第25話 阿部伊勢守の苦悩

 アメリカとロシアが日本に向けて出航を開始した。その知らせはオランダ商館から『別段風説書』を通じて老中阿部伊勢守正弘のもとに届いている。


 特にアメリカについては、ペリーが四艘の艦隊を率いて来航すると記されていた。


 オランダからは開国を促す親書も来ている。このまま鎖国を継続するのは困難と近頃は思い煩う日々が続いている。


 正弘は老中の中でも、若く開明的な堀田正睦まさよしには本音を打ち明ける。

「開幕以来交易は、オランダ、清国、朝鮮と決まっていりが、ロシア、イギリス、アメリカなどがこの国を伺っている。もはやこれまで通りに行くとは思えぬ。備中守殿のお考えを伺いたい」

「オランダ国が申す通り、交易国を増やし侵略の余地を与えないよう対処すべきと考えます。今の幕府では異国と争うだけの備えがありません。イギリスなどと戦果を交えれば、清国の如きになってしまうでしょう」

「儂をそう思うのだが、戦わずして異国に屈するなどと申す者を抑えることができようか?」

「それには先ず、影響力のある水戸殿が異国を排除すると考えていないか確かめる必要があると思われます」

「藤田殿が側近くにいるので、そのような考えはないと思うが、一度会って確かめてみよう」

「主戦論者側にでも取り込まれでもした大変なことになりますぞ」

 ふたりと取って腫物のような存在だ。


 正睦に言われた徳川御三家、水戸家徳川斉昭に意見を求める。斉昭は先年、正弘からの要請により幕政に加わり、海防掛を任されている。


 斉昭の江戸城本丸の控えの間に入ると、その傍らに烈公の懐刀と言われる側用人の藤田東湖も控えている。以前に尚歯会の幡崎鼎など西洋学に通じる者らを師事しており、開明的な考えを持つようになっている。

「ご老中の急なお越し、一体いかがされた」

「昨今、オランダからもたらされました諸外国の動向について、水戸殿のご意見を伺いたくまかり越しました」

「儂も徳川の幕政をつかさどる者として協力しよう」

「オランダ国王の親書ではイギリスのアジア圏進出目覚ましく、日本に手を伸ばすのは時間の問題だと。清国のようになる前に国を開き、諸外国と交易を結ぶべきと」

「伊勢守殿は幕政を変えるべきとのお考えか?」

「開幕から250年の歳月が経っております。時代とともに諸外国の技術力は向上しています。これまでの軍制ではこの国を守る事は叶いません」

「言われるまでもなく、こちらでも大砲を江戸湾に配備するなど沿岸防備の強化を行っている」

 事実、水戸藩は70門を超える大砲、砲弾を鋳造し、江戸湾沿岸に配備している。


 斉昭の言葉に加えて藤田東湖も自身に充ちた声をあげる。

「お約束した軍艦が間もなく完成します。四海に囲まれた日の本にはこれから軍艦を多く保有し、諸外国に匹敵する備えをしなければなりません。そのため今しばらくときを稼いで頂きたいものです」


 斉昭は海防掛を受けるにあたり、自藩で本格的な洋式軍艦の建造を幕府に要求した。

「旭日丸」と名付けられ、大砲も艤装した大型帆船を建造した。


 ペリーが日本を去ったのち、幕府は大型船の建造の禁止を解除した。また、長崎に海軍伝習所を開き、オランダからの蒸気船の提供を受けるなど積極的に西洋技術を取り入れるようになる。伝習所の教官には勝海舟が任命される。


余談ですが、勝海舟が所帯を持ち、生活が苦しい頃、オランダ語の辞書『ヅーフ・ハルマ』を2冊書き写して1冊を売って生活費に充てていたそうです。辞書は幕府の依頼で長崎商館長だったヘンドリック・ドゥーフが行ったものです。勝海舟が長崎で活躍するのも浅からぬ縁を感じます。



「伊勢守殿には、これまで通り交易を拒絶して頂きたい。諸外国との交易を広げるなどあってはなりませんぞ。異国人にこの地を蹂躙する足掛かりを与えてはなりませんぞ。」

「わかりました。慣例どおりに執り行います」

 そう簡単には思い通りにならず、会合を切り上げた。


 阿部正弘が去った後、東湖は斉昭に問う。

「ご老中は閣僚内の開国派に責め立てられて、殿を取り込もうとしておられるのでしょうか?」

「異国の書簡やお主が伝えてくれる知らせなどから、これまで通りの幕政では立ち行かないと考えるのはわかる。だが、将軍家に名を連ねる儂が表立ってあの者らに加担などできぬ。」

「殿もご老中も難しい立場に置かれておりますな」

「この神州を夷狄いてきに踏み躙られたく無いとする攘夷論もわからぬでも無い」

 尊王攘夷の権現であるかのように烈公などと呼ばれる斉昭であるが、開明的な人物でもある。


 尊王攘夷を唱える者にとっては斉昭がその旗頭とした方が都合いいのである。

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