第57話 その影に踏み入る <ローザ視点>



 ローザが案内されたのは広い書斎といった風情の事務室で、養護院を管理するクレアの仕事部屋のようだった。


 備えられている重厚な執務机には書類が積まれており、並んだ本棚には女神教に纏わる学術書、歴史書などがびっしりと収まっている。


 整理が行き届いているからだろう。物は多いが雑然とした雰囲気はないし、無駄な高級感も無い。部屋の一角には来客用のソファとテーブルが置かれていて、応接スペースになっていた。そのソファに座るようローザを促したクレアは、慣れた手つきで湯沸かし器を扱い、紅茶を淹れてくれた。


「この茶葉は備品として置いてあるが、来客用の高級品でね。値段が張るだけあって、確かに味もいい。たまに持ち出して、養護院の子供達にも飲ませてやってるんだよ」


 確かに女神教の経典において女神ルミネーディアは、相手のために面倒や負担を快く引き受けることを美徳している。


 つまりは、相手をもてなすための贅沢の準備は、女神教の教義に反するものではない。それを利用する悪餓鬼みたいなことを楽しそうに言うクレアは、「かっかっか」と歯を見せて笑った。


「さぁ、遠慮はいらないよ。グイっと行っておくれ」


 神官服の腕を豪快に捲ったクレアは、高級そうなティーカップが乗ったソーサーを、まるで酒場のビールの最初の1杯のような勢いで出してくれる。


 ソファに座って居住まいを正していたローザは、「あ、ありがとうございます」と、ほとんど気圧されながら頭を下げた。


 大陸西部で採れるという紅茶は、モノによっては肝を潰す値段になることはローザも知っていた。受け取ったティーカップからは、品のある物凄く良い香りが立ち上ってくるし、気軽に口にしてはいい品ではなさそうだった。


「熱々ですし、グイっと行くのはちょっと……。それに、せっかく淹れて貰ったものですし、味わって頂きますね」


 何とか笑顔を保ちながら、「いただきます」と頭を下げて、紅茶に口を付ける。びっくりするほど美味しかった。わ……、おいし。思わず溢してしまったローザを見て、クレアは「だろう?」と頷いた。


「暑い日はアイスティーにすると、また格別さ。水みたいにグビグビ飲むのが美味いんだ」


 養護院の院長らしからぬことを嬉しそうに語るクレアは、「良かったら、これも使っておくれ」と角砂糖の入った容器と、ミルクの入った小瓶、それにチーズケーキまで用意してくれた。


 ソファテーブルに並んだこれらの品々は、そのどれもが高級品なのだろう。少なくとも、養護院の院長であるクレアの来客用なのだ。


 そう考えて、ローザは今の状況を少し警戒した。


 ローザのことを重要な客人として、クレアはこの場に迎えてくれている。それを踏まえれば、冗談めかしているクレアの柔らかい雰囲気とは裏腹に、これから始まる会話は深刻なものになる気がしたからだ。


「……あぁ。そんなに気を張らないでおくれよ。真面目な話もしたいとは思っているけど、無闇に重たい空気にするつもりは、私もないからさ」


 僅かに表情を引き締めたローザが、じっとクレアを見つめてしまったからだろう。


 ローザの正面に腰を下ろしたクレアは肩を竦めてから、ローザの身体の強張りを解すような優しい表情になって、眉を下げた。


「でもまぁ、少しは暗い話になっちまうだろうけどね……」そう付け足したクレアは、その話題へは遠回りするように微笑み直した。


「アンタと一緒に居るとき、あの子はどんな様子だい?」


「えぇと……、アッシュ君の様子ですか?」


「あぁ。あの子が養護院に居た頃は、あんまり他人を寄せ付けない子だったし、自分から誰かに近づこうともしなかった……。そんなアッシュが、今では誰かとパーティを組んでいるのが、何とも言えず嬉しくてね」


 そう言いながらクレアは少し遠い目になって、自分の記憶に目を凝らしている様子だった。そして、今のアッシュと、クレアの知っている過去のアッシュを照合するような間を置いた。

 

 その沈黙が長引くものではないだろうとローザは感じた。実際にクレアは、すぐに茶目っ気のある目を向けてきた。


「やっぱりあの子も、おっぱいが大きくて綺麗なお姉さんが好きだったってことかねぇ……」


 ふぅと息を吐いたクレアは、正面に座るローザの身体の膨らみを眺めながら、しみじみとした顔になる。


「アッシュ君は、あんまり興味を持ってないみたいですよ。そういうコトには」


 クレアの冗談めかした口振りのおかげで、ローザも少しだけ笑うことができた。


「それに……、本当のところは私達も、アッシュ君とパーティを組んでいるワケではないんです」


「えっ、そうなのかい?」


 ソファに座っていたクレアが背筋を伸ばし、驚いた顔をした。ゆっくりとローザは頷く。


「はい。私達が同行を依頼して、それを受けて貰ってるんですよ。もっと正確に言えば、私達がアッシュ君を頼って、同行して貰っている、という感じです」


 ローザの説明を聴いていたクレアは、何度か頷いてから苦笑を浮かべた。


「アッシュが目を覚ますまで、アンタと連れの2人が『慈悲の院』にずっと入り浸ってたから、てっきり同じパーティだと思ってたよ。私が勝手に、早とちりの勘違いをしちまってたんだねぇ」


 自分の失敗を明るく笑うクレアだったが、その声音の裏には、隠しきれなかった切なげな落胆の色が窺えた。


 養護院に居た頃と比べて、冒険者となったアッシュには喜ばしい変化があったのだというクレアの喜びに水を差してしまったような気がしたが、今は事実を伝えるべきだとローザは思った。


「さきほどクレア院長は、アッシュ君は他者を寄せ付けないし、近づけようとしなかったと仰っていましたが……、それは、アッシュ君に同行して貰っていて、私も感じていました」


 ローザが話すのを、クレアは相槌を打たない代わりに小さく頷き、柔和な表情で聴いてくれていた。だが彼女の眼差しは、やはり寂しげだった。


「でも、アッシュ君は周囲の誰かを跳ねのけたり、見下したりしているっていうんじゃないんですよね。……何て言うか、他者との距離の取り方が、すごく慎重なんだと思います。私が初めて出会ったときも、アッシュ君はソロでしたし……」


 思い出しながらローザが言うと、「やっぱり1人だったんだねぇ、あの子は……」と、クレアが呆れたような笑みを浮かべた。


 それはアッシュに対するものと言うよりは、過去のアッシュの力になれなかったクレア自身の無力を、この場で改めて嘆くような響きがあった。


「あの……、冒険者になったアッシュ君が、今までに養護院を訪ねてきたことは……?」


 控えめなローザの問いかけに、クレアは自分の自嘲的な笑みを払うようにして、緩く首を振った。


「いや、1度も無いよ。そもそもアッシュは、女神ルミネーディアに良い感情を抱いてなかったみたいだし、高位治癒魔法を受けに来ることも無かったからねぇ」


 伏し目がちなクレアの口調には、アッシュに対する負い目のようなものが感じられた。


 だが、すぐに顔を上げたクレアの表情からは翳りが消え、ローザに向けられた感謝の念に満ちていた。ローザ達のいる部屋が、ふっと暖かくなるような表情だった。


「でも、久しぶりに見たあの子が、ちょっと明るくなってるのは分かったよ。それはきっと、アンタ達の御蔭だ」


 そこで言葉を切ったクレアは、まっすぐにローザを見つめてから、「……ありがとう」と心の籠った声で言ってくれた。それだけでなく、すっと頭まで下げてくれた。


「ぇえっ、いや、私は何もっ……!」


 いきなりのことにローザは驚いてしまい、慌てて両手を胸の前で振りながら、あたふたとした声を出してしまう。


「私達の方こそ、アッシュ君に助けて貰ってばっかりですよ! それに、傷ついたアッシュ君を助けてくれたのは、『鋼血の戦乙女』のメンバー達です。私達はその……、肝心なところで、アッシュ君の力になれていないと思います……」


 ローザは最後の方で声を萎ませながら、クレアに頭を下げた。そんなローザの仕種を見て、「そう遠慮しないでおくれよ」と、クレアが穏やかに言ってくれる。


「確かに、アッシュを神殿まで運んで来てくれたのは『鋼血』の娘だったし、彼女達にも感謝しているよ。……でも、アッシュが目を覚ますときまで、あの子の傍に居ようとしてくれたのは、アンタ達だ」


 クレアは優しい笑みを保ったままでゆっくりと、しかし、何度も頷いた。


「アンタ達だってギルドに行って、やることが山ほどあった筈だろう? 凄く疲れた顔をしてたもんねぇ。忙しかった筈さ。それでもアンタ達は、面会謝絶であの子に会えずとも、『慈悲の院』まで毎日のように通ってくれていたじゃないか」


「えぇ、それは、まぁ」


 控えめにローザが頷くのを見てから、クレアはゆっくりとソファに凭れた。


「……こういう話をするのは、タイミングが重要なんだ。礼をさせて貰うのも、それを受け取って貰うのも、ある程度の余裕が必要なものだからね」


 余計な力を抜くように肩を下げたクレアは、重大な話に踏み込む準備をするように、大きく息を吐いた。


「ここ数日の間は、ネクロマンサーが捕まったっていう話で、アードベルの冒険者達は随分と湧いていたんだろう? 凄まじい額の賞金が動くってことで、ちょっとしたお祭り騒ぎだったって聞いたよ」


 ゆったりとした口調のクレアは、そこまで喋ってから、一度ティーカップに口を付けた。


「結局、ネクロマンサーを仕留めた冒険者の名前が公開されなかったのも、ああいう騒ぎに乗じて、裏クランの連中が動き出すのを防ぐためなんだろうけどね」


 クレアの声は温和でありながらも、何らかの確信を得ているような冷静さがある。


「今のアードベルに流れてる噂じゃ、『鋼血の戦乙女』と『ゴブリンナイツ』が協力して、ネクロマンサーを捕らえたってことになってるみたいだけど……。本当のところは、アンタ達とあの子が活躍したんじゃないのかい?」


 冗談らしい口調を装ってはいたが、クレアの眼差しは静かに凪いだまま、じっとローザを捉えている。ローザはどう応じるべきか迷った。

 

 ギギネリエスとの決着については、決して他言しないようヴァーミルからも釘を刺されている。その理由もやはり、今しがたクレアが言った通りだ。


 冒険者を襲う冒険者――“レイダー”達もそうだが、とくに高額賞金の話題に敏感なのは “裏クラン”である。


 ダンジョン内で冒険者を襲い、殺害と強奪を目的とする“レイダー”達とは少し違い、“裏クラン”の連中たちは、冒険者を狙った恐喝や強請りを専門にしている。


 彼らは表向きには普通の冒険者であり、其々に別のパーティに属していたりするため見抜くことが難しいのも厄介だった。


 ただ、ローザ達の場合は、カルビやネージュ、エミリアが同じパーティにいる御蔭で、悪徳冒険者の類に絡まれたことは殆ど無い。


 効率的な悪事を働くための“裏クラン”の連中が避けるほど、ローザ達の風評というか、評判が悪かったのも事実だ。


 そのことを思うと暗澹とした気分になるが、前向きに捉えるならば、ローザ達は余計な人的トラブルは避けることができていた。複数名の実力者を抱えたパーティは、やはり“裏クラン”の標的にはなりにくいのだ。

 

 だが、アッシュの場合は少し事情が変わってくる。


 冒険者業界において、“5等級”は最低等級であり、ニュービー同様の弱小冒険者と判断されることが多い。


 その最低等級の冒険者が高額賞金を手にしたという話が広まれば、アッシュの弱味を見つけるために、悪徳冒険者達が近づいてくることは容易に想像できた。


 下手をすれば今頃、『慈悲の院』で療養しているアッシュの元には、その賞金を目当てしたゴロツキみたいな冒険者達が「俺達のパーティに入れよ」などと言いながら、ひっきりなしに訪ねてきていたことだろう。


 そういう状況を避けるため、ギギネリエスを捕らえた冒険者の名前は伏せるよう、ヴァーミルがギルド運営の上層部に働きかけてくれたのだ。


 つまり、今の段階でギギネリエスとの決着について知っているのは、ローザ達やヴァーミルを含め、ほんの一部の者達だけの筈である。


 しかし、クレアの口振りには、ローザ達と共に必死に戦ったアッシュの活躍を――自分の命を使い切ろうとするような凄絶な姿を――既に見知っているような響きがあった。


「ダルムボーグから運ばれてきたアッシュの治癒は、私が担当したんだけどねぇ。……神殿に運ばれてきた他の冒険者たちと比べても、あの子の身体はボロボロだったよ」


 神殿に運ばれてきた際のアッシュが、その小柄な身体に負っていた傷の数と深さを思い出したのだろう。悲痛な表情になったクレアが、強張った視線をソファテーブルに落とした。


「あそこまで傷だらけになってまで戦うには、それなりに理由があるモンだ。魔物から逃げられない状況だったり、誰かを護らなきゃいけない時だったりね。冒険者なんだから、生き延びるのに必死っていう場合もあるだろう。……でも、あのアッシュの傷は、そういうのとはちょっと違って見えたんだよ」


 慎重に言葉を選ぶようにして、クレアは瞑目した。


「何というか、そうだね……。強い感情を解放して突き進んだような、自分の命と取り換えてでも、倒したい何者かに向かっていったような……、そういう種類の傷に見えたのさ」


 クレアを見詰めたままのローザは、黙ったまま少しだけ唾を飲み込んだ。クレアの紡ぐ言葉には、高位治癒魔法を扱う神官として、何人もの冒険者の血や傷、痛み、そして死と向き合い続けてきたからこその重みと説得力があった。


 目を瞑ったままのクレアは、俯きがちに細い息を吐いた。アッシュが負っていた数多の傷を思い返し、そこからアッシュの心情を測ろうとするかのようだった。だが、この場に深刻な沈黙を降ろしたくなかったのか、クレアはすぐに微笑みを取り戻して、顔を上げる。


「あの子が意識を取り戻すまでに回復するのも時間が必要だったけど、それまで、あの子の傍に寄り添ってくれるアンタ達の姿を見て思ったよ。……ダルムボーグであの子が傷ついたとき、その傍に居てくれたのもアンタ達なんだろうってね」


 そこで、クレアの雰囲気が変わるのをローザは感じた。


「今回捕まったネクロマンサーだけど……、あの子の過去に関わっていたんじゃないのかい?」


 そう訊かれたローザは、この部屋に案内されたことに納得した。


 今からローザ達が手を伸ばそうとしている話題は、明らかにアッシュの存在に関わるものだ。ただ、どう答えるべきかは、すぐに判断できなかった。


「ぃ、いえ、それは……」


 言葉を濁したローザは、クレアの真っ直ぐな視線を受け止めきれず、目を逸らしてしまう。その仕種自体が、あの日のダルムボーグで、アッシュにとって深刻な何かがあったのだと答えているようなものだった。


 だが、クレアはローザの答えを急かすのではなく、自分を落ち着かせるように表情を緩めてから、質問を変えた。


「……アンタは、あの子のことをどこまで知ってるんだい?」


 微笑んだクレアの目には、無防備なほどの切実さが灯っていた。その震えそうになっている声音で、ソファに座るローザの手を握り、縋ってくるようでもある。


 ローザは少しだけ唇を噛んでから苦笑を返そうとして、できなかった。自分でも表情が歪んでいるのが分かる。今のクレアに曖昧なことを答えて、はぐらかすのは、どうしてもできなかった。


 「……クレアさんが仰ったとおりです」


 ヴァーミルからは釘を刺されてはいたが、この人には、全てを話しておくべきだと思った。

 

「私達は確かに、賞金首のネクロマンサーと戦いました」


 答えながらローザは、膝の上で拳を握る。


「……そのネクロマンサーが面白がって、私達に聴かせたんです。アッシュ君は、死体から造られた人形だと。アッシュ君を造ったのは、自分だとも」


 それを聞いたクレアも、苦しそうな表情になった。最も忌避していた予想が現実になってしまったというふうに、片手で額をおさえて、絞り出すように息を吐いた。


「……そうかい。それじゃあ、“教団”については?」


「はい。そこでアッシュ君が」


 ローザが答えようとするのを、クレアが掌を上げて遮った。それから、「“同じように造られた人形達と、アッシュは殺し合いをしていた”。……そう言っていたかい?」と、凄惨な内容を口にするのを引き受けてくれた。ローザは唇を噛んで頷いたが、すぐに首を振った。


「でも、それが本当かどうかは分かりません。アッシュ君と同行していた私達を動揺させるための、卑劣な嘘だった可能性も……!」


 ローザは思わず、自分の声に力が入った。浅はかだったかもしれないが、ギギネリエスが語ってみせたアッシュの過去を、クレアが否定してくれることを内心では期待していた。


 だが、目の前にいるクレアの優しくも悲しい眼差しによって、ローザは続く言葉を飲み込まざるをえなかった。


「……話してくれて、ありがとう」


 クレアの声に籠った温かさは、ローザの焦燥を包み込むようだった。そのあとに訪れた沈黙まで、棘のない緩やかさを湛えていた。軽い眩暈をおぼえたローザの脳裏に、いつかのアッシュの曖昧な笑みと言葉が浮かんでくる。


 つまらないヤツで、すみません。


 あの言葉を、アッシュはどんな想いで紡いだのだろう。

 奥歯を噛んでいたローザは、クレアを見据える。


「……クレア院長が知っていることを、私にも教えて貰えませんか?」


 この場では、クレアに何を訊いても赦されるのではないかと思った。ギギネリエスから聴かされたアッシュの過去には、無遠慮に触れるべきではないことは理解している。だが、ローザの感情は、もう引き返せないところまで来ていた。


 そしてクレアも、この場ではと言うよりも、ローザにならば全てを話しておくべきだと感じている様子だった。立ち聞きしている者が居ないかを確かめるように、クレアは仕事部屋の扉を一瞥した。ローザもその視線を追う。


 扉の外に気配はない。遠くから、子供達が遊んでいる声が微かに聞こえるだけだった。その子供たちの無邪気な声のおかげで、僅かに緊張を含んだ静寂のなかに、柔らかな温度が灯った。


「……これから話すことは、耄碌した年寄りの、まぁ長い独り言だと思って聞いておくれ」


 口振りとは裏腹に、大切なものを託そうとするかのような声になったクレアは、そこで紅茶を一口飲んだ。それから記憶を辿るようにして、ゆっくりと瞼を閉じた。


「最初から話すと、少し長くなるけどねぇ」


 クレアは穏やかな口調で語ってくれた。




 5年ぐらい前のことさ。前賞金稼ぎクランが“教団”の支部を1つ、潰したんだ。何でも、地下の大規模な魔法実験施設を持っていたって話だよ。……アッシュみたいな子を何人も用意して、肉体と精神を改造するためのね。


 胸糞の悪い話だが、まぁ要するに、賞金稼ぎ達によって制圧された“教団”の施設から、アッシュは助け出されてきたんだ。


 初めて神殿に運ばれてきたあの子の治癒には、私も関わったんだよ。……今回と同じで、いや、もっと危うい状態だった。あの子は、もうほとんど死んでいたよ。使用を厳しく禁止されているような古代の危険な魔法で、身体も心も弄られ過ぎていてね。正直、あの子の治癒にあたった他の神官たちも諦めていたよ。


 でも、女神ルミネーディアの慈悲の御蔭かね。意識は戻らなかったけど、あの子の身体は回復に向かっていった。奇跡だったよ。でも、そのことを素直に喜んでばかりもいられなくてね。……あの子の全身に刻まれた紋様は、アンタだって知ってるだろう?

 

 あの子の正体は、“教団”が生み出した人造の魔物として、ギルドにも報告が行っていてね。ああいうときのギルドの判断は、まぁ単純さ。そんな危険な存在は、すぐに処分しようって話になった。


 ……あの子の異質さについては、私も分かっていたんだ。あの子の身体を診たのは私だし、高位治癒魔法を施したのも私だからね。


 でも、あの子を殺してしまうってことには、私は猛烈に反対したよ。せっかく助かった命を奪うなんてのは、流石に看過できなかった。ルミネーディアに仕える神官である以前に、人としてね。

 

 それに女神教の教義では、神殿を訪れる者の生命保全を最優先にしているはずだった。傷を負って苦しむ者、死に瀕している者は、たとえそれが大罪人であっても、まず癒し、救う……。それが女神教そのものの、大事な使命なのさ。


 それを放棄しちまうってんなら、どこの神殿も、どんな神官も、ただの金儲けのための装置に過ぎない。女神の慈悲を願う祈りも、清澄な信仰心も、福祉ビジネスを先導する洗脳に成り下がっちまう。


 アッシュを……、あの子を殺せと命令されて頭にきた私は、ギルド運営の上層部に文句を言いに行ってやったよ。ついでに勢い余って、法務省やら何やら、いろんなところに書状を送りまくってやったもんさ。

  

 王国は、女神教を国教にしたはずだ。その国に仕えているはずのギルドの連中共が、神殿に担ぎ込まれて一命を取り留めた子供を改めて殺そうだなんてのは、教義に反するばかりか人道に反するだろうってね。


 こう見えて私も、ちょっとは名の知れた上位神官だからね。その立場を利用すれば、言ってることにも多少は説得力と正当性が出るもんさ。


 ……まぁ、それが功を奏したのかどうかは定じゃないし、国のお偉いさん方が、どんな指示や通達をギルドに下したのかもハッキリしないが……、アッシュはすぐに殺されずには済んだ。

 

 でも、まだ意識の戻っていなかったアッシュは、魔導具によって厳重に拘束されて、冒険者ギルドの地下牢に入れられることになってねぇ。


 ギルドの連中共も、意識を取り戻したあの子から、“教団”についての情報を引き出す肚だったんだろう。


 そんなこんなで、あの子が目を覚ますまでは、私も毎日のようにギルドの地下牢に通ったもんさ。あの子に治癒魔法を施すためにね。……とは言っても、あの子は人造の魔物として扱われている以上、私が一人でってワケにはいかなかった。護衛というか警護というか、『鋼血の戦乙女』の数人がついてくれたよ。


 その中には、チトセっていう凄腕の医術魔導師がいてくれてね。彼女が手伝ってくれた御蔭で、あの子の回復はかなり速まったよ。まぁ、それでもあの子に意識が戻るのには2週間ぐらいかかったんだがね。


 でも、身体に異常は見られなかった。すぐに言葉も喋れていたし、受け答えもしっかりしてたからね。一安心だったよ。本当に……。


 ……さて、アッシュが回復したタイミングで、王都から腕利きの審問官……、有体にいえば拷問官まで派遣されてきた。その審問官も、聞けば貴族連中の子飼いみたいだったよ。やっぱり上流階級とか指導者階級の中にも、“教団”についての情報が欲しいヤツも多いんだろうねぇ。


 だが、拷問なんてするより、もっと確実でスマートな方法がある。


 そう。魔導人造兵達にも内蔵されている、強力な自白魔法さ。あれは精神隷属魔術の1種だからねぇ。嘘も黙秘も絶対に許さない。知識や記憶だけでなく、その思想や思考まで曝け出させる、ある意味で非人道的な魔法だ。


 幸いなことに、アードベルは冒険者の楽園であると同時に、魔導機械術士達が集まる技術都市でもある。彼らが造り出す魔導人造兵の数は、今や王都よりも豊富だ。あのときも、審問官の護衛として2体の人造兵が着いていたよ。おかげで、あの子は拷問を受けずに済んだってワケさ。


 つまりは、まっとうな尋問を受けることになった。その場には、私も無理矢理に立ち会ったよ。『まだあの子の体調は万全ではないから、すぐに治癒魔法を施せるように』なんて適当な理由をつけてね。さて……。魔導人造兵を率いた審問官は、両手と両足首に枷を嵌められて椅子に座ったアッシュに、こう質問したんだ。


 お前は何者だ?

 “教団”について何を知っている?

 お前を管理していた者は誰だ?


 ……ってね。


 あの子は答えたよ。


 僕は魔王復活のための、触媒の1つだそうです。“教団”というものについては、詳しくは分かりません。僕を造りだした人たちのことも、知りません。


 本当か? 訝し気な審問官はそう訊いていたけどね。でも、あの子は頷くだけさ。


 当然、あの子の回答は自白魔法によって引き出されたものだったから、嘘を言っている筈はない。審問官はあの子の過去から、有益な情報を汲み尽くすつもりだったんだろうね。容赦の無い訊き方を続けていたよ。


 お前の身体の、その禍々しい紋様は何だ? お前は“教団”の施設でいた時、その禁忌魔法で調律を受ける以外は、何をしていた? お前は何か、魔法を使えるのか? 戦闘の経験は?


 魔導拘束具で体の自由を奪われて、椅子に座ったままのあの子は無表情だった。けれど、自分の記憶に囚われたような目をして受け答えをしていたのが、印象に残っているよ。


 この紋様は、僕の肉体に調律を行うためのものです。その調律の成果を見極めるために、或いは、僕の予備を選別するために、僕は……、僕以外の、数多くの人形を、器を、破壊してきました。ただ言われるがまま、僕は彼らと、彼女達と戦い、殺してきました。僕が僕ととして、相応しくあるために。でも……、ある時から僕は、治癒系統の魔法しか使えなくなりました……。だから僕は、無価値で、無意味な、出来損ないです。


 自白魔法によって引きずり出されたあの子の言葉は、真実に違いなかったからね。


 滔々と答えたあの子の声は、自分の命への執着すら放棄したみたいに無感動だった。その場にいた私は、もう何も言えないままで黙っちまったんだけどね。審問官の方は苦い顔をしていたよ。


 魔王復活を目的とした“教団”が妙なことを始めるのは、今に始まったことじゃない。ずいぶんと昔から子供を攫ったり、人造生物を生み出したりしてたのさ。


 ……まぁ要するに、あの子から引き出せる新しい情報なんてのは、ほとんど無かったんだ。


“教団”の施設を制圧した賞金稼ぎ達が、あの子と同じような子供達の、……遺体をね、既に回収してたってことも、後になって聞いたよ。だからかもしれないけど、あの子を王都の研究機関に送っちまおうっていう気配は無かった。


 あの子を回収して、何かの実験体にするにしても研究素材にしても、まぁ、……望ましい状態じゃなかったんだろう。何度も何度も禁忌魔法での調律を受けた影響で、あの子の身体はボロボロだった。魔法を扱う為の体内の魔術回路も潰れちまうほどにね……。


 審問官が小声で、「役立たずな餓鬼だ」って吐き捨ててやがったよ。魔導人造兵がいなけりゃ、私は間違いなくアイツをぶん殴ってたと思う。……でも、そんなことをやってる場合じゃなかった。このままだと、あの子は本当に処分されると思ったよ。


 地下牢で自白魔法を受けるあの子を、この世界が見捨てようとしている。……そういう風に感じたよ。でもねぇ。それは、何かが間違ってると思ったのさ。勝手に生み出して、苦痛を与えるだけ与えて、壊れちまったら命を奪うなんて。


 審問官の傍に居た私は堪らなくなってね。

 叫ぶみたいにして、あの子に訊いていたよ。


 アンタは、今でも誰かを傷つける意思があるのか?

 この世界を憎んでいるのか?


 あの子は自白魔法の影響で、淡々と答えてくれたよ。


 僕は不全ではありますが、今も人形です。器であり、道具です……。誰かに対する敵意を持っていません。害意も悪意も……。僕は、誰も憎んではいません……。そんな資格は、僕にはありません……。


 ……あの子の言葉を聞いて、私はすぐに審問官に詰め寄った。

 この子は神殿で預かる。この子には、生きる義務がある、ってね。


 自白魔法は、その発言が真実であることを保証する。

 そして、自白魔法は“人間”にしか効かない。


 あの子が人間であることは、高度な魔法が証明したんだ。あの子の生きてきた時間が、どんなものであっても……、あの子が他者を害する意思を持っていないことが証明された。明らかになったんだ。なら……、あの子は生きるべきだと、私は思ったのさ。




 そこまで語ったクレアは、目を閉じて深呼吸をしてから、ローザへと顔を上げた。覗き込んでいた重たい記憶の内から、この場に心を巻き戻してくるような、ゆっくりとした動作だった。


「……このことを話したのは、アンタが初めてだよ」


 唇の端に微笑みを過らせたクレアは、抱えていた荷物をそっと降ろすように言う。ローザは何も言わず、「教えて頂いて、ありがとうございます」と礼を述べて、姿勢を正して頭を下げた。


「礼なんて、やめておくれ」


 クレアが伏し目がちに首を横に振ってから、泣きそうな、参ったような笑みを浮かべてみせた。


「あの子を養護院で預かるようになるまでには、……まぁ、色々とあったよ。あの子が万が一にも暴れ出したりしないよう、厳重な拘束用魔導器具を用意したりねぇ」


 やるせなさを誤魔化しきれず、選択できた表情がそれしかなかったのかもしれない。


「それに、“教団”施設の調査も続いていたんだ。そこには、あの子と同じように、造られた子供たちの痕跡もあった。……その子供達を作り出したのが、恐らくネクロマンサーだろうっていう話もね、私も耳にはしてたんだ」


 このあたりの話は全部、ギルド関係者に無理を言って喋らせたんだけどね。そう付け足して肩を竦めたクレアに対して、ローザはどのような表情をしていいのか分からなかった。ただ視線を落としながら頷くしかなかった。


「調査の結果、あの子も同じように生み出されたものだと判断された。人間でありながら、人造の魔物として定義されたのさ。……あの子の過去に、人間の法律は適応されないし、する必要もないとしてね」


 目を伏せているクレアは、感情を圧し潰したような平たい声で続ける。


「法に関わる王都の人間達にとっては、あの子の過去なんてどうでも良かったんだろう。“人造の魔物が、他の人造の魔物と殺し合っていた”っていう判断なのさ。法で裁くに値しないし、罪でもないし、償う価値もない。……そう結論づけられたっていう便りも、王都からウチに届いたよ」


 ローザは胸が詰まった。それは、アッシュが受けてきた苦痛の救済として無罪を言い渡されたのではなく、その苦しみ自体が無価値であり、無意味であると突き付けられたのと等しいのではないかと思った。


 アッシュ自身の半生が、この世界のどこにも接続されず、無かったこととされたのと同じではないか。


 そして、その残酷な結果を粛々と受け容れたアッシュは、この世界の何処にも属さないことを選び――ソロ冒険者を続けていたのではないか。


 無意識のうちに下唇を強く噛んでいたローザの脳裏には、アッシュの穏やかな表情がいくつも浮かんできていた。それは曖昧な笑みであったり、優しげな微笑みであったり、困ったような苦笑であったりした。


 あれらのアッシュの微笑みの裏にあるものを想像し、ローザは胸を潰される思いだった。


 今のアッシュは、過去の自分と、どのような関係も結べないままなのではないか。それは結局のところ、自分自身を生きられないことと同義ではないだろうか……。


 震えそうになる息を、押し出すようにしてゆっくりと吐き出す。気付けばローザは、「アッシュ君は……」と口にしながら、右手でぐしゃぐしゃと自分の髪を掴んでいた。


 もしかしたらローザは無意識のうちに、アッシュが生きてきた時間を取り零さないよう、必死に拾い集めていくような感覚になっていたのかもしれない。


「養護院でのアッシュ君は、どんな子でしたか?」


 その質問は、自然と口から出てきた。


「あぁ。静かで、大人しい子だったね。さっきも言った通りさ。誰かと遊んだり、お喋りをしていることも、殆どなかったねぇ。……まるで自分自身に言葉を与えて、理解しようとするみたいに、いつも難しそうな本を読んでいたよ、あの子は」


 何かを思い出したように視線を上げたクレアは、眩しいものを見つけたように目を細めていた。


「あぁ、でも……。ある時を切っ掛けに、年上の女の子に気に入られたこともあったみたいだね。随分とくっつかれてた時期があったよ」


 笑みを含んだクレアの声は、すぐに翳っていった。


「でも結局、あの子は孤独を選んでいたよ。私もね。あの子が養護院に居るうちに、前向きになって貰えるように努力はしたつもりだよ。治癒魔法の腕を見込んで、神官になる道もあるって話や、アードベルの職人街で働くのはどうかって話もしたんだけどねぇ」


 また伏し目がちになったクレアは、ゆっくりと首を振ってみせた。


「……でも、駄目だった。あの子は暴れることも、誰かを攻撃することも、否定することもなかった。その分、他者から遠ざかろうとしていた。まるで、此処は自分の居場所ではないって言われてるみたいで……。あの頃は私も辛かったよ」


 言いながらソファに凭れたクレアは、ゆったりとした深呼吸をした。降り続いていた長雨が止んで、厚くて暗い雲間から差しこむ光を見つけたような、安堵の吐息だった。


「でも、今のあの子は同行なんて依頼されて、しかも、それに応えてる。私が知っている頃とは、明らかに変わったよ」


 僅かに涙を兆したクレアの言葉には、彼女がアッシュを初めて癒した過去から、この瞬間までを貫いてくるような力強さがあった。


「そりゃあもちろん、冒険者になって活動をしているうちに、あの子にも何か思うところがあったのかもしれない。でも、あの子が変わったのは、絶対にアンタの――、アンタ達の存在があった筈だと、私は思ってる」


 クレアの口調は、もうローザからの返事を求めているものではなかった。この場で、これだけは伝えなければならないという、必死でありながらも慎重で、感謝と熱の籠った口振りだった。


「ネクロマンサーが捕まったっていう話を聞いたとき、私の頭には、すぐにあの子の顔が浮かんだよ。でもまさか、そのネクロマンサー絡みの戦闘で負傷して、あの子が神殿に運ばれてくるなんてのは、まぁ流石に想像してなかったけどね」


 クレアは静かな目でローザを見ている。


「……あの子が件のネクロマンサーと戦っているときも、やっぱりアンタは、あの子の近くに居てくれていたんだろう?」


 クレアの熱の籠った言葉を、ローザはどのように受け止めていいのか分からなかった。


 だが、ローザと出会う前のアッシュが、ソロ冒険者であり続けていたことは事実だった。それに、同じパーティに入らないかという誘いも断られていることも。


 酒場で、ローザ達のパーティに入ることを断った時のアッシュは、確かに孤独を選ぼうとしているのかもしれなかった。だが、同行依頼という形ならば、共に行動することを了承してくれた。


 誰かの役に立てることを、必要とされることは嬉しいと、アッシュがそう言ってくれたのを思い出す。


「……アッシュ君は、“役割”という言葉を、とても大事に使っていました」


 今までアッシュと過ごして来た日々を振り返りながら、ローザはクレアを見詰め返した。


「役割……」


 呟くように小声を溢したクレアが、僅かに目を見開いていた。ローザが頷く。


「はい。アッシュ君が私達のパーティと同行してくれているときは、いつも自分の役割に誠実でした。後衛で私を護ってくれるときも、ダンジョンの偵察をしてくれるときも……、ほとんど命を懸けてくれることだって、何度もありました」


 ローザが語るのを、クレアは唇を少し噛んだままで聞いていた。


「それでもアッシュ君は、同行を依頼した私達に対して報酬を上乗せしろだとか、自分の活躍を恩着せがましく言い募ることも、一切ありませんでした」


 ローザは語りながら、アッシュの姿を思い浮かべていた。


 治癒術士としての、優しい表情のアッシュを――。2本の短剣を操り、縦横無尽に死を撒き散らすアッシュの冷酷な瞳を――。


 クレアから聴いたアッシュの過去と、ローザの知っているアッシュの姿が、自分の中で重なっていくのを感じていた。


「アッシュ君にとって冒険は、お金や名声を目当てにしたものではなくて、多分……、冒険者として活動するという行為自体が、アッシュ君にとって大きな意味を持っているんだと思います」


 高い実力を持っている筈のアッシュが5等級のまま、世俗的な趣味も持たず、贅沢にも快楽にも関わらず、ひっそりとソロ冒険者を続けていた理由も、何となく分かった気がした。


「もしかしたらアッシュ君は……、造られた“人形”ではなく、“冒険者”として、自分自身を規定し直そうとしていたのかもしれません」


 トロールダンプで、初めてアッシュと出会った日のことを思い出す。


 ローザの腕の傷を癒してくれた、治癒術士としての冒険者アッシュの優しい眼差しも。強力なトロール達を殺戮する、魔王の器となるべく造られた人形としての無感動な瞳も。当たり前だが、そのどちらも本当のアッシュなのだと分かった。


「人には其々に役割がある……。あの子にそういう話をしたことは、確かにあるよ」


 クレアが泣き顔にも似た笑みを浮かべてから、静かに頷いた。


「生きていく上で、自分のことを無意味だとか無価値だとか思うことほど、苦しいことはないよ。それは結局、自分の存在を疑って、自分で自分を否定することだからね。どこにも逃げ場が無いし、金で解決することもできない。……どこにも救いが無くなるんだ」


 深い実感の籠った口振りで語るクレアは、遠い目つきになってソファーテーブルの一点を見詰めている。


「だから、せめてあの子には、希望を持って貰いたくてねぇ……。自分の居場所が、何処かにあるんだって」


 過去を振り返る目つきのクレアは、視線を落としたままで、ひっそりと微笑んだ。


「極東の国では、灰を蒔くことで枯れ木に花を咲かせるなんていう童話があるらしい。素敵だと思わないかい? ……それに因んだつもりで、あの子の名前も考えたんだ。女神の言葉にもあるけど、誰にでも必ず、使命がある筈だからねぇ」


 自身の記憶の余韻の中で、大切な想いを確かめ直すかのような、静かな微笑みだった。遠くから、また子供達の声が微かに聞こえてきた。


 その屈託のない無邪気な声は、ローザとクレアの間に横たわろうとしていた沈黙を、ふっと柔らかく解いていく。


「クレア院長がアッシュ君に語ってくれたお話は、ずっとアッシュ君の心に寄り添って、支えてくれていたと思います」


「あの子を苦しめた時も、あったかもしれないね」


 悲しげに微笑んだクレアに、ローザは首を振った。


「でもその苦しみは、同時にアッシュ君に希望を与えてくれたんだと思うんです」


 ローザがゆっくりと瞬きをすると、曖昧な微笑みを浮かべたアッシュの横顔が思い浮かんだ。


「クレア院長の“役割”っていう言葉は、アッシュ君の過去を切り捨てたり無かったことにしたりせず、アッシュ君が生きてきた時間の全部に、意味を与えてくれる言葉だった筈です」


 あの優しげな表情の裏に隠れていただろうアッシュの、その深い苦悩をローザは想った。


 「だって、“役割”っていう言葉は、その人が生きていることを肯定してくれる、今を生きるための言葉じゃないですか」


 必死さを帯び始めたローザの言葉を、クレアは黙って聞いていた。そしてそのうち、優しい苦笑を溢しながら、大きく息を吐きだした。


「……優しんだねぇ、アンタは。冒険者に向いてないんじゃないのかい?」


 本気か冗談かわからない声音には、ローザを揶揄するような響きはなかった。その代わりに、先程までの微かな涙の気配を残していて、ローザに対する遠慮がちな感謝が籠っているのを感じた。


「最近になって、私もそう思います」


 そう答えたローザの声音も、本気か冗談か分からないものになった。


「あぁ。そろそろ、あの子の……、アッシュの検査も終わった頃だね」


 この場での話に区切りをつけるように、クレアは部屋にある大時計を見遣った。ローザもその視線を追ってから、頭下げる。


「……色々とお話を聴かせて頂いて、ありがとうございました」


「礼を言うのはこっちの方だよ。それじゃあ、アッシュに会ってきてやっておくれ。あの子も何か、色々と思い詰めてる様子だったからねぇ」

 

 クレアはそこまで言ってから、茶目っ気のあるウィンクをしながら、自分の胸の前で大きな円を2つ、描くようなしぐさをした。

 

「あの子の話を聴くのも、私なんかよりも、おっぱいの大きいお姉さんの方がいいだろう?」


「や、さっきもお話させて貰いましたけど……。アッシュ君はそういうことに、あんまり興味ないみたいですよ……?」


 この会話の終わりは、冗談めかしたクレアの御蔭で暗いものにならずに済んだ。それに、ローザのことを信頼してくれていることも感じた。それが有難かったし、勇気づけられた気もした。


 そして素直に、アッシュのことを大切に思っている人がいることを、本当に嬉しくも思った。


 優しい気持ちになったローザの脳裏に、またアッシュの笑みが浮かぶ。鼓動が少し早くなる。早くアッシュに会いたいと思った。



 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 いつも温かく支えて下さり、本当にありがとうございます。

 次回か、次々回あたりで、一応の一部完結のような形にできればと思います。


 今回の更新で、『先が気になる』『面白い』と少しでも感じて頂けましたら

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 今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!


 

 

 

 





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