第11話 盟友の再会と尚歯会

 物語の重要人物である渡辺崋山わたなべかざん高野長英たかのちょうえいについて少し触れておきたい。


 崋山は雅号で、いみなのぼる。三河の国一万余石の小藩、田原藩の江戸藩邸(現在の三宅坂付近。坂は藩主の三宅氏から名付けられた)がある長屋で生まれる。渡辺家は代々、江戸詰の藩士の家柄になる。貧しさの中で育ち、絵画が得意で、それを売る事で家計の足しにしていた程だ。


 西洋画を研究する事で蘭学に興味を持つようになる。文化12年(1815年)23歳のときに蘭方医の吉田長淑よしだちょうしゅくが起こした塾、蘭馨堂らんけいどうに入門する。ここで近隣の山野から採取し植物から薬草の研究をしていた。


 6年後の文政4年(1821年)に17歳の高野長英が塾に入門して来る。ともにオランダ医学を修める。

 互いに交友を深める仲となるが、入門から3年後に師の長淑が亡くなる。長英は西洋医術を学びたいとシーボルトの来日を機に塾を出て長崎に向かう。


 崋山も蘭学に興味はあるが藩士である以上、江戸を離れる事は出来ない。

32になった崋山は独自に西洋研究を行い、オランダ商館長が江戸参府する際に随行した蘭学者との会談の席にも同席を許されるまでになる。

 藩主の死後による継嗣問題、財政立て直しなどの藩政改革に尽力する。


 天保元年(1830年)

ひとりの身汚い男が崋山のもとを訪れる。

「の、崋山先生、ご無沙汰しております」

「こ、これは長英ではないか。長崎の事件以来どうしていたかと、案じておったぞ。まぁ、中に入れ。誰か盥と水を持て」


 身支度を整えた長英は崋山の部屋に通された。酒肴の用意が出来ると盃を重ねて空かさず、これまでの経緯を尋ねる。

「先ずは無事で何よりだった。長崎ではさぞ難儀な思いをしたのだろう」

「いえ、滅相もございません。師のシーボルト殿が祖国に帰国する際、国禁の日本地図を持ち出そうとした事で奉行所に連行され、大事になってしまいました」

「こちらでも、地図を譲った御書物奉行の高橋殿が捕縛された。長きに亘り取り調べが行われたが、結局地図の行方がわからぬまま、高橋殿は獄死してしまわれた」

「こちらではその様な事があったのですね」

「その方はその後、如何したのだ」

「遠からず塾は閉門になると思い、私もシーボルト先生の研究をお手伝いしておりましたので、捕らえられて不用意な事を話して、先生に迷惑かけてはと、早々に塾を退散した次第です」

 本音は学問のために、今は捕まりたく無いと言う思いの方が強かったのだ。

「その足で熊本から塾に来ていた弟子のもとに半年ほど滞在させてもらい、その後、托鉢僧に扮し、物乞いやらしながら、漸く江戸に戻って来ました。ご迷惑になると思いましたが、江戸で頼れる崋山先生のもとに来てしまいました」

「それは一向に構わないが、この先どうするつもりなのか?」

「長崎で学んだ医学を生かし、小さくでも良いので診療所などを開きたいと考えております」

「それは良いな。近くで良い所が無いか当たって見よう」

「私も探してみますが、心当たりがありましたら紹介願います」


 崋山はふと、ともに蘭馨塾で学んだ小関三英の事を思い出した。

「そう言えば、小関さんも鳴滝塾の門下生であったのであろう。その後如何されたか

存じておるのか?」

「小関さんは私が一番シーボルト先生に師事している事を危惧して、いち早く長崎を出るように気配ってくれました。その後の事は分かっておりませんが、いずれまた江戸で落ち合って共に蘭学を学ぼうと言って下さいました」

「そうであったか。あのお方の事だから大事は無いと思うが ———」


 長英は崋山の住まいからさほど離れていない麹町で小さな診療所を開いた。また二人の親交が始まった。

 とある日、長英は崋山宅を訪れ、酒を過ごし乍ら愚痴めいた事を語る。

「国禁の地図を持ち出そうとしたシーボルト先生も確か良く無いが、この国がオランダ、清国以外と交易しない事にそもそも問題があるとは思いませんか?」

 あの事件をそば近くで接した者にとってはそう考えるのは無理もない。

「蘭学を学ぶ我らにとっては広く、沢山の国々との交流から知識や技術を習得できると言うものだな。だが幕府は交易を広げる事でこの国が異国の侵略を受けるのを恐れている」

「オランダや清国に交易を認めたのは彼らが耶蘇やそ(キリスト教)を信仰しないからでしょうが、侵略のために宣教師を送り込むなどと200年も前の話ですよ。鎖国政策など過去の遺物でしかありません」

 酒量が増すとともに長英は饒舌になってゆく。

「確かにそうだな。これからは武力も含め、国力を上げなければ西洋の大国から侮られてしまうであろうな」

「ただ異国船を打ち払うだけでは何の解決にもならないと存じます」

「聞けばオランダ、清国の船に誤って砲撃してもお咎めなしと言う事らしい。不敬の極みと言わざるを得ないな」

 長英の体験から崋山が受けた影響は少なくない。幕府に対する不信感を強めた。二人が危惧していた事が数年後、現実のものとなる。


 崋山は田原藩の年寄席を得て、海防掛を兼任する。外国事情書から異国人の無人島への不当な占拠、国内の海防の脆弱性に対しても危機感を持つようになってゆく。

(長英の言うとおり、幕閣の思考は200年前で止まっているのかもしれない。このままでは欧米に蹂躙されてしまうのではなかろうか)


 天保4年(1833年)

天候不順による水害、冷害が起因して、日本中に大飢饉が発生する。


 各藩で救済のための小屋を設置して食糧配布を行うが、各地で打ち壊しや百姓一揆が

多発している。大坂では日に100人もの人が飢餓で亡くなったとも言われ、この年だけでも全国で20万余の人々が飢餓死したとも伝えられている。


 崋山は昨年からの改革として、師であった佐藤信淵の思想をもとにした『凶荒心得書きょうこうこころえしょ』を著して藩主に提出。恐慌時は生育の早い食物を栽培する事や、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済を最優先すべきと説き、給与改革や救済用の備蓄倉庫の整備を実行して成果をあげた。このため、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる。


 過去の飢饉の教訓から食糧を備蓄する義倉や、武家屋敷などにも食糧になる果実の樹木の植栽、敷地内に菜園を作るよう奨励した藩などは被害を抑える事ができた。


 暫く経ったある日、興奮気味な顔をした長英が崋山のもとに立ち寄る。

「崋山先生、この近くにある紀州藩邸から程ないところで藩の儒学者で遠藤勝助と言うものが尚歯会しょうしかいなるものを立ち上げると、診察に来ていた者が申しておりました」

「それは一体如何なるものなのか?尚とは、貴いと言う意味がある。一見すると歯を大切にする人の集いと言う事になるな」

「私も仔細は存じておりません。一度出向いてみましょう」

「何やら訳がありそうな会のような気もするが———」


『過ぎたるは猶(尚と同意)及ばざるが如し』という論語の言葉がある。

物事をし過ぎるという事よりは、それをし過ぎないという事の方が貴いとしている。

日本の『腹八分目』が近い言葉に相当する。


 崋山、長英は尚歯会なるものを主催する遠藤勝助を訪ねる。

「態々のご足労かたじけなく存じます。紀州藩藩士の遠藤勝助と申します」

「私は三河田原藩家老渡辺崋山、これなるは、今は亡き吉田長淑先生が開かれた蘭馨堂の同門の高野長英と言います。只今は麹町で開業医をしております」

「長崎で蘭方医を学んで、高い医術を身につけられたとか、ご高名は聞き及んでおります」

 長英は気恥ずかしさと誇らしげな不思議な表情をしている。

「早速ですが、貴殿が尚歯会なるものを主催すると聞き、どのような集まりなのか伺いたく存ずる」

「尚歯会は古くは平安時代から存在していたようです。隠居した各界の有識者が集まり、有意な話などをする会であったとか。時には若い者を指南する事もあったと聞いております。その方々の歯が丈夫だった事から会の名称になっているそうです。今、世の中が大変な状況にある中、知識を持った方々にお集まり頂き、人々の役に立つ事ができればと会を立ち上げたいと思った次第です」

「我らは蘭学を大いに傾倒している者になります。こちら様の思想とは相入れないのではありませんか?」

「そのような考えはありません。西洋の学問の中にも私どもの知らない素晴らしいものがあると思います。寧ろ歓迎致します」

「我らとて学んだものが世の役に立てたいと常日頃考えております。わかりました。我らも会の一員にお加え下さい」


 こうして渡辺崋山、高野長英は尚歯会の仲間となった。

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