第13話 嵐の前
天保9年(1836年)
父の死により、江川太郎左衛門はすでに韮山代官に任命されている。一方、鳥居耀蔵は南町奉行を務めており、太郎左衛門とは子供の頃からの学友であり、今でもその思いは変わらない。
昨年来、川路や江川が尚歯会なるものに頻繁に行き来しているようだ。友人が得体の知れぬ集まりで感化されてはと心配になっている。老中からも頼りにされる林述斎を父に持ち、自身も儒学者と自負する者にとっては蘭学気取りのあちら側に取り込まれてはと気が気でない。
先日太郎左衛門が江戸にいると聞いて話を聞きたく屋敷を訪ねた。
「代官の就任目出たく存ずる。太郎左にひとつ伺いたく参った」
「耀蔵ではないか、久しいのぉ。気難しい顔をして何事か。ここでは何だから先ずは上がれ」
「かたじけない。酒食は無用にごさるよ。早速だがお主の関わっている尚歯会と言うところは、蘭学を学んだものが多いと聞いている。必要以上にあの者らの意見に耳を貸し過ぎないように忠告に来た」
「なんだ、その事か。確かに蘭学を修めているものも多いが、そうで無いものも沢山いる」
「そう言う事では無く、学問を学問として知識を高めるのは良いが、あの者らがお主たちを使って幕政に口に出すようになっては困る。いや、何れそうなるだろう」
「そのような事は無い。彼らも彼らなりに学んだ学問で生活に苦しんでいる民衆の役に立ちたいと知恵を出し合っている。生育が早い作物を植えるよう指導を行う事や、医術の心得のあるものは民間の診療をしている」
「それは行政でも行っている。あまり近付きすぎると何れそうなると心配しているのだ」
「お主の家が家だけに西洋学を毛嫌いする気持ちは分かるが今はそうとも言っていられまい。韮山は海に近い、近頃異国の船がこの日の本に交易を求めて来ているであろう。海防を考えると、沿岸部に砲台を置くだけではためだ。彼らの考えや、技術を知らねばとても太刀打ちできまい。孫子の兵法にもあるように『彼を知り、己を知れば百戦危うからず』と」
ふたり共、国を守るために働いているが考える事の視野は異なる。耀蔵は身近にいる悪人を取り締まる事を考え、太郎左衛門は地域の事だけでなく、異国からの脅威に対する防衛にまでその考えが及んでいる。
「お主の考えは良くわかった。但し、幕政に批判するような行為があれば儂は断固として奴等を許さん」
譜代の家臣である鳥居家の者となった耀蔵にとって、幕府のために不利益な者は断固として排除したいのだ。太郎左衛門の方がまだ開明的であると言える。
数年前、崋山は海防掛を兼任させられ、一時三河に戻される。自身が考える海防策を実現するため、財政確保に必要な俸禄の見直しや不要な普請の削減に取り組む。幕府からも一定の評価は貰えたものだが、渥美半島にある己が小藩の力だけではこの国の沿岸を警護するなど不可能である。
(海防などと称して、台場、砲台など幾ら築けば良いものか、馬鹿げている。江川などは自前で大砲などを作りたいと言っているが、それより異国との交易を深め、西洋の高い技術を取り入れて、より機動力のある艦艇を作る方が先決だ)
長英からもたらされた話などを聞いて、いつしか海防などと言う事から幕府の鎖国政策そのものに対して批判的になっている。
この頃になると水戸藩から藩主徳川斉昭の腹心とも言われる藤田東湖も尚歯会の門を叩き、長英と中心になって救民のための施策に取り組んでいる。
耀蔵にとっては御三家ではあるが水戸藩に対しても良い印象を持っていない。水戸学などと藩独自の教育があり、藩士達はそれが日の本一だと自負しているので鼻息の荒い者が多い。
(水戸ものは苦手だ。あの藤田なども偉そうな事を吐かしているのだろうよ。蘭学者どもを上手く抑えてくれるといいのだが———)
どうやら、旗本以外を毛嫌う性格のようだ。それではまともな討論などできよう筈もない。
それぞれが国を思い、良い方向に向かうよう努めているのだが出自や思想の違いなどから相容れないものも出て来てしまう。そんな平穏な年が過ぎていく。
翌天保8年(1837年)
救民を目的とした一揆や打ち壊しが各地で起こる。
3月
摂津大坂で元大坂奉行の寄騎大塩平八郎が奉行所、豪商の屋敷を襲撃する事件が発生した。
大塩平八郎は決起にあたり、以下の檄文を発している。
『四海困窮致し候わば、天禄長く絶たん。
小人に国家を治めしめれば、災害並び至る』
奉行所に提出した救済案が棄却されただけならまだしも、世情を顧みずに彼らが行っている幕府との癒着行為に対しての決起となった。その日のうちに反乱は鎮圧されたが、その余波は各地に広がる。
6月
越後の柏崎で国学者の
代官、豪商が結託して米の買い占めを行った事で米の相場が高騰した。万らは襲撃した蔵から物資を奪い、これを救民に分配した。
更に7月には、大塩の乱と同じ摂津国の能勢で百姓一揆が起こる。千人以上が蜂起して京を目指すが、幕府の軍にあっけなく鎮圧されてしまう。
反乱の首謀者らは追い詰められ自刃するという凄惨な事件が各地域で起きている。
国内が反乱や一揆で幕府がその対応に追われる中、とある出来事が発生する。人の生き死に関わる事件では無いので、国内ではさほど知れ渡る事が無かった。
だが年が明けた天保9年に、とあるところからもたらされた情報が元となり、その出来事を問題視するものが現れる。その後尚歯会が巻き込まれる事になる一大騒動へと発展してゆく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます