第38話 夜明けを前に
ローザ達のパーティは間違いなく、あの女神を模したゾンビの動きを止めてみせた。
その証拠に、神殿へと押し寄せて来ていた有翼ゾンビ共が次々と墜落をはじめ、今までの熾烈な戦闘状況も、唐突な終止を迎えようとしていた筈だった。
だが、終わりでは無かった。
何らかの理由で女神を模した指揮個体のゾンビは再び起き上がり、翼まで生やして宙へと再び舞い上がった。
それだけではない。
『死wo撒き全て灰燼to成site……!!』
それだけでなく、女神を模した指揮個体のゾンビが、神殿に向かって突っ込んでくる。詠唱によって濁った紫色の魔法円を身体に纏わせて、此方に向かって墜落してくるように。
『崩れ落ちru世界ni歌wo愛si狂i狂eEEEEEEE……!!』』
先程までの女神を模したゾンビの詠唱は、不気味ながらも聖歌そのものといった清廉な響きに満ちていた。だが、今は違う。まるでがなり立てるような、怒鳴りつけるような威圧感と暴力性が溢れている。
とにかく攻撃的で自棄的な詠唱が、黒い空に響き渡る。
あれだけボロボロになりながら、殆ど捨て身のように此方に急接近を試みながら、詠唱によって身体に魔法円を纏わせている。その魔法円も、濁った紫色の魔力光を溢れさせながら、ドス赤い明滅を激しく繰り返していた。
あれが、何らかの魔術発動のための詠唱なのは間違いない。
私の脳裏に、自爆という文字が過る。思い付きや閃きではなく、今の女神ゾンビには、そう思わせるだけの殺意があった。
魔術による遠距離攻撃を捨てて、ただ猛然と突進してくるその姿からは、害意や悪意だけではない、もっと純粋で狂暴な感情の発露が感じられた。
「げっ!? あの女神モドキ、墜落したんじゃねぇのか!?」
「まだ動いてやがるのかよ!?」
「しぶといなオイ……!」
「つーかこっちに来てるぞ!」
「オイオイ、やべぇんじゃねのか!?」
「治癒処置は一時中断!」
「陣形を整えろ!」
「盾を持つ者は前へ!」
「負傷者を下がらせろ!」
「応!」「応!」「応!」「応!」
神殿の守備についていたクランメンバーや冒険者達も、有翼ゾンビが無力化されたことには束の間の勝利の喜びを味わっていたが、女神ゾンビの復活、そして此方へに急襲に気付いた。
彼らは動揺と混乱の中で対応を迫られ、どよめいていた。だが、逃げ出す者はいなかった。この村を守る戦いの中で、彼らの中にも結束が芽生えているようだった。
そのことを素直に頼もしいと思った。
神殿の守備を固め直そうと彼らが居るおかげで、私は前に出ることができる。村の人達だけでなく、同じ冒険者達を守るためにも。再活性した女神ゾンビを相手に、私の剣に出来ることなど、もとより一つしかないのだ。
「……斬り捨てる」
そう呟きながら、私は剣の切っ先を後方に向けて下げ、姿勢を落として駆ける。
私は守備隊から、さらに離れていく。前に出る。私に追従してくる者が出てこないよう、彼らを置き去りにするように駆ける。
私は助けを求めない。
仲間の援護を必要としないのでもなく、その申し出を不要だと突き放すこともしない。クランメンバーに厳しい訓練を言い渡すことも、生活や態度を指導することがあっても、弱者だと見下すことはしない。
ただ戦場の私は、結果的に味方を、仲間を、部下を疎外してきた。
私は確かに、クラン『正義の刃』のメンバー達と志を同じくしている。願うものと歩む道も同じだ。私にとって部下は同士であり、魔物によって故郷を焼かれた悲しみを共有する同胞だった。魔物による町村の壊滅被害という、ありふれた悲劇を少しでも阻むために、私達は命を懸けてきた。
ただ、戦場の中で“剣”として生きようとするとき、私は一人になる。
剣を振るうたびに、私は他者から離れて、遠のいていく。
それでも私は、一本の剣として在ろうとした。
人々を脅かす魔物を斬る、容赦のない剣に。
私と部下達を分けているのは実力以上に、この想いの差異だった。
クラン『正義の刃』のメンバー達の志は同じでも、其々に望む生き方は違う。
当たり前のことだ。
戦場での彼らと私は協力し、連携はとっても交わることはない。
今の私はそんな彼らのことを、エルン村の住人と同じように守りたいと思った。
共に戦った他の冒険者達も、見捨てることはできない。
刺し違えても、あの女神ゾンビを止めねばと思う。
私は死を感じている。
だが、私の呼吸に乱れはない。
思考も静かだ。視界も狭まっていない。
手の中にある剣の重さも、柄を握る感触も、私の身体の一部として感覚されている。
今の私は、この剣と同化している。
剣としてこの戦場にあり、戦いの中にある。
私が繰り出す刺突と斬撃こそは、私の機能であり造形だ。
私の生きる術であり、私の存在する意味だった。
剣である私には、諦めるという選択肢はない。
道具はただ、必要な場所にあればいい。
求められる機能を発揮していればいい。
他者を守るための剣は、同時に、最後まで戦い抜くための剣だ。
私は一人で死ぬ。
剣として死ぬのだ。
ずっとそう思っていた。
暮らしていた故郷を魔物に焼かれ、生き残ったあの日のことが記憶に滲んでくる。
瞬間的に脳裏を過った光景は、断片的だが鮮明だった。
農具を手にして魔物に立ち塞がろうとした、父と母の背中。
私を逃がすために、最後まで命を張り続けた両親の姿。
「逃げろ!」。必死な父の声。「生きなさい」。懸命な母の声。
2人の声が、逃げていく私の背中に突き刺さる感触。痛み。
私は走った。喉を焼くように息を切らして。何度も転びながら。
涙は出なかった。建物が燃える熱。炎。踊る影と悲鳴。
食い散らかされる人々。血の匂い。魔物の声。存在感。
それら全てに背を向け、私は生き延びてしまった。
あのとき、私の手の中にあった剣は、私を導いてきた。
私は自分自身の命について考えた。
なぜ、父と母と共に死なずに、私だけが生き残ったのか。
私は両親を見捨てて逃げた。
私は、私自身を憎んだときもあった。
だがあのとき、私は生きるべきだった。
父と母が命を懸けて、そう願ったからだ。
私の命はここにある。
この命の使い途があるならば、それは私自身の為でなく、他者の為にあるべきだった。
私はそう確信し、己の残った人生に結論を出した。
そして私は、一本の剣として在ろうとしたのだ。
人々を脅かす魔物を斬る、容赦のない剣に。
戦場の中で“剣”として生きようとするとき、私は一人であるべきだった。
そして今――。
この命に使い切るときがきたのだと感じた。
私は今までの戦場と変わらず、こうして一人で突出し、戦い、死ぬ。
一本の剣として、その機能と存在意義を余すことなく全うして、死ぬのだ。
それこそが、私らしいと思ったときだった。
「……女神のゾンビは、かなり高度を下げてきていますね」
私の斜め後ろから、恐ろしい程に落ち着いた声が聞こえてきた。
「あの高さなら、僕でも届きそうです」
彼が私に追従してくれていることには、全く気付かなかった。
私は駆ける姿勢を崩すことはなかったが、かなり本気で驚いてしまった。
「あなた……」
肩越しに振り返ろうとしたときには、黒い細身のボディスーツで身を包んだ彼が、私の隣に並び、まだ速度を上げて行こうとしていた。私の前を先行し、あの女神ゾンビを迎え撃つつもりなのか。
極端な前傾姿勢になった彼は、長刀を肩から背中にかけて背負うように持ちながら、疾駆していく。すれ違いざま、私は彼の表情を見た。やはり、どこまでも静かな表情だった。
冷厳でありながらも静謐な彼の眼差しが、私を捉えていた。
アッシュ=アファブル。
この少年の底知れない存在感は、一体何なのか。
「次は僕が、あの女神ゾンビを落とします」
青みがかった昏い光を湛えた彼の瞳に、私の呼吸が僅かに乱れた。
「では……、追撃は私が」
そう応じながら私は、彼が――アッシュが私と共闘してくれることに、今までに感じたこと無い種類の鼓動が、胸に響くのを聞いた。
これは高揚と歓び……だろうか。分からない。
それに、この安らぎに近い安堵は何なのだろう。
“剣”として在ろうとする私を肯定するでもなく否定するでもなく、彼はただ共に戦ってくれる。その強さを以って、“剣”として戦い抜こうとする私に並び立ち、力を貸してくれる。
“剣”として戦う私は、戦場ではいつも一人だった。
仲間も部下も置き去りにして、魔物に身をさらして来た。
それは私が望んだ場所であり、役割だった。
だが今は違う。
今は彼が、私と同じ場所に立ち、同じ役割を演じている。
少なくとも、そう感ぜられた。
そのことが、何故こんなにも心に響くのか。
私を追い越していくアッシュの背中が、やけに大きく見える。
「先行をお願いします、アッシュ」
私は、彼の名を慎重に口にする。
「分かりました」
やはり冷厳とした、それでいて微かに柔らかな声で彼が応じてくれる。
その心強さに、私の鼓動はまた微かに乱れた。呼吸も揺れる。だが、不思議と身体の強張りが抜けて、感覚が研ぎ澄まされた。手にした剣も軽く、身体の疲れが薄まっていく。
私は駆ける速度を上げる。
少しだけ、彼に近付きたかったのかもしれない。
だが、目の前を行くアッシュは、私よりも遥かに疾い。
あまりにも疾過ぎる。
このままでは、滑空してくる女神ゾンビとすれ違うのではないか。
そんな私の不安は、完全な杞憂だった。
女神ゾンビが飛来してくる軌道が、微妙に変わっていたからだ。
……私だ。あの女神ゾンビは、私に向かってきている。用意したゾンビの群れの敗北を察したネクロマンサーが、私だけでも道連れにするつもりなのか……?
いや、あの女神ゾンビが纏っている魔力量を見れば、あの詠唱と共に発動する魔術は恐らく、私諸共、このエルン村を焼き払うには十分な威力を発揮するだろう。
そうして村の住人も、『正義の刃』のクランメンバーも、他の冒険者達も全て死体に変え、全てを持ち去る肚なのか。
『死wo与E我no歌to涙ni慈悲wo籠metekorewo滅ssu……!!』
来る。魔法円を展開し、体中に纏った女神ゾンビが。一気に距離を詰めて来る。
もうネクロマンサーは小細工を弄する余裕はないようだ。私よりも先行しているアッシュの存在を把握している筈だが、ただただ、女神ゾンビは私に真っ直ぐに突撃してくる。
来るがいい。
今の私は、一人ではない。
不思議と負ける気はしないのは、私との距離を大きく広げるアッシュが、更に駆ける速度を上げるのが見えたからだろうか。
そして、滑空してくる女神ゾンビに対して、大きく右側へと膨れるように踏み込んだ。そして地面を蹴って、超人的な速度と鋭さ、高さまで跳躍し、低空を高速滑空してくる女神ゾンビに襲い掛かる。
長刀を手にしたアッシュは正面からではなく、空中戦を繰り広げたローザのように、横合いから飛び掛かったのだ。それはまさに、神速の強襲だった。
アッシュは女神ゾンビを間合いに捉えた刹那には、独楽のように体を回転させて長刀を一閃させていた。女神ゾンビを側面から両断しようとしたのだ。
女神ゾンビは、アッシュの存在には気付いていたが反応が遅れた。或いは、地面から飛び掛かってくるとは想定していなかったのかもしれない。
『……ッ!?』
咄嗟に身体を捻って逸らすことで、振り抜かれた長刀で首や胴を斬られることを避けた女神ゾンビだったが、無傷では済まなかった。女神ゾンビの背中に生えた両翼が斬り飛ばされる。
空中で身体を斜めに回転させているアッシュは、そのついでのように、女神ゾンビの横っ面に膝蹴りを叩き込んでいた。
『BUッ!?』
中空で回転させた体の遠心力を、そのまま浴びせかけるような、狙いすました回し膝蹴りだった。
『ぐぉ……おおお!!?』
翼を斬り飛ばされた女神ゾンビは、飛来してきた勢いをそのままに地面に墜落し、何度か激しくバウンドしながら、20メートル以上を転がった。並の魔物なら死んでいるだろうが、あれは並の魔物ではない。
そもそもアンデッドであり、操縦されている腐肉の人形だ。
『あああああああ……!! 死ぬほどウゼェエエエぞマジでェェ……!! 邪魔すんじゃねぇよ殺すぞテメェェええ…!!』
やけに瑞々しい、しかし狂暴極まりない少女の声が響き渡る。他者の尊厳や生命になど一切頓着しなさそうな、傍若無人さを叩きつけて来るかのような声音だ。
――あれがネクロマンサーの声か。
駆けながら私は、剣の柄を絞るように握り直した。
ローザのマジックキャンセラーでも止めることができなかった、あの女神ゾンビの機能を完全に停止させる方法はある。術者であるネクロマンサーの魔力を受け取れないほどに、その肉体を破壊してやればいい。
女神ゾンビが上空に陣取っていたときには、私は近接戦を仕掛けることが出来なかった。ローザ達のパーティに希望を託すよりなかった。
だが、やはり今は違うのだ。アッシュが、あの女神ゾンビを引き摺り落としてくれた。
これで届く。
届くのだ。私の剣が。
『昼間の北門でも散々っぱら邪魔しくさりやがってこぉぉおクソガキがよぉぉおお……!!』
詠唱を中断させられた女神ゾンビは地に落ち、私の足が踏みしめる先でアッシュと対峙しようとしている。
完成寸前であった詠唱をアッシュによって中断させられたネクロマンサーは、怒りと苛立ちに飲み込まれているようだ。狂暴な声音には冷静は無い。アッシュに体ごと向き直ったまま吼え、肉薄していく私には気付いていない。
この土壇場で視野狭窄に陥るのは、女神ゾンビを操っているネクロマンサーは戦闘に慣れていないのか。或いは、他者を蹂躙する経験しかしてこなかったのか。
いずれにせよ、迂闊だ。
だが、その迂闊さを改める必要もないほどに、ネクロマンサー自身の力が強大でもあったのだろう。
『この村を炭屑のボロクソにしちまう前に……!』
殺意の塊のような威圧感を振り撒きながら、女神ゾンビの身体がボゴボゴボゴッ……! っと膨れ上がる。
泥だらけのボロボロになった女神ゾンビの壮麗な法衣が、フード部分と胸元を隠す部分を残して、内側から突き破られるように千切れ飛んだ。半裸になった女神ゾンビは土気色の肌をさらし、その死肉の身体を変形させていく。
無理矢理に修復されて引き延ばされていく身体のシルエットは、人間や獣よりも虫に近い。
下半身が極端に膨らんで伸び、そこから数本の脚を生やしたあの姿は、蟷螂によく似ている。だが、胸から上には女神としての神秘性を飾るように、半裸の女性の姿を保っている。
あの壮麗な法衣の名残を残しつつ、顔貌の上半分を隠したままだ。ただ、その腕は蟷螂の巨大な鎌のように肥大して変形している。
女神と蟲を融合させたような、あまりにも冒涜的でおぞましい姿だった。
『まずはテメェをグチャグチャにしてやるよ……!!』
巨大な蟷螂の姿になった女神ゾンビが、アッシュに向かって突進しながら腕を伸ばした。その踏み込みの速さに、私は僅かに目を瞠った。筋肉や関節の動きを読ませない、虫らしい瞬間的な超速度だった。
だが、アッシュの動きはそれを完全に上回っていたし、巨大蟷螂と化した女神ゾンビの動きも、既に見切っていたようだ。
重心を僅かに落としたアッシュは、すぅ……と斜め後ろに下がって顔を反らせただけだった。伸びて来る女神ゾンビの腕から最小の動きで逃れつつ、更に手にした長刀を投げ放つ。
アッシュの手を離れた長刀の切っ先は、生温い夜の空気を貫きながら飛び、女神ゾンビの胸元に突き刺さった。そして容易く貫通した。
『こんなモンが効くかボケェ……!!』
胸元に長刀の柄までを埋め込んだ女神ゾンビの背中からは、長刀の刀身が突き出ている。だがゾンビだけあって、ダメージは全く無いようだ。あの程度では損傷には入らない。動きを止めることはできない。
ならば、それを上回る損壊を与えよう。
私の剣は、そのために此処にある。
“私という剣”の、『役割』を果たさねばならない。
“剣聖”という言葉の奥にある、この私そのものを肯定するためにも。
『……ッ! どいつもこいつも邪魔くせぇ……!』
焦ったような声を発した女神ゾンビが、思い出したかのように此方に顔を向けてくる。歪で醜い、蟷螂のような巨大な身体を動かし、私に向き直ろうとした。
だが、それら全ては遅過ぎた。
虫の怪物と化している女神ゾンビの足元に、私はもう踏み込んでいる。私は止めた呼吸の中で剣の重さを、その切っ先まで感覚した。
『おおおおおおおおお……!!』
女神ゾンビが吼え、苦し紛れのように両腕を振り下ろしてくる。私はそれを、剣でいなすように潜り込み、更に前へ踏み込む。
『クソがぁあ……!』
その醜悪な巨体を仰け反らせ、怯むようにして女神ゾンビが下がろうとした。それを追いながら、私は剣を振るう。蟷螂に酷似して、膨れ上がった女神ゾンビの足を斬り、横腹を裂き、脇を突き砕く。
『泣ki喚kinagara朽titeiku者ni、愛to死to嘆kinisoeta慈悲no口dukewooooo……!!』
そのしぶとさを武器にした女神ゾンビは、私に斬られながら詠唱をしている。逃げるように大きく下がりながら、あの聖歌の如き声で呪文を紡ぎ出している。あぁ。なるほど。そうか。詰め寄られては私に勝てないと悟り、再び自爆の準備を始めたのか。
――そうはさせぬ。
私を道連れにするつもりならば、その肚ごと斬り捨てる。
この剣で容赦なく断ち割り、両断する。
そのために私は鋭く息を詰め、後退していく女神ゾンビに踏み込もうとしたが、当然、これは読まれていた。私の目の前に大鎌が迫る。速い。
これを剣で受け止めた私は押し飛ばされる。大鎌は巻き付くようにして私に迫り、私の右頬から首の右横にかけて斬り裂いていた。
3メートル程を後退することになった私は、傷の痛みと言うよりも熱を感じた。だがその時にはもう、彼が追撃に入ってくれていた。
女神ゾンビの胸元に、柄まで深々と突き刺さったままの長刀。その柄を足場にして、両手に短剣を握って腕を下げた彼が、静かにしゃがみこんでいる。
『Na……ッ!?』
目前に現れたアッシュを見上げた女神は、途中だった詠唱を絶句するようにして途切れさせていた。無理も無い。
感覚を研ぎ澄ましていた私でさえ、夜風に紛れるように気配を消していた彼が、突如として彼が現れたように感ぜられたほどだったのだ。
「……」
冷たい静寂を湛えた目で女神ゾンビを見下ろしながら、アッシュは両手の短剣をそっと伸ばした。女神ゾンビが被っている、法衣のフードへと。そして短剣の切っ先で、ゆっくりと、フードを持ち上げていく。
その手つきは丁寧かつ穏やかで、優しささえ感じられるものだった。まるで婚姻の儀で、誓いの口づけのために、花嫁のヴェールをそっと上げるかのように。
だが彼自身が纏っている気配は、幸福を分かち合う喜びとは程遠い。冷酷な程に無機質だ。彼の行動には、体温が介在していない。
アッシュの持つ短剣の先。そこで露わになった女神の顔は、肌の色こそ生気の無い土気色の肌だったが、それでも十分に整った目鼻立ちだった。
その美貌を驚愕に歪ませた女神ゾンビは――、いや正確にはネクロマンサーなのだろうが、アッシュを見上げたままで掠れた声を漏らした。
『何モンだよ、テメェ……』
「……僕も同じことを、女神像に何度も問いかけたことがあります」
長刀の柄を足場にしているアッシュは、低い声で答えながら少し前屈みなって、ゆっくりと両腕を広げた。彼が手にしている白と黒の短剣が、淡い月明かりを微かに反射している。
「返答は、一度もありませんでしたが」
冷然と言い終えたアッシュは、そこで両手の短剣を振るった。まるで、それ以上の言葉での遣り取りを放棄するかのように。
いや、もしかしたら、彼の内面にある何かを言葉ではなく、2振りの短剣によって解放することで応答したのかもしれない。
柄の上にしゃがんだままのアッシュの短剣捌きは、やはり超然としていた。
霊妙にして凄烈、優雅であり残虐だ。だが、それは飽くまで私が抱いた印象であり、私の中でのみ完結する、ある種の感銘と感動であり、畏怖だった。
では、彼にとって――アッシュにとって、彼自身の殺戮技巧は、如何様なものなのか。
稟性の才能があるだけでは、あれだけの技巧を身備えることは不可能だろう。幾つもの戦闘に関する才能を基本として、そこには尋常ならざる鍛錬が不可欠な筈だ。
無数の斬撃と刺突の組み合わせにより、抉り、剥がし、斬り分け、破壊する。彼の腕と短剣が届く範囲には、刃の小旋風が通り過ぎていく。
お前は何者なのか?
その設問に対する彼の答えは、美しく精緻で、丹念かつ入念で、容赦がない。
瞬く間に、女神ゾンビの上半身は、ドス赤い粘液のようなものを塗した無数の肉片となって大地に撒かれ、その形を失った。襤褸雑巾どころか、完全に分解されて崩れ去ってしまった。
女神ゾンビの胸元に突き刺さっていた長刀も、その支えを無くして地面に落下する。その直前には、アッシュは柄を蹴って跳躍し、女神ゾンビを飛び越えていた。
その刹那、彼は私の方を見た。玲瓏とした光を湛えた彼の瞳からは、私に向けられた明確な言葉と意志が読み取れた。
……あとはお願いします。
彼の形の良い唇が、微かにそう動いたのを私は見逃さなかった。
そうだ。まだ終わりではない。
女神ゾンビの詠唱はアッシュによって阻まれたが、あとに残った蟷螂型の身体が不気味に明滅している。自爆攻撃の前兆か、それとも、同期していたネクロマンサーの残留魔力が暴走しようとしているのかもしれなかった。
ネクロアンサーにとってゾンビとは、魔術の“器”である、腐肉の魔法回路でもある。
――ならば、私にできることは1つ。
私はアッシュに頷くよりも先に、剣によって応じる。
この言葉を必要としない密度のある応答に、また私の鼓動が揺れるのを感じた。
戦いの中で、このように誰かと通じ合ったことは今までに無かった。陣形や隊列から突出し、討伐の対象となる魔物を討ってきた。それが私に相応しい役割であり、求められた戦果だった。
無論、ルフルをはじめとする、後衛として背後を固めてくれる仲間や部下への感謝を忘れたことは無い。この『正義の刃』というクランの中で、私が“剣”として在るためには、やはり皆が必要だった。
戦場での孤独は、私が選んだのだ。
1人でオーガ100体を斬り倒し、泥濘のような死体と臓物の海の中で佇む孤独も。古竜の首を斬り落とし、その熱い血しぶきを1人で浴びて全身を染めたのも。
私は英雄譚のように語られる栄誉が欲しかったのではない。
私が、私自身に、そう望んだ結果だった。
そして私の剣は、私が望まなくとも他者を遠ざけるだけの練度を持った。
私はより一層、戦場での孤独に馴染んだ。その筈だった。
だが今の私は、共に戦っているアッシュの存在感に心が乱れそうになっている。
私の身体に宿る魔力の色を吸い、手の中にある剣が暗銀に煌めきを帯びていく。今の私の感情に呼応したのか、その魔力の光は今までよりも力強く、透明な輝きに満ちていた。
あぁ。身体が軽い。
鼓動と共に、身体の内側に温かな温度が灯る。
戦闘の疲れが溶けていく。
これで最後だ。
極大の魔力光を宿した剣を、私は袈裟斬りに振り抜く。更に手首を返し、水平に凪いだ。この私の斬撃の軌跡は、澱んだような夜の暗がりの内に、刻み込むような暗銀の帯を残した。
それは刃で斬ったというよりも、剣に宿した魔力にものを言わせて、消滅させながら断ち割ったという方が正しい。
女神ゾンビが残した蟷螂の身体は、その半分ほどを蒸発させながら4つに分かれて、地面に崩れ落ちていく。
そこに残った虚無的な空間には、即座に夜の暗闇が横溢し、まるで何事も無かったかのように、また闇によって埋め尽くされた。残響するような黒々とした静寂の中に、私の息遣いがか細く、無防備に溶けていく。
私の周りにある夜の景色からも、戦闘の気配が霧散した。
何者にも縛られない夜の風だけが、私の頬を撫でていく。
……ようやく、終わった。
その場に膝を着いた私は、大きく息を吐き出し、それから、また大きく息を吸い込んだ。目の奥に鈍痛を感じ、今まで軽かった体が急速に錆びついたかのように重たくなった。
何度か、きつく瞬きをする。
瞼の裏にある暗闇と、夜の暗さが混じり合うような感覚があった。
緊張が途切れたのだ。疲れている。
この疲労に身体を明け渡す前に、私は背後を振り返った。
神殿の周りを飛行しているゾンビの姿はもう無い。夜の静けさを濁らせる気配も音も消えて、静けさに浸された夜空には雲だけが広がっている。
戦闘は終わった。
私達は間違いなく、勝利したのだ。
その実感をようやく味わえるようになって、神殿の守備についていた冒険者達も、『正義の刃』のクランメンバー達も、地面に手をついて座り込んだり、荒い息のままで仰向けに寝転んでいる者達の姿も見える。
負傷者の状況はまだ完全に把握できていないが、用意していた魔法薬と治癒術士達の手は足りている様子だ。
そのことについて素直に安堵した私は、そこで自分の体がドロドロに汚れていることを自覚した。私の髪や鎧を汚しているのは、ゾンビ共の返り血、いや、腐った体液と言った方がいい。
感染症になどならぬよう、あとで身体を魔法薬で洗う必要がある。それに、ひどい臭いだ。だが、こういったことにはもう慣れた。
オーガ達の内臓や血を浴びたあとも、古龍の脂混じりの血を浴びたあとも、私が感じていたのは勝利の喜びや達成感よりも、寧ろ、その戦果によって己の意味と孤独を確かめ直すような虚しさと、ある種の倦怠感だった。
無論、『正義の刃』の一員として、魔物達によって脅かされた人達を守り抜くことができた安堵は、今も、今までも確かに感じていた。それを誇りにするだけの正義感も、私は持っているつもりだった。
だが、両親を見捨てて逃げ、そして生き延びた私の命を、私自身で肯定して認めたいという願いを捨て去ることはできなかった。この利己的な想いを見詰め直すのは、いつも決まって、戦闘が終わったあとの、こういった孤独の中でだった。
私は“他者のための剣”でありたかった。
その役割によって、己自身の生き方を支えたかったのだと――。
戦闘が終わったあとは必ず、私は疲れた体ごと、己の自問自答に意識を沈めていた。それが不味かった。
「全て片付いたようですね」
「はぅ……ッ!?」
不意に優しい声を掛けられて、私は声をひっくり返してしまった。アッシュのことを失念していたわけではないが、こんなに近くで声を掛けられるとは思っていなかったのだ。
「頬と喉首の傷から出血しているようですし、治癒させていただきます」
両手に持っていた短剣を杖の形態に戻した彼は、目許を僅かに緩めて私を見上げて来る。私は少し身を引いてしまう。
普段なら絶対に出さないような、裏返った変な声をだしてしまった。
は、恥ずかしい……!
いや、それ以上に……。
「いえ、有難い申し出ですが、気を遣って貰わなくても構いません。今の私は、こんなに汚れていますから……。それに、臭いも……」
何故か私は、今の姿をアッシュに見られたくないと思っている。そのことに自分自身で驚きつつ、彼から数歩分だけ離れようとした。だが、緩く首を振った彼が、2歩近づいてくる方が早かった。
「“浄化の霊炎”で、まずは傷を清めさせてもらいますから。装備の汚れも、一緒に綺麗にできるはずです」
穏やかなアッシュの言い方には、余計な感情が付着していないのが分かる。
「身体を休める前に、まずは傷を癒しましょう」
年老いた医師が患者の心配するような、素朴な優しさを感じさせる声音だ。その純粋な厚意を無碍にするのも躊躇われるし、今は抵抗する気にもなれなかった。
なんだか、妙に顔が熱い気がする。自分でも思っている以上に疲れがあり、少し熱があるのかもしれない。それに何故か、彼の事を真っすぐに見れない。
「……では、治癒術士である貴方の言葉に従いましょう」アッシュの目を見ることが出来ないことを誤魔化すように、私は緩く息を吐く。「よろしくお願いします」
「えぇ。では、少し失礼しますね」
彼はそう言ってから右手に持った杖の先に、柔らかに澄んだ翡翠色の光を灯した。そして、また一歩分私に近付いた彼が左手を伸ばしてくる。私の右頬と喉首の傷に掌を添えるように。
アッシュと私と距離が縮まる。私と彼の間にある空僻には、隔てるものは何も無く、ただ互いの息遣いと夜の風だけがあった。
“剣”として私が戦い終わったあとに、こんなにも誰かが傍にいたことがあっただろうか。全く慣れない。
私が内心の戸惑いを抑えていると、詠唱を始めたアッシュの左手から私の身体へと、翡翠色の魔力が流れて来るのが感じられた。
“浄化の霊炎”だ。
私の身体が、魔力によって編まれた水と炎に濯がれて、包まれて、汚れや血や汗が蒸散していく。そして温かな彼の魔力の感触は、いずれ痛みに変わるだろう傷に籠った熱を、ゆっくりと鎮めてくれる。
湯に浸かるような心地よさの中で、だが、私は落ち着かなかった。
アッシュの声が近いのだ。近い。何を意識しているのだ、私は。だが、仕方がない。どうしようもない。近いのだ。彼の体温が。私の鼓動は明確に乱れていた。
自分でも狼狽えそうになるぐらい、拍動が強くなっていく。それに、この胸に広がる、甘ったるい苦しさのような、浮ついた感覚は何なのだろう。落ち着かない。だが、決して嫌ではない。もう少し……、いや、もっと味わっていたい。
「今は手持ちも無いので、治療費はあとで支払います」
何かを言わなければと思い、私は儀礼的に、事務的に言う。だが、そのことを後悔した。もっと柔らかな言い方をすべきだったと。私は、アッシュに嫌われたくないと思っているのだろうか。
「僕の方こそ、お金は貰えませんよ」
私を見上げてくる彼が、唇の端に苦笑を乗せた。
「最終的に、ネクロマンサーが編もうとしていた魔術を止めてくれたのはサニアさんですし、僕は助けられたようなものですから」
落ち着き払った彼の物言いの裏にあるのは、謙虚さとは違う、切実さを含んだ卑屈さと慎みのように思えた。
その彼の態度が、彼自身に対する自己嫌悪から出発したものであったとしても、私には好ましかった。なぜなら私もまた、己の過去に対する嫌悪を胸に抱き、此処にいるからだ。
私と彼は、生きてきた時間や環境は違っても、そこから得た内面の性質は、似通っているのではないか。彼と私が共闘していたのは、時間にすれば数分も無い。だが、こんなにも満たされたような心地になる理由が分かった気がした。
私は、彼のことを知りたいと思った。そしてこの願いこそは、彼に、私のことを知って貰いたいという希望の裏返しであることも、気付かざるを得なかった。
ああ。そうか。
この胸に灯った温度は――。
「私は……、貴方に謝罪せねばなりません」
目の前にいるアッシュの目を上手く見れないまま、私は頭を下げた。
「初対面で貴方を侮るような物言いをしたことを、この場で詫びさせてください」
私の言葉がよほど意外だったのか。私の右頬と喉首の傷へと左手を添えているアッシュは、きょとんとした顔になって何度か瞬きをした。そして、すぐに眉を下げて首を振ってみせる。
「いえ、謝ってもらうようなことではありませんよ。僕が5等級であることは間違いないですし、冒険者としての実績も殆どありません」
やはり彼は己を矮小化し、存在を薄めるような言い方をする。彼がその気になれば、幾らでも実績など積み上げることが出来る筈だ。だが、彼はただ己自身に従って、その強さを利己的な手段に用いることはしなかった。
“僕にできることなら、助力は惜しみません”
このエルン村の村長に向けられた彼のあの言葉は、彼自身の生き方の真実なのだ。その頑固さに付き合うように、私も少しだけ苦笑を漏らしてしまう。
「貴方は強いだけでなく、優しく、無欲でもあるのですね」
そう評した私の言葉さえも、彼は頑なに、素直には受け取ろうとはしないだろうと思った。その通りだった。
「……どうでしょうか。自分が優しいのか、無欲なのかということは、よく分かりませんが」と、彼は曖昧に応じてから、私を見上げて微笑んでみせた。
その余りに無防備な表情は、私の心を強く打った。
「神殿守備についている方々を守るために、まっさきに飛び出して身を挺したサニアさんこそ、とても強く、優しい方だと僕は思います」
私は下唇を噛んだ。何かを言わねばならないと思ったが、唇が震えるだけだった。鼓動の高鳴りが私の喉を閊えさせている。
間違いなく、この時、この場所で受け取る言葉だからこそ、彼の言葉はこんなにも私の胸に響くのだろう。
「あぁ、……無事だったようですね」
温かな魔力で私の傷を癒しながら、彼は背後を振り返った。
少し離れたところから、ローザ達が駆けよってくるのが見えた。彼女達も全員が、無傷とはいかないまでも無事だ。そのことに改めて安堵したように、アッシュが目を細めるのが分かった。
東の空が、本当に微かにだが白んでいた。
この長い夜も明けようとしている。
もうすぐ、この時間が終わる。
終わってしまう。
私の頬に添えられた彼の手が、少しずつ離れていく。
胸が軋むほどに、それが名残惜しい。たまらない。
きっとこれからも、“剣聖”として戦い終えた私の孤独に、今日のこの時間は幾度となく思い出される予感があった。いや――、戦いのときだけでなく、私の人生に刺しこまれる光景になるだろう。
それを思うと、何故か涙が兆してくる。
苦しい。だが、手放したくない苦しみだった。
生まれて初めての経験だが、この感情の正体は何故か分かった。
自覚は避けるべきだと思ったが、誤魔化しきれそうにない。
私は、恋をした。
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いつも更新が遅くなっており、申し訳ありません……。
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