第17話 蘭学者への圧力

 南町奉行所に何者かが無人島(小笠原諸島)に渡航する計画があると言う情報をもたらした。奉行所の調べでは、僧侶を中心とした町人ら10数人がこの話に関与しているとの事だ。


 彼らは経済学者の本多利明が記した『西域せいいき物語』などに、たいそう興味を持っている。そこには西洋諸国の国勢、文化、交通、交易などが紹介されている。中には商人もおり、西洋諸国からの富を得たいと考えるのは当然だ。


 夜な夜な集まっては手に入れた書籍、地図や漂流者の手記などを持ち寄り、夢を語り合っていた。

 特に漂流記などは、人の生死が関わる事で一般の者が体験できるものでは無いために大変に興味深い。


 幕府は異国人との接触を禁止している事から今、小笠原にいるイギリス人と交流するには島に渡航するしかないと言う思いが膨らむ。藩から承諾を得られなかった崋山にしても同じ思いだ。


 首謀者の僧侶と町人は準備が整えば、幕府に渡航許可を得ようとまで考えていたようだが、大半のものは「夢物語」だとして楽しんでいた。


 一方で、高野長英は自身書いた『戊戌夢物語』を友人に見せた。内容に感化された友人は写本をつくり、これを世上に広めた。崋山の方は機会をみて藩に提出するつもりだが、今は自室の文箱にしまったままでいる。


 友人が写したその『夢物語』なるものが世間に知れ渡り、やがて水野忠邦の知るところとなった。イギリス人のモリソンが来航するのだとか、幕府の政策を批判するような記述がされていることから、これを見過ごす事は出来ない。

 忠邦は南町奉行の鳥居耀蔵にその実態を調査させ、場合によっては捕縛するよう命を下す。

(なんとしても江戸湾視察の汚名を晴らさねば)


 渡航計画をする者たちの中にひとり幕臣がいる事に目をつけた耀蔵は密かに呼び出し、締めあげる。

「近頃、そなた達が無人島に渡る計画を立てていると聞いた。ご禁制を破る行為であれば取り締まらねばならぬ」

「幕府の許可なく渡航など考えに及ばない事にございます。ただただ夢を語り合っているだけにございます」

「お主はそうかもしれんが、皆がそうとも限らんではないか。事が露見すれば重い罪は免れんぞ。一族まで累が及ぶ事になるぞ」

「で、では私は如何すれば良いのでしょうか?」

「次の集まりが決まったら、日時と場所を私に報告してくれれば良い。お主を悪いようにはしない」

「そう言う事であれば、わかりました」

 男は奉行所の内通者となった。


 耀蔵は配下の者に内通者と連携を取り、情報収集させる事に加え、さらに尚歯会および、蘭学者たちの動向を監視させるなどの指図を出す。


 数日経って、配下の者から『夢物語』に書かれた内容についての報告があった。報告によるとイギリス人モリソンなる人物評に加えて異国を称賛し、来日に対して異国船を打ち払う事を非難して人道の劣らない対応をすべきであると記されている。注視すべきはこれを書いたと思われる3人の名が挙げられている。

 僧侶のなにがし、町医者の某と記され、3番めに三宅土佐守家来 渡辺登の記述があった。

「渡辺登とはあの尚歯会の渡辺崋山の事ではないか?」

「はい。間違いございません」

「情報のでどころは確かであろうな」

「今のところは3人の中の何れかでは無いかと調べている最中にございます」

「わかった。その3人の動向をさらに追え、それと無人島渡航を計画している者らからも目を離すな」

 配下の者を下がらせた後、耀蔵は心が踊らされる。

(幕政に口出しするなら、断固こちらで阻止してやる。だがもっと捕縛できるだけの口実か欲しい)


 暫く経ち、配下の者が耀蔵に情報をもたらす。内容を見るや、目に輝きが映る。

「こ、これは真の事か?」

「はい。例の寝返り者の情報なれば、まず間違い無いかと」

 そこには渡航計画をしている首謀者の僧侶と渡辺崋山に繋がりがある事が記述されている。また、田原藩から渡航にかかる船頭を斡旋するなど、具体的な関わりまで記されている。

 更に今ひとりの者が付け加える。

「渡辺登なる者は田原藩の家老職で、先の小笠原諸島への調査団に加わりたいと藩に申し出をしたそうですが、許可が得られなかったとの事にございます」

「わかった。最早疑いようが無いな」

 崋山はその僧侶との認識も無ければ、渡航計画に加わっても居ない。内通者は話の中で出た「夢物語」という言葉を、近頃巷で聞いた『夢物語』の事だと勘違いした。

(よし、これで無断渡航の嫌疑で告発できる)


 すぐさま耀蔵は無断渡航計画の罪状により関係者を捕縛するための告発状を書き、水野忠邦に提出した。渡辺崋山もその中の一員として名を挙げられている。

 告発内容は以下が挙げられている。

・蘭学を好み、高野長英、幡崎鼎らとともに徒党を組み、異国を称賛してこの国のご政道を批判している。

・浦賀沖にて諸藩からあつまる廻船の往来の邪魔をして、江戸を困窮に陥れている。

・無人島に異国人がいることを知り、渡航してそれらの者に接するために藩主に願い出ている。

・無人島渡航を計画し、そのために必要な船頭、資材を調達している。

・公儀が派遣する無人島調査団に同行し、その後、漂流の体をなして呂宋るそん、アメリカに亡命する事を計画している。


 高野長英についても告発状が出されている。内容は以下の通り。

・蘭学を好み、蘭書を翻訳して異国を賞賛し、この国の政道を非難した。

・『夢物語』なるものを世上に広める事により、民心を惑わしている。


 特に崋山に対しては殆どがねつ造されたものになっている。『夢物語』の事より、無人島渡航の首謀者のようにされている。これは明らかに捕縛するために耀蔵らが仕組んだものだ。


 その他に江川太郎左衛門、羽倉外記などの代官職の者についても告発している。この際に尚歯会で蘭学者に関わった者たちまで排除する目論みが伺える。


 江川太郎左衛門などについては、尚歯会の蘭学に精通している幡崎鼎を師事し、互いの家を行き来して異国に傾倒している事を告発している。


 幕臣の彼等についてはその後、ただちに赦免されている事から忠邦の何らかの力が働いたものと考えられる。それ以外の者については事の真偽を確かめようとはしていない。


 耀蔵の告発に異を唱えなかったのは、蘭学者の弾圧に肯定的であった事が伺える。表向きは耀蔵を信頼しているように振る舞っている。

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