やはりというか、暗黄の魔術装束の胸元を大胆にはだけさせていて、その露わになった胸元、そして谷間が、ずずいっとアッシュの目の前に突き出されるような状態になる。


「ツインテールを片方だけにして~……、ほら! あーしとお揃い~!」


 にしししっと悪戯っぽくルフルが、アッシュの顔を覗き込むように笑いかけてくる。彼女の豊かな白い乳房も、アッシュの目の前でたぷたぷと無邪気そうに揺れ動いた。


 ……前にもこんなことがあった気がするが、居心地が悪くて仕方がない。


 というか、マリーテとステファの2人も、小洒落た濃紺色の魔術士装束の胸元をはだけさせて、大胆に着崩しているので余計だった。


「おー! いいじゃんいいじゃん!」


「う~ん、素材の味が生きてるぅ~!」


「だしょ~~!?」


 そんな彼女達が仲良くはしゃいで『うぇーい!』などと身体を揺すると、彼女達の無防備な乳房も一緒にはしゃぎ、ゆさゆさぷるるんっと強調されるのだ。


「そ、そろそろ王都も見えてくるらしいので、髪型は戻しておいた方が……」


 引き攣った苦笑を維持するしかないアッシュの体感としては、視線を落ち着かせる場所を探すのも一苦労だ。そして更に極めつけの人物が、自然とこの雑談に混ざってくる。


「もう少しぐらいならぁ、そのままでいいじゃなぁい」


 談話スペースの隅にゆったりと腰掛け、優雅に脚を組んでいるチトセだ。蒼いメッシュの入った黒の長髪を軽く掻き上げた彼女は、「んふふ」と笑みを溢した。


「今のアッシュ君が、ちゃんと女性に見えるなら何も問題ない筈よぉ~?」


 チトセの声音は甘ったるく間延びしていながらも凄まじい妖艶さが籠っている。彼女が纏っている黒の呪術師装束も、東方の着物をベースにしたものなのだろうが、とにかく露出度が凄い。


 彼女の豊満な乳房が、今にも零れ落ちんばかりに胸元が大きく開いているだけでなく、鳩尾あたりから臍の下あたりまでもがバックリと開いている。更には、スカート部分には太腿が丸出しになるぐらいに深いスリットも入っているのだ。


 呪術師装束の濡れたような黒と、チトセの瑞々しい肌の白さのコントラストは煽情的であるだけでなく、神秘的な繊細さも感じさせる。


 ただ、やはりパッと見ただけでは、女性的な魅力に溢れたチトセの悩殺的な肢体を、これでもかと見せつけるかのような格好であることに変わりはない。


「まぁ、髪型を多少変えたぐらいなら、護衛任務に支障は無いでしょうけれど……」


 ウィッグの髪に片手で触れたアッシュは、彼女の目だけを見てそう応じた。彼女と話をするときには、本当に視線に気を遣う。チトセのどこを見てもエッチな要素しかないからだ。


「んふふふ。でしょう~?」


 そんなアッシュの内心の苦労を見透かしているふうのチトセは、くすくすと笑いながら妖しい流し目を送ってきて、ゆっくりと脚を組み直してみせる。


 彼女の太腿はスラリとしていながらも、ムチムチとした肉感、そして無駄のない筋肉質な迫力を備えていて、どこまでも煽情的だ。


「ちょっとチトセさぁん! セクシー過ぎぃー!」

「えっちぃ仕種でアッシュ君を誘惑するのは禁止ですって!」

「そうそう~! 抜け駆けは駄目ですぅ~!」


 ルフル、マリーテ、ステファが順番に抗議の声を上げた。


 一方のチトセは「抜け駆けなんて、そんなつもりは無いわよぉ」などと甘ったるい声音で小さく笑みを溢しながら、また脚を組みかえて見せる。……明らかにアッシュに見せつけるための動作だ。


 あんな風にアッシュのことをからかってくるチトセも、『鋼血の戦乙女』に所属する、凄腕の医療霊術士、また呪術士でもある。


“教団”による調律で弱り切ったアッシュの身体を癒してくれたのも、ダルムボーグで瀕死状態のアッシュを救ってくれたのも彼女だ。


 王都に向かうこの“ケンタウロス”に彼女と乗り合わせることになり、アッシュはすぐに彼女に礼を述べ、礼を述べることが遅くなったことを詫びた。


 そのときのチトセは、「いいのよ。気にしないで」と笑ってくれた。「タイミングを作れなかったのは私の方だし。でも元気そうでよかったわぁ」と。


 そして、「……“あの男”の件は、この任務が終わってから話しましょう」と気遣わし気だが親身で、優しく、落ち着いた口調でアッシュに言ってくれた。


 “あの男”――ギギネリエスに関する話題をチトセが慎むことにしたのは、ダルムボーグでの件を知らない者が、この場に居るために違いない。

 

 アッシュは、チトセに気を遣わせてしまっているのを感じていた。


 王都に向かうこの旅の中でも、チトセは度々アッシュのことからかってくることがあったが、あれはチトセなりに、今のアッシュのことを見守ろうとしてくれていたのだろう。


「……おい、貴様」


 そんなチトセとは対照的に、やたら鋭い眼差しをアッシュに向けて来るのは、チトセの妹であるという、セツナ=アオギリだ。


 シャマニやヴァーミルと同様、軍服然とした『鋼血の戦乙女』の制服を纏っている彼女は、アッシュ達のいる談話スペースから少し離れた場所で腕を組み、壁に背を預けている。


 彼女の腰までを流れるような黒い長髪はチトセと同じだ。だが、セツナの髪には紅色のメッシュが入っている。切り揃えられた前髪と長身、刺々しくも美しい赤紫の瞳が印象的な美人だった。


「チトセ姉様が優しいからといって、色目など使ってみろ。その場で首を刎ねてやるからな」


 吐き捨てるような低い声で紡がれる言葉が、脅しではなく宣告であるということは誰でも分かるだろう。


ケンタウロスに乗り合わせてアードベルを出発してから、アッシュに対するセツナの態度は、ずっとこんな感じだ。積極的に悪罵されたり無視されたりすることは流石に無かったものの、とにかく彼女はアッシュのことが気に入らないらしい。


 今のセツナの纏う雰囲気は、サニアのように拒絶的でも無ければ、シャマニのように攻撃的というのも少し違う。もっと純粋に威圧的だ。


「や~ん! セツナさん、怖~い!」

「そんな仏頂面を続けてると、元に戻らなくなりますよー」

「ね~? セツナさんも美人なんだから、勿体ないよね~」


 アッシュを庇おうとしてくれたのかもしれない。

 ルフルとマリーテ、ステファが、ぶーぶー言う。


 その3人に対して、眉間に薄らと皺を刻んだセツナが、ゆっくりと目線を向ける。まるで斬撃そのもののような眼差しだった。かなりおっかない。


「や~ん……、セツナさん、こ、怖~い……」

「えぇ……、怖……」

「ひぃん……」


 手を取り合ったルフル達が身を寄せ合い、震えあがる。


 実は王都までの旅の中で、こんな遣り取りは何度もあった。もはや慣れてきているのか。セツナも軽く鼻を鳴らしただけだった。


「……そろそろお前達も気を引き締めておけよ」


 低い声で言う彼女の組んだ腕の中には、木製の柄と鞘が特徴的な刀剣が存在感を放っている。


 あれは……、居合刀というのか。あの刀身の反りは、瞬間的に刀を抜き打つのに適したものなのだろう。アッシュが扱っている長刀よりは短いものの、それでも十分に長い。


 クラン『鋼血の戦乙女』に所属する女性メンバー達は、魔導機械術によって設計開発された武具を主に扱うという話は聞いたことがある。シャマニが振るう蛇腹剣などがそうだろう。だが、どうやら彼女は、というかアオギリ姉妹は、東方由来の独自の武具や魔導具を扱うようだ。


「んもぅ~、セツナったら。そんな風にアッシュ君を警戒しなくとも大丈夫。王都までの度の間も、彼はずっと紳士だったでしょう? ……ねぇ?」


 困ったように眉を寄せたチトセは、アッシュの方に視線を流しながら、腕を組んで頬に手を当てるポーズを作った。……ああやって組んだ腕で、豊か過ぎる乳房をたっぷりと持ち上げて強調してみせるのはワザとなのだろうか。


 そこでセツナが、すぅっと片方の目を細めるのが分かった。

 彼女の赤紫色の瞳が、チトセとアッシュの間を静かに往復する。


 チトセのセクシーポーズと、それを前にしたアッシュの反応を見比べているのだ。ここでアッシュが鼻の下でも伸ばしていれば、居合の斬撃が飛んできていたに違いない。


「と、取り敢えず、僕が紳士であるかどうかは置いておくとして……」


 アッシュはチトセの方をあまり見ないようにしながら、セツナに向き直る。


「この任務に参加させて頂いている間は、僕も最善を尽くします。変な気を起こして、皆さんの邪魔になるような真似は決してしません」


「……何を当たり前のことを」


 アッシュを見下すような目つきになったセツナは、斬りつけるように言ってくる。


「それなりに腕は立つようだが、私は貴様のことを信用していない。……姉さまに対して、汚らわしい欲望を少しでも感じさせる素振りを見せれば、そのときは――」


「それは杞憂というものです」


 セツナの言葉を遮った冷然とした声は、落ち着いていながらも鈍い険のある響きがあった。


「アッシュの素行の清さは、貴女の同僚の者達も保証しているところでしょう。それに……、この場にアッシュがいることをギルドが許可した事実も、彼の人柄が清廉であることの証左に他なりません」


 2階の大部屋へと上がって来たサニアだ。彼女の鈍色の瞳は、無機質で拒絶的な光を湛えながらセツナを捉えている。


 王都に到着する前の精神統一のため、1階の自室で瞑想をしてくると言っていたはずだ。あれが確か2時間ほど前だったが、今までずっと瞑想を続けていたのか。


「王都までの道中、アッシュに対する貴女の態度を見ていて常々感じていたのですが……。個人的な感情を任務に持ち込んでいるのは……、セツナ、貴女の方ではありませんか?」


 しかし、瞑想を終えて内面を落ち着かせてきたにしては、サニアの声は珍しく感情的に聞こえる。セツナがせせら笑った。


「ほう……。個人的な感情で、この男に女装させてまで任務に招き入れたのは、どこの誰だ?」


「歌姫の護衛に関しては、彼の腕を見込んでの推薦したまでです。他意はありません」


「ふん。どうだか」


「はいはーい! やめやめ!サニアもセツナさんも、そんな喧嘩腰になっちゃ駄目だって!」


 言い合うような気配になったサニアとセツナの間に、すっと割り込むようなルフルが快活な声を滑り込ませる。なんとなくローザと似たところのあるルフルは、場の空気の読み方というか、治め方のようなものも似ているようだ。


「そーそー。私達はこれから協力して、歌姫さん達を護衛するんですから。ビジネスパートナーってやつですよ」


 ルフルに続いたのはマリーテも、そう言いながら肩を竦めて、サニアとセツナを落ち着かせるように見比べた。切れ長だが垂れ気味の彼女の目も、今はやけに凪いでいる。朗らかな人柄ながら、彼女の肝が据わっていることを伺わせる目つきだった。


「仲良しこよしのズッ友状態になるのは無理でも、せめてギスギスしない程度には落ち着かないとねぇ~。お仕事中は猶更だよ~」


 ふんわりとした笑顔を浮かべたステファが、うんうんと頷いてみせる。


 ゆるふわ声のステファの言い方には角が無く、この場全体を緩やかに包み込むようだった。落ち着いた柔和さを崩さない彼女の御蔭で、緊張しつつあった空気がふわっと膨らむ。


「……えぇ。分かっています」


「ふん……。言われるまでもない」


 サニアとセツナの2人も、ステファの纏う柔らかな空気に毒気を抜かれたのだろう。互いにそっぽを向いて、軽く息を吐くついでのようにそう溢していた。


「ルフルちゃん達の言う通りよぉ、セツナ~。そんな風にツンツンしてたら、任務に支障が出ちゃうかもしれないでしょぉ~?」


 この場の遣り取りを見守るように微笑んでいたチトセの言い方は、聞き分けのない子供に言い聞かせるようだった。


 顔を歪めたセツナが「わ、私は別に……」と何かを言いたそうにしていたが、結局は何も言わず、むすっとして黙り込んだ。拗ねたのではなく、何を言ってもチトセには響かないと判断した様子でもある。


「……噛みつくような物言いになってしまったことを謝ります。セツナ」


 一つ息を吐き出したサニアが、セツナに向き直って、すっと頭を下げた。だが、頭を上げてすぐに、「しかし……」と声音をやや引き締めて言葉を繋いだ。


「アッシュが信頼に足る人物であることは、間違いありません」


「書類上や実績で見れば、そうなのだろうな。……だが、この男が信頼できるかどうかは、私自身で判断させてもらう」


「あ、あの……!」


 またセツナとサニアの間に火花が散りそうになるのを感じ、今度はアッシュが割って入った。


「ギルドからの僕の評価がどのようなものであれ、今回の任務では、護衛対象である歌姫さんの身の安全が第一ですから」


 アッシュは自分自身に聞かせるつもりで言いながら、サニアとセツナを交互に見た。いや、彼女達の方がアッシュよりも背も高いので、交互に見上げる形になる。


「正直なところ、僕はこういった任務に参加させて頂くのも初めてですし、皆さんの足を引っ張ることもあると思います。でも僕は、ただ自分の役割に実直である以外にありません」


 アッシュは静かに言い切ってから、ちょっと驚いたような顔になっているルフルやマリーテ、ステファ、そして、どこか眩しそうに目を細めているチトセとも目を合わせた。


 最後にセツナに向き直り、軽く頭を下げる。


 彼女が如何なる理由でアッシュを毛嫌いしているのかは分からない。だが、この任務において、有用であろうとするアッシュ自身の姿勢を疑われてはならないと思った。


「もしも、この任務における僕の姿勢が不誠実であると、そうセツナさんが判断されたのなら――」


 アッシュは、セツナと敵対する意思が一切無いことを表すつもりで、少しだけ笑みを浮かべる。これから彼女と協力し、共有する時間を、せめて険悪なだけのものにしたくないという思いもあった。


「僕のことは、いつでも斬ってくれて構いません」


「……む……」


 微かに呻くような声を洩らしたセツナが、ぎゅっと眉間を絞ってから何かを言いかけ、だが、すぐに口を引き結んでそっぽを向いた。すると、表情を消したサニアが、横から低い声で言ってくる。


「……アッシュ。そのような優しい笑顔を向けるのは、私だけにはできませんか?」


「えっ」


「ぃ、いえっ、何でもありません。気にしないで下さい」


 少し慌てたように言うサニアの顔つきは、苦いものを噛み潰したような、それでいてちょっと寂しげだった。ルフルとマリーテ、ステファは難しそうな顔になって目を見合せている。


「……な~んかサニアって、アッシュ君のことになると不審者ムーブが多くなるよね……」「普段が冷静沈着で冷たい感じだから、余計に目立つというか……」「恋は盲目って言うもんね~……」


「あ、貴女たちも、何をヒソヒソと言い合っているのです!」


 慌てたようにサニアが声を上擦らせるのを見て、片方の頬に手を当てたチトセが「あらあらぁ」と楽しそうに肩を揺らした。


「そう言えばぁ~……。この旅の途中で、サニアちゃんがアッシュ君に向ける眼差しは、ちょっと寂しそうなのに熱っぽくて、ねっとりしてたような気がするわねぇ。それに妙に興奮しているというか、鼻息も荒かったような~……」


「ちっ、チトセまで何を言うのですかっ!?」


 何かを思い返すように視線を宙に上げているチトセに、朱に染まった頬を引き攣らせたサニアが抗議する。


「まるで私が、今の可憐なアッシュの姿を見て、ぎゅっと抱き締めたいであるとか、家に連れて帰りたいであるとか、そういった邪念を抱いているような物言いはやめていただきたい」


 余りにも真剣な表情と声音になったサニアに、「あらぁ、それはごめんなさいねぇ」とチトセが微笑みを深めてみせた。既にサニアの発言を聞き流している様子だ。


 ただ、サニアはまるで気付いていない風であり、その真面目くさった顔のままで、ルフル達を見回し、それからアッシュにも力の籠った眼差しを向けて来る。


「これも念のため言っておきますが、護衛任務が本格的に始まる前にアッシュと2人きりになるチャンスが無いかったではないかと密かに憤慨しつつも落胆しているとか、そんなことも決してありません。……勿論、アッシュは分かっていますよね?」


 問い詰めるような口調のサニアに気圧されつつも、アッシュは取りあえずといった感じで頷くしかなかった。


「え、えぇ。それは、まぁ……、はい」


「…………ではアッシュは、私と2人きりにはなりたいとは、思わなかったのですね?」


「えっ」


 急に真顔になったサニアが、ひんやりとしたオーラを纏い始める。今の彼女の瞳はアッシュを映しつつも、まったく動きが無い。まるで洞穴のようだ。


「あのさぁ、サニア……。言ってることが支離滅裂だし、追及がしつこくてちょっと怖いって」


 苦笑するルフルが話を切り上げて、マリーテとステファも肩を竦めつつ、またヒソヒソと言い合っている。「……あの調子だと、2時間の瞑想が必要だったのも頷けるね」「効果はあんまり無かったみたいだけどね~……」


「まったく……。賑やかなことだ」


 この場の空気が緩み切ってしまう前に、顔を顰めたセツナが横目でアッシュを見下ろしてくる。


「……他者の命を預かる以上、貴様ぐらいの気構えで臨んで当然だ」


 セツナは言いながら鼻を鳴らして、大部屋の窓に目を向けた。ルフル達やチトセ、それにサニアもそれに倣う。


「あ、見えてきたじゃん!」「あーぁ……。この旅も終わりか~……」「お仕事の時間だねぇ~」などと、ルフル達が思い思いに言いながら伸びをしたり、首や腕を回したり、気持ちを引き締めるように軽く息を吐き出してりしている。


ケンタウロス2階の大部屋からは、堅牢かつ荘厳、威風堂々としていながらも、どこか傲慢な印象さえ与えてくる白亜の壁が見えてきていた。


 王都グランツェーレ。


 かつての“勇者”の末裔、ライゴット=シンバ=グランツェスが、玉座を据える巨大都市である。


 アッシュから見えている防壁は、王都市街地を囲う六芒星型の城壁だ。その城壁の向こうに聳える巨大宮殿めいた城と、そこに付随する尖塔の群れが、傾きかけた陽光を受けて白く輝いている。


「相変わらず、外からの見てくれだけは立派で綺麗よねぇ~……」


 醒めたような目になったチトセが、薄い笑みを浮かべていた。元々は王都で医術魔導師をしていたチトセだが、彼女は王都に対してあまりいい思いを抱いていない様子だ。


 あの反応からして、過去に王都で何かあったのだろう。見れば、セツナも険しい表情で王都を睨み据えている。


 ただ、すぐに余計な感情を振り落とすように軽く頭を振ったセツナは、「既に把握しているだろうが」と事務的な確認口調でアッシュ達に振り返った。


「私達は王都の門は潜れん。その許可が出ていないからな。王都の東門の外で、歌姫たちと合流する。その後の事だが……」


 それにすぐに応じたのは、普段通りの沈着さを取り戻した様子のサニアだ。


「彼女は、このケンタウロスに搭乗するのですよね?」


「……そうだ。歌姫と、彼女が所属する事務所の社長が、私達と乗り合わせる」


 引き締まった声を発したセツナは、アッシュとサニアを見て、それからルフル達を視線だけで見回した。


「あとの事務所スタッフ達には、ヴァーミル達が乗り合わせているケンタウロスに搭乗して貰うことになっている。私達全員で、歌姫たちをアードベルに安全に送り届けるのが最初の仕事だ。……旅行気分から切り替えておけよ」


「モチよ!」「あ、モチってのは、勿論って意味ね?」「りょ~!」ルフル達が明るい声で返事をして、クラン『正義の刃』式であろう敬礼の姿勢をとった。


「それこそ、言われるまでもありません」


「はい。……心得ています」


 冷然としたサニアも静かに頷き、それにアッシュも続きながら、ウィッグの髪型を元に戻した。それからアンダーリムの眼鏡をかけ直し、チョーカー型の変声用魔導具を装着、そして、この任務のためにギルドが用意してくれた認識プレートを首から下げた。


 この認識プレートは『2等級・銅』を表し、そこに刻まれている名前もアッシュのものではない。刻まれているのは『キニス=グレイモア』という、架空の女性冒険者の名前だ。


 今からアッシュは、表面上は別の人間として生きることになる。

 必要性という理屈と嘘の上から、更に別の嘘を纏うのだ。


 今のアッシュは、本来のアッシュとして生きることを赦されていない。アッシュ個人の戦闘性能だけが求められている。


 皮肉にもこの構図は、アッシュが“教団”に居たころの状況と、相似関係にあるように思えた。


 だが今のアッシュは、“僕は僕なのだ”という明確な答えを実感として携えている。誰かに必要とされ、それに応じようと努める自分に愛着を持ちたいと願っている。


 だからこそ、嘘と誤解の中でしか生きられない、この『キニス=グレイモア』という偽りの自分もまた、大事にしたかった。


 自分自身の体温を確かめるつもりで、アッシュが身体の横で拳を軽く握ったときだった。


 不意に、微笑みを浮かべたチトセと目が合う。ただ、その彼女の笑みは先程までのような、からかうようなものではなかった。


“教団”から救い出されてすぐのアッシュの姿を、チトセは知っている。自尊と共に生きることを放棄する寸前だったあの頃のアッシュを、クレアと共に癒してくれたのは彼女だ。


 チトセは今のアッシュの心情を深く察し、そこに何か、喜ばしい変化が見て取れたことを喜んでくれているようでもある。アッシュに向けられる静かな彼女の眼差しには、チトセという女性の優しさが染みわたっているのを感じた。


「よろしくね。“キニス”ちゃん」


「……はい。此方こそ」


 変声用の魔導具の効果で、そう応じたアッシュの声は幾分か高いものになっていて、女性らしい繊細さを帯びていた。自分のものではない声――。それをアッシュは、ただ受け入れる。


「んふふ。それじゃあ、降りる準備をしときましょうかぁ」


 アッシュから視線を外す寸前、優しげに微笑みを深めて見せたチトセは、そのエッチな身体をゆらゆらと揺すりながら徐に立ち上がった。


「……あらぁ?」


 だが、再び大部屋の窓へと向けたチトセの目が、そこで一気に鋭くなる。


「あれは……」


 遠目にだが、アッシュも気付いた。


 王都の防壁門から出て少し離れた位置には、広々としたスペースで地面が舗装されてある。大型の荷馬車などを停めておいたり、大人数の乗合馬車の乗降場所としても利用できるように整備されているのだ。


 王都内の幹線道路での渋滞を解消し、混み合わないようにするための重要な公共の場所であり、アッシュ達が歌姫たちと合流する予定の場所でもある。


 ただ、今日は歌姫たちが場所を借り切っている筈だ。


 歌姫の姿を一目見ようと詰め掛けたファンたちで混乱が起きないよう、今日は王都内から東門への出入りも含め、通行規制が敷かれている。そういう手筈だった。


 通行規制で他の馬車を別の門へと誘導しておくことで、この大型馬車のケンタウロスでも、可能な限り王都まで近付けるようにする意味合いもある。


 しかし、あれは――。


「既に戦闘が始まっているな。相手は、……レイダーの類か」


 望遠魔導具を取り出し、王都の東門を見遣ったセツナが忌々しそうな舌打ちをした。その直後だった。王都の東門の前で、パッ、パッ、と何度か光が散った。


「不味いよ。相手に魔術士がいるっぽい」


 強張った声を出したのは、サニアと同じく望遠魔導具を取り出しているルフルだ。


「見たトコだと、炎と雷属性かな」

「高威力、広範囲って感じだね~……」


 マリーテとステファも緊張した目を見交わしながら、戦況を見極めようとしている様子だった。同時だったろうか。


『私達も、あの場の状況は望遠魔導具で確認した。警備会社の者達が歌姫を護っているようだが、かなり押されている』


 この場には居ないヴァーミルの声が響いた。


 見れば、セツナとチトセの耳元に魔法円が展開されていた。彼女達がしている耳飾りが、高性能な通信用魔導具なのだと分かる。


『我々もすぐに加勢する。特に、ア……、いや、キニスとサニアの2人は、戦闘よりもまず、歌姫のもとへ向かってくれ。彼女を連れて場を離脱してくれて構わん』


 冷静な口振りのヴァーミルに、サニアが短く応じる。


「了解しました。状況次第で、私はキニスと共に場を離れます」


「もしも歌姫さんが負傷していた場合、その治癒は僕が」


 そうアッシュが言い添えると、魔法円の向こうでヴァーミルが頷いてくれる気配があった。


『あぁ。頼りにしている。……あの民間警備の者達では、治癒も回復もアテにはできそうにない。身に着けている装備品は一級品のようだが、もう総崩れ一歩手前だ』


『お行儀のいい騎士サマ達じゃ、人を襲い慣れたレイダー共の相手は荷が重そうね』


 溜息交じりで鬱陶しそうなこの声は、シャマニのものだ。更に別の女性達の声が続く。ヴァーミルやシャマニと共に、アッシュ達とは別のケンタウロスに乗り合わせている『鋼血の戦乙女』のメンバー達のものだ。


『民間の警備会社って、もうちょっと腕の立つ連中を揃えるもんじゃないの? 使えないだけならまだしも、邪魔になられたら敵わないわ』


『歌姫には貴族のファンも多いから、その子飼いの騎士団か何かって話じゃなかったかしら。……実戦経験も乏しそうな様子だし』


『とはいえ、歌姫を護るために正規軍から戦力を割いてくるのも、現実的はありませんからねぇ。せめて上級の冒険者でも雇って貰えていれば、もっと状況は良かったのでしょうけれど』


『でもまぁ、ウチらの責任問題にはならないっすよ。ほら。ウチらの仕事は、王都に到着して、歌姫さんをケンタウロスに乗せてからっす。そもそも、到着予定時刻よりも1時間以上も余裕があるんすから。今からレイダー撃退なんて、完全に時間外労働っす』


 自由で長閑な物言いをするクランメンバー達を纏めるように、そこで口を開いたのはチトセだった。


「でもぉ、もうすぐに王都に着いちゃうから。そうも言ってられないわよぉ?」


 チトセの口振りは、やはり優しく言い聞かせるようだった。だが、今の状況を十分に理解しているふうの他のクランメンバー達は、直ぐに素直な返事をチトセに返していた。


『ふん……。分かってるわよ』

『えぇ。理解してるわ』

『歌姫を襲っているレイダー達は皆殺し、ですね』

『いやいやいや! 駄目っすよ! せめて何人かは生かしておかないと!』


 チトセとセツナの耳音に展開している魔法円は、慌てたように言う声を此方に届けたところで消えた。通信が切り上げられたのだ。


「何としても歌姫を護る。降りたら死ぬ気で走れよ」


 表情を消したセツナが、居合刀を握り直しながらケンタウロスの一階へと歩き出す。険しい表情で頷き合ったルフル達と、優雅な足取りのチトセが続く。


「アッシュ……」


 敢えてその名で呼んでくれたのだろうサニアが、すっとアッシュの隣に立って頷いてくれる。彼女の鈍色の瞳は静謐だが、鋭い光が佇み始めている。既に心身を戦闘状態に切り替えている者の目だった。


 手の中に『リユニオン』を召び出しながら、アッシュも頷きを返す。


 “キニス”という名の着心地にはまだ慣れない。

 だが、纏った誤解と嘘を生きること自体には、もうアッシュは慣れている。


「えぇ。僕達も行きましょう」


 変声魔導具によって象られたアッシュの――キニスの声が合図になったかのように、王都の門を目指すケンタウロスが、また速度を上げた。




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