第18話 蛮社の獄

 天保10年(1839年)5月

水野忠邦の内意を受けた北町奉行所の奉行大草安房守は直ちに、捕り方を田原藩邸に向わせた。渡辺崋山は特段抵抗する事無く、普段と変わらない様子で静かにその縛についた。

 捕り方の長はその所作に感じ入り、罪状を落ち着いて読み上げる。そして目礼をし、その体に縄を巻く。


 その様子を見ていた者が紀州藩邸の方に向かって走ってゆく。


 数日後に無人島渡航を計画していた僧侶、町人らも捕縛された。罪状は島に渡り、異国人をもてなし、彼らと交流して内情を探ろうとしているとの事である。


 取り調べは先ず彼らから行われた。当然、彼らと崋山の接点を聞き出すためだ。

 首謀者の僧侶は計画が進めば、幕府の許可を取る事を考えていたが、無断で渡航をする事は考えていない。押収した物からもその様なやり取りや、計画に必要な物資の調達までの具体的な事は何一つ決まっていないようだった。

 更に崋山と接触した経緯が無い事も明らかになった。


 一方で崋山の取り調べも行われているが、渡航計画に関わっている事を否認している。関係者とも一度も会っていないと証言している。

 告発状の細かな内容は事実と異なり過大に記載した。渡航計画に加わっていないとなると全てが瓦解する。耀蔵の表情に焦りが見える。


 耀蔵は、崋山の邸宅を差押えに当たらせ者を呼び出した。

「かの者の邸宅から押収した物の中に無人島渡航計画に関する物や捕まえた僧侶、町人との接触が確認できるような物は無かったか?」

「いえ、それらしき物は見当たりませんでした」

「他に何か変わった物は無かったか?」

「文箱の中から何やら書き記したものが見つかりましたので、押さえておきました」

 内容を見た耀蔵は、ほくそ笑んだ。

「おーっ。これはでかしたぞ。これであやつめを締め上げてやるわ」

 それはいつか藩に提出しようと考えていた『慎機論』だった。

 耀蔵はひとりごちた。

(夢物語なるものがこれで無いとすると、あれを書いたのは高野長英で間違いないな)


 翌日、耀蔵は北町奉行所の大草を訪ねる。

「鳥居殿が告発した渡辺崋山の無人島渡航の件はどうやら憶測違いであったようですぞ」

「まだ取り調べは始まったばかりです。更なる吟味をお願いしたいものです」

 取り調べに口出しされる面白くないが、告発側の思いも聞いて置く必要はある。

「何かこちらに落ち度が有るとお考えか?」

「いえ、そうではございません。立件は無人島渡航の事だけではない。崋山から押収した物の中に『慎機論』なる書き物があったと聞きました。内容は安房守殿も存じておりましょうが、世上を騒がしている『夢物語』に似た記述も多々あります」

「そなたは何が言いたい」

「この幕政を批判した書物は渡辺崋山と、尚歯会の同門で高野長英が関わっている事は間違いありません。なにとぞ彼の者も捕らえてその事について吟味願いたく伺った次第です」

「相わかった。そう言う事ならば、その高野長英を取り調べてみよう」


 後日、渡辺崋山の取り調べが行われる。

「昨今、世上を騒がしている『夢物語』なるものがあるが、その方が書いたものに間違い無いか」

「そのようなものを書いた覚えはありません」

「どうあっても違うと言うのだな」

「はい。見に覚えの無い事にございます」

 耀蔵は押収した『慎機論』を崋山の前に置く。

「これなるはその方の屋敷から差し押えたものだ。夢物語なるものは幕政を批判したものであり、書き記した者の行方を探っているところだ。内容を見ると似ているところも多々ある。そなたが書いたものでは無いと言うのだな」

(あれは長英が書き記したものを誰かが写して世に広めたに違いない)

「私が書き留めたあれなるものは、未完のものにつき、世上に誰の目にも触れさせてはおりません」

「だが、そなたの立場から完成した暁には、何れ藩庁なりに出すつもりであったのであろう」

「そのような事はありません」

「そなたは田原藩の海防掛けであった頃、渥美半島の視察でその防衛に脆弱性を唱えて藩主にその事を提議している。暗にこれまでの対策を批判するかのようにのう」

 蘭学を非難されるならまだしも、藩主に直接意見できる者が藩主を誘導していると言われてしまえば、それ以上何も言う事は無い。


                 ◇


 渡辺崋山が捕縛された事が尚歯会に伝わった。特にその場にいた小関三英、高野長英の動揺はもの凄い。

「小関さん、またもや長崎と同じ事態になってしまいました」

「我らも近いうちに取り調べを受ける事になろう。こちらに迷惑がかからぬよう、直ちにここを離れた方が良いと思う」

「そのように致しましょう。不要なものがあれば持ち帰りましょう」

 ふたりは身支度を整えるとすぐさま会を後にした。


 自邸に戻った三英は深いため息をつく。今自身が行っている事は、崋山とともにキリスト教の教典の翻訳を行っている。表書きは禁止されているが、昔のように厳しい処分をうける事は無い。『耶蘇やそ伝』と銘打ち、いずれは世に出したいと考えていた。それだけだは無い。

 ナポレオンの功績が書かれた書物の翻訳もし、その人となりを評価している。幕府の高官にとっては、面白くは無いだろう。目をつけられているのは何となく感じていた。

(崋山にも力になってもらったが、キリスト教の良さを伝えるための私感が多く入っている。その事が罪に問われるであろうな)

 

 長崎にいた頃であれば、ただ逃げ出すだけで良かった。だが今は岸和田藩との関わりがあるので藩に迷惑がかかると思えばそうは行かない。

(我が進退、ここに極まれり。藩主にご迷惑はかけられん)


 翌日、三英が自室から姿を見せない事に訝しんだ家の者が部屋の扉を開ける。そこには自刃して果てた三英の姿があった。既に絶命していた。


 鳥居耀蔵の告発には小関三英の名は無い。ただ崋山らとともに蘭学を通して関わりがあった者として名が書き記されていた程度で罪に問うてはいなかった。

 崋山、長英よりも年長である事から何れ一連の首謀者として捕縛されるものと考えての自決であったのであろう。


 その一方で捕り方が長英宅を取り囲み、捕縛の命を発するが、既に長英の姿はそこには無かった。


 長英は逃亡中に巷の者の話から、崋山が『夢物語』なる物を世間に広めて、幕政を非難した嫌疑で捕まった事がわかった。

(なんと言う事をしてしまったのか。己が知人に貸し出したばかりに、それがこんな形で世上に広まってしまうとは)


 長英は累が崋山に及んでしまった事に驚き、逃げる事を諦め、一刻も早く奉行所に出頭する事に決めた。だが捕り方が居宅を訪れてから、数日が経過していた。


 この年も暮れようとしている師走、イギリスと清国との間にアヘンの取引を巡って衝突が起きている。

 紅茶をこよなく愛するイギリス人は茶葉の輸入を清国に頼っている。茶葉以外にも陶磁器や綿なども輸入品にあたる。


 イギリスの輸出品は時計、宝石などの上流層への嗜好品が多く。輸出額が少ないため、輸入超過が起きるようになる。当時の代価は銀であった為、当然銀の高騰が発生する。


 イギリス政府は銀の国外流出を制限するとともに、貿易均衡を量るためにアヘンの密貿易を行う。この事で次第に国内にアヘンが蔓延し、銀の流出が逆転してしまうという事態が起きる。


 これに対し清国側もイギリス人貿易商へのアヘン不買の約定を取るが、それに応じ無い者への取引停止、アヘンの没収を行うなどの措置を取る。これよって各地で衝突が起こっている。

 一触即発の様子を対し乍ら、この年が過ぎてゆく。

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