「ねぇ、お姉さん達のパーティに同行してくれないかな？」

第56話 多分、これは恋心じゃないけど〈ローザ視点〉

　超が付くほどの巨大要塞都市といった風情のアードベルは、荒くれ者の冒険者達の楽園だ。ただ、その第７号区に建てられている神殿の敷地内は、騒がしさに溢れたアードベルの雰囲気にはそぐわない、厳粛な静謐がいつも保たれている。

　広い敷地と高い外壁を持つ神殿の内部には、複数の魔導人造兵が常に配置されている。そこで働く神官達だけでなく、女神にも祈りを捧げる者達をも守護するためだ。

　以前はギルドを介した警護依頼が冒険者達へ提示されていたが、勤務態度に問題のある冒険者も少なくなかったため、今は打ち切られている。

　配備されている魔導人造兵の数から見ても、現在の神殿は、アードベルで最も安全な場所の１つであると同時に、一切の暴力行為が禁止された場所でもある。

　この神殿で女神に祈りを捧げるとき、誰もが平等に静寂を分かち合う。

　古くからのアードベルの住民も、業突く張りな商人も、冷徹な理屈屋である錬金士や魔導機械術士も、神殿の敷地内に踏み入れば関係がない。

　女神の前では、そういった肩書きは意味を為さない。肉体ではなく、その魂こそが女神の前に立つとされているからだ。

　ただ、神殿に訪れたのが冒険者の場合、ただ純粋な祈りを捧げにきたというのは少数派だろう。多くの冒険者はもっと別の、火急な要件――、つまりは、複数の神官達が揃うことで初めて扱うことができるような、高位治癒魔法を目当てにしている場合が大多数だった。

　冒険に出たさきで死にかけるような大怪我を負い、パーティの仲間たちから回復魔法薬を使って貰い、更には治癒魔法も受けながら何とか命を繋いで、這う這うの体で神殿に駆け込んでくるパーティもいれば、さっきまで生きていたという新鮮な死体を持ち込んで、コイツを蘇生させてくれと、無茶なことを願うパーティもいる。

　そうした冒険者を門前払いすることなく、とにかくまずは受け容れてくれるのが、広大な神殿の敷地内に拵えられた『慈悲の院』である。

『慈悲の院』では、高位治癒魔法での治療を受けることができるだけでなく、その後の療養もさせて貰える。いってみれば、冒険者専用の大型魔法病院みたいなものだ。当たり前だが無料ではない。治療して貰う内容に応じて、それなりの金額が必要だ。ここで冒険者が支払う料金は、神殿の維持や改修、養護院の運営費に回されている。

『慈悲の院』が建てられた当初は、女神に祈りと感謝を捧げる神聖な場に、荒くれ者の冒険者たちが入り浸るように通ってくるようなことは、反対の声が幾つも上がったらしい。

　だが、魔導人造兵が配置されているおかげで、祈りを捧げに来た市民や商人が、冒険者達に絡まれたりするトラブルは起きていない。

　その日のローザは、果物を詰め込んだ手提げの籠を手に、１人で神殿を訪れていた。

　２日前に意識を取り戻して、今は『慈悲の院』で療養しているアッシュを見舞うためだ。それに、ダルムボーグでの件についての伝えておくべきこともあった。

　ちなみにカルビとネージュ、エミリアの３人は、等級に関することでギルドからの呼び出しを受けて、そちらに顔を出してから『慈悲の院』に向かうことになっていた。

　アッシュとの面会が可能になったタイミングだったこともあり、書類による呼び出しを郵送で受け取った彼女達は不機嫌極まり無かった。

「ふざけんじゃねぇぞ」「余りにも間が悪いわ」と、カルビとネージュはキレ散らかしていたし、「私とアッシュさんの仲を邪魔しようなどとは、まさに笑止千万ですわね」などと、訳知り顔のエミリアも、何だかワケの分からないこと言っていた。

　３人とも、ギルドからの呼び出しなどは無視して、一刻も早くアッシュに会いに行こうと、珍しく意気投合さえしていた。

　だが、ギルドからの呼び出しをすっぽかして会いに来たとなれば、アッシュに余計な気を遣わせてしまうことも、想像に難くなかった。熱くなりまくっていた３人も、それは本意ではなかったようだ。

　４人揃ってアッシュを見舞いたいところだったが、こればっかり仕方が無かった。

「まぁ、アッシュ君に心配かけないためにも、先にギルドで話だけ聞いてきなよ」とローザにも宥められ、あの３人は泣く泣く、ギルドで話を聞きに行くことを決心してくれた。

『慈悲の院』に続く神殿の順路を歩いている途中で、ローザは何となく空を見上げてみる。

　晴れた空は青く、薄い雲が千切れながら幾つも浮かんでいる。無意識のうちに溜息を漏らしていた。石造りの壮麗な神殿の順路に、自分の呼吸がやけに大きく響く。

　こうして一人でいると、つい色々なことを考えてしまう。

　あの日の空も、嫌味なほどに青かったのを思い出す。

　ローザは歩きながら、手提げの籠を握る掌に、嫌な汗が滲むのを感じた。何度かゆっくりと瞬きをする。その瞼の裏側に、あの日の記憶が灯っては消えていく。

　アッシュが意識を取り戻したという安堵の所為かもしれない。ローザはほとんど無意識に、不用意にチラついていた記憶に目を凝らした。

　廃都ダルムボーグの、あの埃っぽい匂いが頭の中に蘇ってくる。鼓動が早まった。意識が勝手に巻き戻されて、あの日の光景が、鮮明なままで脳裏に再生されていった。

　あの日――。

　ギギネリエスの戦闘を終えてアッシュが倒れたとき、ローザは大いに狼狽えた。

　すぐに回復魔法薬を取り出してアッシュに使用したものの、傷だらけで血塗れになっていたアッシュを助けることは、もう難しいかもしれないと思った。アッシュの呼吸は、もう殆ど消えていた。エリクシルも残っておらず、他の魔法薬の類では、もう間に合いそうになかった。

　助けを求めるように辺りを見回してみたが、そんな都合のいい誰かなど居るはずがなかった。ただローザの周囲には、戦闘の後の荒廃した景色が広がっていたのを覚えている。

　双頭のネクロドラゴンが大暴れしたせいで、崩れてメチャクチャになった廃墟の群れ。窪みと亀裂だらけになった地面。細かい砂混じりの風が澱んだ空気をゆっくりと掻き混ぜながら、ローザ達の周囲をただ通り過ぎて行くだけだった。

　そこには、声を発する者が居なかった。どこまでも無機質で無造作な、心を刺すような静寂の中に、ローザ達は閉じ込められていた。

　暢気に吹き抜けてくる廃都の風は、地面に広がっていくアッシュの血溜まりを濁らせるように、無遠慮に砂埃を塗していた。ローザ達を包んでいた景色は、瀕死のアッシュに対しても完全に無関心なだけではなく、傷だらけのアッシュを置き去りにしようとしているのを感じた。

　その冷酷な世界に何とか対抗しようとしたが、その有効な術をローザは持ち合わせていなかった。手持ちの魔法薬による応急処置が、出来ることの全てだった。あの時のローザは、「アッシュ君！ アッシュ君！！」なんて震える声で叫んで、ほとんど泣きそうになっていた。

　倒れたアッシュの傍に駆け寄って来たカルビやネージュ、エミリアも同じような様子だった。皆、ほとんど立っているのがやっとの状態で、見るからに焦燥していた。

　ギギネリエス戦で自身の魔力を使い果たし、治癒魔法を編めなくなったカルビは自分を責めるように、何度も「クソがっ……！」と洩らしながら、アイテムボックスから回復魔法薬を取り出し、準備してくれていた。

　このときのカルビは、自らの魔力を回復させるための魔法薬も同時に使用していたはずだ。自身の魔力を回復させて、即座に治癒魔法を編むつもりだったに違いなかった。だが、瀕死のアッシュを十分に回復させるには、カルビの魔力回復も間に合いそうになかった。

　張り詰めた顔になったネージュの方には、まだ少しだけ魔力が残っていた。

　アッシュの傍にしゃがみこんだネージュはすぐに詠唱に入り、水魔法によってアッシュの傷口を清めて清潔に保ち、その傷口を極めて薄い魔氷で覆うことで出血を止めるなど、治癒魔法を扱うことが出来ない代わりに、氷結魔法の鷹揚による、応急処置を行ってくれていた。

　ローザとエミリアは、飲料用の水で布を湿らせ、アッシュの全身を濡らすような血を拭った。魔法薬の重複使用はできない以上、それが出来ることの精一杯だった。その無力感に叩き潰されそうになるのを、ローザは必死で堪えた。滅茶苦茶キツかった。

　ブチブチと鈍い音がして、隣を見れば、表情と目つきを強張らせたエミリアが、震える手でアッシュの身体を拭いながら唇の端を噛み千切っていた。さっきから黙り込んでいるエミリアも、今の状況の中で懸命に自分を保っていた。

　そんなローザ達の必死な姿を、仰向けに倒れたギギネリエスが視線だけで眺めていることには気付いていた。喉を鳴らすようにして笑っていることも。だが、無視した。どうでも良かった。ギギネリエスに激昂するよりも、アッシュを助けるたけに全力を尽くす方が、圧倒的に優先すべきことだった。

　カルビも、ネージュも、エミリアも。ギギネリエスのことなど相手にしなかった。そんな余裕はまったくなかった。皆、アッシュを助けるために懸命だったが、暗い絶望の空気が立ち上がってきているのも確かだった。

「すまない！ 援護に来るのが遅れた！」

　あの時、あの場所に、仲間を引き連れたヴァーミルが戻ってきてくれていなければ、アッシュは助かっていなかっただろう。ヴァーミルと共に駆け付けてくれた、クラン『鋼血の戦乙女』のメンバー達の中に、特殊な治癒魔術を扱える者が居たのだ。

「あぁ、これはいけませんねぇ……」

　艶のある黒髪と、揃えられた前髪に青色のメッシュが入っているのが特徴的な彼女は、すぐにアッシュの傍にしゃがみこみ、ドーム状の術陣を編み上げてアッシュの身体を包んだ。

　彼女は、他のクランメンバー達とは、少し雰囲気の違う恰好をしている。

　大陸極東を由来にする衣装だろうか。露出度の高い呪術士風の装束の上から、身体の要所を守る近代的な防具と、呪術的な触媒か、或いは装備と思われるアクセサリーを幾つも身につけていた。

　彼女が扱おうとしている治癒魔法も、極東から派生したという魔法の一種、“霊術”と呼ばれるものだったのだろう。

「全身の傷も、出血も深刻……、内臓も筋肉もボロボロです。どんな無茶な戦い方をしたんですかぁ？」

　倒れたアッシュに治癒を施しながら、彼女は暢気そうで少し間延びした、しかし、妖艶な声をだした。この場にそぐわない、緊張感に乏しい声音だったが、そのことを指摘して咎める必要は無かった。それなりに冒険者をやってきたローザは彼女の名前を知っていたからだ。

　チトセ＝アオギリ。

　王都の高位医術魔導師であったが、それをいかなる理由か辞して、魔導機械術士協会のアードベル支部へと身を移してきたという彼女の話は有名だった。むろん、噂話の類ではあったが、彼女が『鋼血の戦乙女』の主要メンバーとして数えられていることが、その噂の信憑性を高めていたのは確かだ。

「この場で傷を癒しきるのは、少ぉ～し厳しいですねぇ」

　甘ったるい口調で言うチトセは、アッシュを包むドーム状の術陣を展開したまま、どこからか藁人形を２体、左手の中に取り出していた。

　恐らくはアイテムボックスに収納されていた霊術的、呪術的な触媒なのだろうが、妙におどろどろしい迫力のある藁人形だったのが印象に残っている。藁人形の胴体には札が張られており、そこには“生命的原形質”と達筆で書かれていた。

「でもぉ、シャマニちゃんの恩人を死なせてしまうわけには、いきませんよねぇ～」

　その妖しい切れ長の眼に、見る者が息を飲むような真剣さを灯したチトセは、左手に持っていた藁人形２体をゆっくりと握り潰しながら、独特の抑揚と発音を持った詠唱を紡ぎ始めた。あれは古代極東の言語だったのかもしれない。

　くしゃくしゃになった藁人形からは青白い靄のような微光が漏れ、それがチトセの詠唱に呼応して渦となり、仰向けに寝ているアッシュに注がれ始めた。

　青白い魔力光で編まれたチトセの治癒術陣は、瀕死であったアッシュの肉体に活力を与え、停止していた呼吸と鼓動を呼び戻していく。その速度は、やはり魔法薬の比ではなかった。

　普通の治癒魔法では、深刻な重傷を負っていたアッシュの生命力を削り切ってしまったか、或いは、術者であるチトセ自らの命を大きく零していただろう。だが、チトセが扱う治癒霊術は、ほぼ一方的に生命力を付与している様子だった。

　それは治癒魔法における原則、ルールの無視だ。だがそれを可能にしているのは、先程チトセが握り潰したあの藁人形と、チトセ自身の扱う霊術の練度によるものに違いなかった。

『鋼血の戦乙女』の他のメンバー達も、チトセが編む精巧な術陣を見守り、半ば見惚れているような様子でもあった。

　ぎゅっと拳を握ったローザは洟を啜って、疲れ切った自分の体の感覚も忘れて、治癒を受けるアッシュの回復を祈るしかなかった。

　カルビは眉間に皺を刻んだままの険しい表情で、「アッシュを治し損なったらタダじゃおかねぇぞ」と言わんばかりに、チトセが編む治癒霊術を睨んでいた。

　そんなカルビの隣に立つネージュも不安そうな顔になり、頻りに唇を噛みながら、子供のように胸のあたりで両手を握っていた。

　さっきからずっと黙っているエミリアは神妙な面持ちで、仰向けに寝ているアッシュと、そのアッシュに施術を行うチトセの２人を、等分に見守っていた。

　正直なところ、傷ついた仲間に対してこんなにも動揺している自分達は、冒険者に向いていないのではないかと、あのときのローザは思っていた。

　一方で、その極端な動揺自体が、ローザ達がアッシュに抱きつつある特別な感情の裏返しなのかもしれなかったが、それを確かめるべく自身の心の内に目を凝らすような余裕も無かった。

　そのうち、展開していた治癒霊術を解いたチトセが「……ふぅ」と細く息を吐いて、ローザ達へと穏やかな視線を流してきた。一命は取り留めました、とでも言うような、他者に安心を与える眼差しだった。

「……この場での治癒は、これが限界でしょう。これ以上は私もこの子も、ちょっと危なくなりますから」

　アッシュへの治癒霊術の行使に、相当な精神力と魔力を消費したのだろう。ゆったりとした声音で言うチトセだったが、その呼吸には乱れる寸前のような弾みがあり、頬と額には粒となった汗が伝っていた。

「あとはアードベルに戻り、神殿での高位治癒を受けて貰う必要がありますが……」

　チトセは言いながら、アイテムボックスから筒状の何かを取り出した。いや、その大きさを見れば、召喚したと言っていいかもしれない。

　ズシン！！ と重たい音を立てて地面に置かれたソレは、人間が入れるぐらい大きさであり、鈍色をしていて、四角い窓が嵌められていた。雰囲気はとしては装飾が施された棺といった風情だった。

「この救急用カプセルに入って貰えば、アードベルに戻るまでの命を繋ぐことも問題無いでしょう」

　チトセが『救急用カプセル』と呼んだそれは、やはりローザが受けた印象の通り、棺のようにガバっと開いた。その内側には、複雑な魔導機械が並んでいるだけでなく、人間が身を横たえる空間があった。

　息を吹き返したとはいえ、まだ意識の戻っていないアッシュを見慣れない機械の中に預けることに、ローザは若干の抵抗を感じた。それはカルビやネージュも同じ様子だったし、すぐにエミリアが何かの意見を言おうとする気配があった。

　それを既に見越していた様子のチトセは、甘ったるい口調で言葉を続ける。

「多少は物々しい雰囲気ではありますけど、この救急用カプセルは怪しいものでも、危険なものでもありません」

　彼女の緩い声音は、ローザ達の警戒心をゆっくりと解すようだった。

「治癒魔法や医術魔法を、魔導機械術に応用した装置ですから。具体的な機能としては、重傷者の肉体を清浄に保ちながら、拍動を計測したり、酸素を供給したりしてくれるんですよ～。……だから、安心して下さい」

　そう言ってチトセは、ローザ達を順に見てから、倒れているアッシュに視線を戻した。その時のチトセの目が、何かを懐かしみ、喜ばしいものを眺めるように細められていたのが、やけに印象に残っている。

「優先すべきことは、アッシュを助けることでしょう」

　チトセがアッシュの名を口にした時、彼女の目の中には、ローザ達に対する感謝らしき感情が窺えた。そしてそれは、アッシュに対する彼女の、何らかの愛着の証にも思えた。

　もしかしたらチトセは、アッシュの過去について何かを知っているのかもしれなかった。だが、それを尋ねている場合でもなかったし、チトセが穏やかに継いだ言葉に、ローザ達は頷く以外になかった。

　アッシュを助けるべく差し伸べられた手を、わざわざ払う理由はなかった。

　アッシュを収めた救急カプセルは、ヴァーミルが装備していたペンダント型のアイテムボックスに納められた。本来、人間をアイテムボックスに収容することは重罪だが、救急カプセルに重傷者を収めている場合は、特例として許されるのだそうだ。

　この特例の他にも、アイテムボックスの類に人間を収容することが許されるケースがあり、それは重罪人を拘束する場合だった。

「このアッシュという少年は、私が責任をもって神殿まで運ぼう。……ついでに、あの腐れ外道もな」

　アッシュがチトセからの治癒霊術を受けている間に、死なない程度に生きていたギギネリエスもまた、救急カプセルに収容されていたらしい。生け捕りにしたローザ達の功績に傷をつけず、罪人を迅速に拘束するためでもあるのだろう。

　ヴァーミルは嫌悪感を隠さない表情で、ギギネリエスを収めたカプセルをアイテムボックスに納めてから、魔導鎧の翼を広げた。

　ギギネリエスが使役したネクロゴーレムの被害は大きく、アッシュ以外にも救急カプセルに収容されている冒険者がいるとのことで、ヴァーミルはすぐにでもダルムボーグを発とうとしていた。

「おい」

　そんなヴァーミルに声を掛けたのは、疲れた顔に真面目な表情をつくったカルビだった。

「……仮に死にかけでも、野郎はネクロマンサーだ。回復効果のある魔導具の中に入れておくのは、流石に不用心じゃねぇか？」

　カルビが指摘したことは、ローザも思ったことだった。僅かに目を細めたネージュも頷いていた。

「……なんだ、心配してくれているのか？」

　一方のヴァーミルは、カルビらしくない気遣いに不審そうな表情を過らせたが、すぐに鼻を鳴らして首を緩く振ってみせた。

「問題は無い。ギギネリエスを収容した救急カプセルは特殊でな。『治癒封牢』と呼ばれている。内部の人間の生命維持の他にも、魔力を封じる強力な機能が備わっている代物でな。瀕死の奴が、中で暴れることは不可能だ」

「……だったらいいんだけどよ」

　カルビは表情を緩めず、ヴァーミルを睨むように見た。

「アッシュのこと、マジで頼んだぞ」

　それはローザも初めて聞くような、カルビにしては硬い声だった。

「……お願いするわ」

　強張った声で続いたネージュも僅かに視線を落とし、ぎゅっと唇を噛んでいた。

　大きく息を吸ったエミリアが頷き、ヴァーミルを見つめた。

「私達もアードベルに戻ったら、すぐに神殿に向かいますわ」

「……あぁ。だが、お前達も十分に身体を休めておけ。その消耗の様子だと、緊張が切れた途端に一気に疲労がくるぞ」

　武人然としたヴァーミルは不愛想に言うと、他の数名のクランメンバーと共に宙へと舞い上がり、特急でアードベルに向かってくれた。

　ローザとカルビ、シャマニの３人はその後、『鋼血の戦乙女』のメンバー達からの治癒魔法を受けた。

　エリクシルによって傷を癒したシャマニも、まだ意識を完全に取り戻したわけではないらしい。アッシュと同じく救急カプセルに収容され、神殿に運ばれていったという話はそのときに聞くことが出来た。

　神殿での高位治癒魔法が必要ではない程度の負傷者については、第９号区にある魔導医術研究院に運ばれたそうだ。ダルムボーグに訪れていた冒険者達の中で、負傷者は数多く出たものの、奇跡的に死者が出なかったことも分かった。

　そのことにローザは安堵したが、他の『鋼血の戦乙女』のクランメンバー達から治癒魔法を受けているあいだ、どうやってギギネリエスを倒したのかと、興味深そうに、或いは興奮気味な尊敬の眼差しと共に何度も訊かれたことには辟易した。

　カルビやネージュ、エミリアと目配らせをしたローザは、とにかく詳しいことは話さず、適当にはぐらかしておいた。

　ギギネリエスとの決着には、アッシュの過去にまつわる何かが絡んでいることが間違いなさそうだったからだ。アッシュの活躍やギギネリエスとの遣り取りを、無闇に話すべきではないと思った。

　ダルムボーグからアードベルに帰って来てからも、やはりアッシュが意識を取り戻すまでは、心から安らぐことは難しかった。アッシュが目を覚ますには、神殿での高位治癒魔法を受けて、更に６日ほどかかった。それまで『慈悲の院』に通い続けていたローザ達にとっては、今まで生きてきた中でも、最も長い６日間だったと思う。

　まぁ、終わりよければなんとやら……、だよね。

　口の中で独り言ちたあと、ローザは記憶を辿るのを中断する。

　それから自分の顔を、籠を持っていない方の手で軽く擦った。きっと今の自分は、辛気臭い顔をしていることだろう。このままでは、アッシュの見舞にきておいて、アッシュに気を遣われるような状況になってしまう。

『慈悲の院』へと向かう足を少しだけ緩めて、ローザは深呼吸をしてみた。また何度か強く瞬きをしてみる。石畳みが整然と並べられた神殿の順路には、白い陽の光が垂れこめていた。足元に伸びる自分の影が、その濃さを増していることに気付く。

　アッシュを失うかもしれないという、喪失への恐怖感を思い出していた所為だろう。不意にローザは、父が居なくなった時のことも抱き合わせで想起した。

　あのときの私も、めちゃくちゃ狼狽してたなぁ……。

　その記憶を深追いせず、ローザは内心で苦笑する。無意識のうちに下がっていた視線をあげたところで、背後から声をかけられた。

「あぁ。アンタ」

　力強くて迫力のある、太い声だった。

「アッシュに会いに来たんだろうけど、今は無理だよ」

　ローザが足を止めて振り返ると、こちらに歩み寄ってくる女性の姿があった。体格のいい初老の女性だ。

「高位治癒魔法を受けたあとの後遺症が残っていないか、ちょっと精密な検査を行っているところでね。療養を終えて『慈悲の院』から出ていってもらう時には、必ず受けさせる決まりになってるんだ」

　気が強そうで、それでいて優しそうな笑みを湛えている彼女は、ボリュームのある白い髪を後ろで束ねて、高位の神官服を着ている。

「わざわざ教えて頂いて、ありがとうございます」

　居住まいを正したローザも笑みを返し、礼を述べたところで、神官服の女性が親指を立てた。そしてその親指で、自分の後ろを差してみせる。ついて来いとでも言いたげな、なんとも男勝りな仕草だったが、妙に彼女に似合っている。

「アッシュの検査が終わるまで、向こうで少し話をしないかい？ 茶と菓子くらいなら用意するよ」

　その唐突な誘いに、ローザは何度か瞬きをしてしまった。初老の女性の方は、ローザの反応を見て、自分の不躾な誘いを詫びるように「あぁ、まだ名乗ってもいなかったねぇ」と太い声を優しく揺らした。

「私は、クレア＝グリフィード。ここの養護院の、まぁ、院長をやってるモンさ」

　自己紹介をしてくれた初老の女性は、「あの子が……、あぁ、アッシュが世話になってるようだね。礼を言うよ」と、目許の皺を柔らかく深めてみせた。

「そ、そうだったんですね。えぇっと、私は」

　ローザも慌てて自己紹介をしようといたところで、「名前はもう知ってるよ」と、クレアが嫌味なく笑う。

「ローザ＝エタンセル。あんたもヤンチャな冒険者なんだろう？ いろいろと暴れてまくって、やらかしてるって噂は聞いてるよ」

「うっ……。そ、そうですか……」

　笑顔を強張らせたローザが一瞬だけ呻いたのを見て、クレアが可笑しそうに肩を揺らした。

「あぁ。でも、悪い娘じゃなさそうで、ちょっとホッとしてるよ。あんたのとこのパーティの娘たちは、あれだよ、まぁ、目つきが怖いし、ちょっとガラも悪い感じだし、ガタイも威勢も良さそうな感じだけれど」

　冗談めかしたクレアに、ローザは苦笑するしかなかった。

「カルビとネージュ、エミリアのことですよね。あの３人も、悪い人間じゃないんですよ。確かに、いろいろと過激な噂もついて回ってますけど……。根は優しいんです」

「あぁ、うん。誤解されやすそうな娘たちだってことは、私も分かったよ。あれだけアッシュのことを心配してくれてたんだからね」

　クレアは言ってから、浮かべている笑みの種類を少しだけ変えたのが分かった。

「……あの子が意識を取り戻すまで、あんた達が何度も様子を聞きに来てくれてたことも、ちゃんと知ってる」

　彼女は人懐っこい笑顔の中に、感謝らしきものを滲ませている。見覚えのある種類の笑顔だった。すぐにローザの脳裏に、チトセが浮かんだ。

　今のクレアの笑みに籠った温度や色彩は、アッシュの治癒を終えたチトセが、ローザ達に向けた微笑に似ているのだ。

　はっとしたローザは、そこで思った。

　目の前のクレアであれば、アッシュの過去について、何かを知っているのではないか。少なくとも、養護院に入っていたころのアッシュの様子や、アッシュが養護院で過ごすことになった経緯などは知っている筈だと思った。

　この時のローザは迂闊なほど、クレアを前にして真剣な表情で黙り込んでしまっていた。そのローザの沈黙に、何かを察したのだろう。

「……あんたも、私に何か訊きたいことがありそうだね」

　クレアは周りを気にするように、笑顔のままで視線だけで辺りを見ていた。他に誰もいないことを確かめるように。

“あんたも”、という言い方から、クレアにも何かローザに尋ねたいことがあるようだった。

「応接室、なんていうほど立派なものじゃないが、ゆっくりと出来る部屋があるんだ。案内するよ」

　ローザに背を向けながら、彼女はゆったりとした足取りで順路を歩き出す。ローザは軽く頭を下げて、そのあとに続いた。

　アッシュの居ないところで、アッシュのことを知ろうとしていることに、罪悪感は確かにあった。だが今は、知らなければならないという使命感の方が、ローザの中で勝っていた。

　いや……。そんな言い訳じみたことを考えて、自分を正当化するのも卑怯な気がした。

　私は、アッシュ君が好きだ。

　だから私は、アッシュ君のことを知りたい。

　その自分の心に、今は素直に従うべきだと思った。

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