第19話 処断
高野長英は崋山の潔白のために北町奉行所に出頭した。捕縛令が出てから既に5日経過していた。
取り調べは先ず、崋山と同様に無人島渡航計画の関与についての質疑が行われた。
この件については確たる証拠は無い事に加えて、内通者との面識が無いため、当人の主張が関わっていないと言う事でそれ以上の追求はされなかった。
つぎに『夢物語』の件について吟味が行われる。
「その方、『夢物語』なる物を書き記した事に間違いは無いのだな」
「はい。間違いありません。ですが、世上で騒がせている異国人が日の本を貶めるために来日するなどとは記しておりません」
「モリソンなるイギリス人が日本の漂流民を返還する船を砲撃した事を世間に吹聴するために来日するとなっているが、そうでは無いと言うのだな?」
「はい。そうです」
「わかった。ただ、聡明な異国人を必要以上に畏怖しないよう、糺したかったと言う事だな」
「お奉行様のおっしゃる通りにございます」
長英が書いた『戊戌夢物語』とは異なり、過激な表現になっている。安房守は更に続ける。
「どうやら、その方が書き記した物が写され、内容が誇張された記述が、この様な事になったのであれば、真実を明らかにしなければ、返って世上を欺く事になるとは考えなかったのか?」
「始めの内は世上に広めようと考えていましたが、かえって物事が大きくなってはと秘しておりました」
奉行は事の仔細を理解している様だ。長英を責め立てるのではなく、釈明を引き出そうとしている。聡明な人物を言われなき罪に陥れてたくないとの思いがある。
取り調べが終わり、各々に判決が言い渡される。
高野長英 永牢(現代の無期懲役)
渡辺崋山 在所蟄居閉門(国元で自宅謹慎)
無人島渡航首謀者の町人 永牢
無人島渡航首謀者の僧侶 押込(自宅謹慎)
無人島渡航の関係者 押込
長英に関しては幕政を批判する事を世上に広め、民心を困惑させた罪に加えて、捕縛を免れ逃亡した事により重い罪が科せられた。
崋山については藩籍があるため、国元で蟄居となり、その扱いは藩主が追うものとなった。
無人島渡航の関係者はそれぞれの役割に応じて罪を科せられたが、内通した者には、約束どおり何のお咎めも無かった。
渡辺崋山は三河の田原藩の自邸に護送され、蟄居した。2年も経過すると当然、一家の日々の生活は困窮する。これを憂慮したかつての門人が崋山が描いた絵を持ち出し、江戸で販売して代金を一家の生活費に充てた。書物で無い事から崋山も問題無いと考えていた。
ところが、この事が幕府で問題になっているとの噂を聞いたと門人から知らされた。藩に迷惑がかかる事を恐れた崋山は遺書を残して自刃した。(享年49歳)
遺書の内容は以下である。
『不忠不幸渡邉登』
その後、渡辺家は取り潰される事なく、その子が幕府の要職に就いている。これは藩主が如何に崋山の功績を重んじていたと考えられる。別の見方をすれば、藩は幕府との間に挟まれ、表立った援助ができなかったせめてもの償いだったのではなかろうか。
藩主が明治になって崋山を題材にした伝記を書き残している事からもその想いが伺える。
高野長英は投獄から5年が経ったある日、閉じ込められていた伝馬町の牢獄が火災となり、収容先が無いため、囚人らはそこから一時解き放たれる事になった。
但し、牢獄が再建されたおりに戻らなければ重罪を科せられる事が約束された。
だが長英は戻っては来なかった。この事から牢番を唆して放火させたとの疑いが掛けられた。牢番は既に亡き者になっていたため、真相は明らかにならなかった。
暫くは江戸郊外に潜伏していたが、顔を薬品で焼き変えて、江戸に戻って町医者を開業した。所在を転々としたが、人相書きが江戸中に張り出されていたため、奉行所の知るところになった。
南町奉行遠山景元の配下の者が居宅を取り囲み、打ち入った時には既に自刃した後であった。(享年38歳)
後年、国外退去させられたシーボルトが赦免となり再び日本に来る。長英の死を知ったシーボルトはその死を悼むとともに、国を動かす者の見識の狭さを嘆き、日本の行く末に不安を覚えたに違いない。
史実で名付けられた『蛮社の獄』は南蛮の結社を弾圧した事件のように取り沙汰された。つまり尚歯会が弾圧されたかの如く伝えられた。
だが、尚歯会自体は蘭学を学ぶべきところでも、蘭学者だけが集うところでもない。あくまで鳥居耀蔵は幕政を批判する渡辺崋山、高野長英を弾圧の対象にしただけである。彼らに関わった者の中に幡崎鼎、小関三英など蘭学を修めた仲間がいた事からそう解釈されたのであろう。
謀略としか言いようが無い、強引とも思われる告発だが、耀蔵の目論見どおりの結果となった。
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