第26話 日本への出航
日本との交渉を目指すロシアとアメリカはほとんど変わらない時期に日本への交渉を行う為に航海を開始した。
(露)1852年10月7日
プチャーチンの艦艇が日本への出航を開始
(露)1852年11月
スェーデン沖で座礁し、デンマーク船に曳航されてイギリスのポーツマスに入港する。修理に数ヶ月の足止めを余儀なくされる。
(米)1852年11月24日
ペリーの艦隊が日本への出航を開始する。
(米)1852年12月11日
大西洋を横断し、アフリカ大陸の北側にあるポルトガル領マディラ島に到着。ここは中世からワインの生産が盛んで、航海する者はこの地で大量のワインを積み込む。酒の振る舞い次第が水夫らの働きに大きく影響する。
以前に比べ、樽が少なくなったと感じた航海士がペリーに尋ねる。
「提督、近頃の航海はワインの購入が少なくなりましたな」
「蒸気船のお陰で航海日数も削減された。昔は人力によるところが多かったであろう。今やその速度も軒並み上昇している」
「おっしゃる通りで、ですが水夫らの機嫌を損ねでもしたら大変でしたからな」
「それだけではなかろう」
「確かに。そのお陰でいつもより武器、弾薬を多く積めています」
「我らの生命線となる物がより多く積めるのは大切な事だ」
1850年当初の蒸気船の改良計画に携わったペリーだけにその思いはひとしおだ。
蒸気船の運用には石炭、水が不可欠で、これを大量に積み込む必要があり、実質的な物量・重量は増えている。
この時点でロシア艦艇を追い越し先に出るが、ペリーは知る由もない。プチャーチンが先に出航しているなどとは思ってもいない。
(米)1853年1月10日
マディラ島を南下した場所にあるイギリス領セントヘレナ島に到着。
自然豊かで森林が多く、きれいな川も流れるこの地で航海に必要な木材や飲料水を確保する。
16世紀には日本から織田信長がヨーロッパに派遣した天正遣欧少年使節も寄港している。
ペリー艦隊はここで航海に必要な石炭を購入したと記録されている。
(露)1853年1月18日
船の修理が完了し、寄港先のイギリス、ポーツマスを出航する。
(米)1853年1月24日
南アフリカのケープタウンに到着。オランダ東インド会社が交易船の補給基地として、この地を建設した。その後、イギリス人の入植により、補給基地から大規模な農園を作るなどにより、一大都市にまで発展する。ワインの生産はこの時より行われている。
(露)1853年1月25日
マディラ島に到着。プチャーチンはペリーが既にこの地を出航したとの知らせを受ける。
「なんたる有様だ。いつの間に出航したのか。我らが足止めされている間、奴等に先を越されてしまうとは」
船の点検が終わり次第、出航する旨を配下の者に告げる。
(露)1853年3月22日
ケープタウンに到着。ロシア艦艇は2ヶ月近く遅れをとっての入港になった。
到着まもなく、本国の商館から知らせが届く。プチャーチン宛に国王からの指令を携えた者がこちらに向かって来るという内容だ。
「先を急ぐこの時に本国からの知らせを待てというのか?」
思案にくれ、苛立ちの表情をみせるプチャーチンに航海士が提案する。
「わたくしに考えがあります。この先に我らが寄港しなければならない港が幾つかあります。こちらの寄港先を伝え、先方にはそれより少ない寄港を依頼して、指定した場所で落ち合う方策ではいかがでしょうか?」
「なるほど、それは良い考えだ。そうなるとなるべく日本に近い港が良いな」
「はい。それでしたら、日本国から近い小笠原諸島の父島で司令書を受け取りましょう。こちらがシンガポール、香港、上海に寄港する間に小笠原諸島を目指して頂ければと」
「よし。そのように商館長へ伝えておこう」
(米)1853年2月18日
マダガスカルに近いイギリス領モーリシャス島に到着。
ここも中世にオランダが補給基地として建設されたものが、19世紀はじめにイギリス領になった。
サトウキビの生産が盛んで、醸造したラム酒は交易の重要な産物になっている。当然ここに寄るのは砂糖以外にこれの目的もある。水夫を機嫌良く働かせるためには必須のアイテムになる。
(米)1853年3月10日
セイロン島に到着
交易の重要品である香辛料の産地。イギリスが入植してから、紅茶好きの国民のために茶葉の栽培をさせられる。香辛料とともに生産された紅茶で交易の利益を上げている。
航海中に取る食事を楽しませてくれる香辛料をここでしっかり補給するための重要拠点だ。
(米)1853年3月24
シンガポールに到着。セイロンと同様、イギリスの植民地。商館を置き、交易品を流通する拠点として利用されている。
(米)1853年4月7日
マカオに到着
(米)1853年5月4日
上海に到着。日本に向けての順調な航海になっている。プチャーチンが後方から先に日本に到着するよう向かっていると知ったら、滞在期間も最小限にとどめていただろう。
(米)1853年5月26日
琉球王国に到着。ペリーは首里城を訪問し、国王、皇太后へ贈りものを渡した。
5月30日から6月4日までの6日間に、地形、地質、動植物の調査が行われた。
(露)1853年6月6日
シンガポールに到着。ペリーより2ヶ月以上遅れての到着になった。
(米)1853年6月14日
小笠原諸島に到着。この時、人が住む父島に日本人はいなかった。過去に移住したアメリカ人に食物の種子を贈った。また、将来的に捕鯨船の補給基地にするため、家畜の飼料になる植物を育てるように約束が交わされた。
(露)1853年6月25日
香港に到着。本来であれば日本に到着する前、この地で乗組員を楽しませようと計画していたが、そんな猶予は無くなってしまった。乗組員らは家族や恋人などへの土産を買ったり、食事を楽しむ程度で終わらせられた。
(露)1853年7月8日
予定を切り上げて香港を出航したが、皮肉にもペリーが浦賀に到着したのは、この日となった。
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