第16話 幕政への批判
記録方の者が尚歯会に来た折、崋山や長英が居たので、両者の意見が聴きたくなり、うっかり評定の事を話してしまう。
「先生方に聞いて頂きたい事があります」
「それは如何なる事にございますかな」
「はい。ご存知かも知れませんが、昨年異国船が浦賀に来航しましたが、こちらの砲撃で退去して、鹿児島へ寄港しようとしましたが、やはりそこでも砲撃を受けて国外へ退去した事にございます」
「その事は知人を通じて聞いています。珍しくアメリカ船が国内に近づいて来て、決まり通り砲撃したとか」
長英は長崎時代の知人からその事を知らされていた。
「その事で先方のアメリカから抗議の書簡がオランダ商館より幕府に届けられ、評定が開かれました」
「アメリカからの抗議とは尋常ならざる事態が起こったと言う事ですな」
「そうです。先ず攻撃側は過去の経緯からまた、イギリス船の無断上陸かと思い追い払ったようです。非武装の商船を砲撃した事、来航の目的が日本人漂流民の返還である事を臨検した役人に話したそうですが、その後騙し打ちのように砲撃をした事に対しての抗議のようです。幕閣の皆様もイギリス船の認識のようで、自衛のための砲撃やむを得なしと言う意見でした」
長英は驚きを隠せない。
「国を代表する者らがその程度の認識とは怒りすら覚える」
「事前に来航の通達があれば良かったのだろうが、先方の要件を聞いておきながら全く相手を信用しないと言うのは如何なものかと思う。それで幕閣から対応はどのようなものであった?」
「はい。モリソン号が近いうちに、再度来航するとの事ですので、その時の対応として漂流民はオランダ船にて帰国させる事としていますが、返還の条件が交易であるなら、返還自体無用と決まってございます」
今度は崋山の方が声を荒げる。
「謝罪も無いばかりか、オランダ船で帰国させるなどとアメリカ人を愚弄させるばかりではないか」
「幕閣の者らは異国の認識が甘すぎる。本気になって攻められでもしたら、勝てるとでも思っているのか」
「私も幕閣の方々の姿勢に不安なものを感じます。私自身はこれ以上の衝突を避けるためにも欧米諸国との交易を認めるべきではないかと。この事はどうか内密にお願いします」
崋山と長英はふたりになってから、各々の思いを言い交わす。
「前々から思っていたのだが、広く異国との交易をせず、国を閉ざしているからこのような事になる。一刻も早く国を開かねば、いつか他国に攻められるぞ」
「私もそう思います。幕府は西洋の技術を侮っています。他国の侵略を阻むのであれば同じだけの力を持たねばならないと存じます。また、隣国の清国などはイギリスとの間に何やら不穏な事態になっているようです。イギリスはあの清国を植民地にしようとしているのでしょうか?」
「いずれは戦になるかもしれんな。日の本もこのままだは行きますまい。海防にしてもそうだ。沿岸警備に台場を築き、砲台の設置などで国が守れるものではない。やはり、異国と同様な機動力のある軍船を持たねばならぬ」
「それだけだはありませんぞ。イギリスなどは小笠原諸島の無人島を占拠して捕鯨などの拠点にしているとか。侵略の起点にでもなっては一大事です」
ふたりは幕府の無知と時代遅れの考えを何とかしたい思いで、それぞれの考えを文面に書き置く事とした。
渡辺崋山は、これを機に慎んでこの国の取るべき道を論ずるべきとして、『慎機論』と題したものを書き記した。
その概要は以下である。
・自身の名こそ示していないが、三河田原藩の者であることを明かしている。その上で異国からの渥美半島の防備にあたっているとしている。
・モリソンが長く中国に留学していたので、人となりは英邁。
・シーボルトが江戸参府の際に同行したビュルゲルなる者からロシアが再び交易のために日本に来航しようとしているとこを聞いている。過去にロシアへの処置が適切で無かったことで、今、再び同じことが起きようとしている。異国船を打ち払うなどは直ちに廃止すべきだ。
・アジア諸国で西洋の植民地になっていないのは、ペルシャ、清国と日本だけだが、西洋の諸国と交易していないのは日本だけであり、途上国との
・西洋の技術は一段と発達しており、アメリカと言う新興国家は今や、ヨーロッパ凌ぐほどに強大な国になっている。彼らから報復を受けるような事があれば甚大な被害に見舞われるだろう。沿岸部の警備状況もままならない実情から単に諸藩に対し、打ち払うことを強要するなど、幕政を預かる者の認識が欠けていると言わざるを得ない。
幕政を批判するとともに官僚についても痛烈に非難する内容になっている。
高野長英はモリソン号を擬人化して提督として見立て、一連の出来事を、夢の中でふたりの人間が討論するかの内容の『戊戌夢物語』と題したものを書き記した。
その概要は以下である。
イギリス人モリソンが日本人漂流民の返還を餌に交易を目論んでいる。
ひとりの男が今ひとりの男(長英と考えられる)に問いかける。
『イギリスとは如何なる国でしょうか?』
『日本と同じ小さな国だが、軍備など国力が高く、世界中に植民地を持っている。目下のところ清国との交易が盛んで、いずれはその支配下にしようとしている』
『モリソンとは如何なる人物なのでしょうか?』
『海軍の提督で、日の本で言うと5万石程度の大名で強力な艦隊を率いているとか』
『では清国を支配下に治めたら、次は日の本と言う事でしょうか?』
『だが、日の本は異国船が近づけば、大砲にて之を打ち払うようになっているが、世界中でそのような国など聞いたことが無い』
『この度、そのような事が起これば、どのような事になるのでしょうか?』
『西洋の者は何よりも人命を重んじる民族だ。敵陣に自国の民が居たら、攻撃しないであろう。到来する自国民を乗せた異国船を攻撃するような事があれば、この国は不仁・非礼の民族として、その後如何なる事になるかを考えにも及ばない』
さらに長英は過去、ロシアのレザノフの一件をあげ、イギリス船を攻撃しようものなら、必ずや報復されてその被害も更に大きいものになると警告を発する内容に纏めている。
◇
一方で水野忠邦は海防の見直しの観点から正使を鳥居耀蔵、副使を江川太郎左衛門としたふたりに江戸湾の視察を兼ねて、改善の要望書を作成するよう命じる。
耀蔵は当初、江戸から相模辺りまでが計画されていたものを対岸の安房・上総までを独断で検分した。
太郎左衛門はこれに従ったものの単独で伊豆大島、浦賀奉行所の備えなどを検分した。
また出立前に、渡辺崋山が過去藩の海防掛で三河の渥美半島を視察して、上申書を作成した経緯を知り、意見を求めた。さらには測量経験者の推薦を依頼し、それらを同行させている。
太郎左衛門は崋山の上申書を参考に、江戸湾の防衛構想を海防図とともに解説と自身の思案を載せたものを作成。また防備の観点から自身が管轄している伊豆韮山の地に反射炉を作り、大砲の鋳造を行うなど、西洋の技術を取り入れた具体的な所まで踏み込んだ内容になっていた。
だが耀蔵には異人の入国の取り締まりの強化など、人に関する事が中心となり、太郎左衛門ほど明解なものは書けなかった。この事で耀蔵は皆の前で忠邦から叱責を受けた。
(儂が危惧していたとおりだ。太郎左はあの尚歯会の者らから知恵を拝借したのだろう。これ以上、幕政に口出しするようなら、この地から排除する)
忠邦はこの先、幕府の柱石を担う者への叱咤激励のつもりであったが耀蔵は蘭学を学ぶ者を敵視するように変わる。
同じ頃、イギリス人が小笠原諸島に上陸し、捕鯨船の拠点を作り、必要な物資を調達、販売する店なども出来ているなどの情報が幕府にもたらされた。
幕府からは調査団を派遣する事になる。崋山も自藩にその一員になりたいと要望するが認められなかった。
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