第10話 シーボルト事件

 文政11年(1828年)10月

シーボルトはこの年、祖国ドイツに一度帰国する事にしていた。一昨年来、門人らが調べた各地の調査資料や、交友のある者から頂いた日本の品々や自身が収集した珍しい植物の標本などを持ち帰りたいと考えていた。まとめてみると、なんと荷車一台分くらいになった。


 商館長にその事を話すと、常日頃からの感謝の意を込めて心良く認めてくれた。


 出航の当日、乗船する蒸気船が停泊している桟橋に長崎奉行所の役人が荷改めをしている。ここを通らなければ乗船する事は出来ないようだ。役人の“良し“の声とともに乗客は船に乗り込んでゆく。


 シーボルトの順番になり、ひととおり荷を確認したあと、ひとつの大きめな漆塗りの箱に目を留めた。箱には葵の紋が入っていたためだ。

「その箱には何が入っているのか、中を見せてくれ」

「はい。着物や布などが入っております」

 訝しげに思った役人が箱を開け、上にある着物などをどがすと何やら筒状の物が現れた。中を取り出すと油紙に包まれた濡らしたく無い物に見える。縛りを解いて広げてみると、なんと日本地図が現れた。もちろん日本地図の異国持ち出しが禁じられている事は役人も周知している。

「こ、これは一体何なのだ」

「江戸に参府した時に頂いた絵にございます」

 シーボルトはあくまでも絵画だと主張している。だがご禁制の物の流出を防ぐ者にとってはそのような言い逃れは通用しない。

「これはご禁制の地図と見受ける。その方の渡航は認められぬ。奉行所まで同行頂く」

 シーボルトは役人に連行されるが、その佇まいは堂々としている。


 この話が江戸に伝わるや御書物奉行の高橋景保が召し出され、地図の異国流出の件で取り調べを受ける。景保がシーボルトに日本地図『大日本沿海輿地全図だいにほんえんかいよちぜんず』の縮図を譲渡した事が表沙汰になった。


 国禁の地図流出に加担して咎により、即座に投獄される事となった。地図の受渡しに加わった者ら数人にも罪が及んだ。


 景保の取り調べが行われ、シーボルトに渡した地図の行方を問われた。譲渡した事は認めたものの、その行方までは知る由もないとの供述しか得られない。


 高橋景保は投獄から数ヶ月が経った翌年、文政12年2月に獄死した。縮図の行方が分からない事から取り調べも長期に亘って行われた。死後、国禁を犯した事で死罪の判決が言い渡され、その遺体を引き出して斬首が行われたと記録されている。


 幕府から長崎奉行所に、シーボルトの住まいを捜査して縮図を押収するよう命じられる。動植物の標本、着物や陶器など様々な品が押収されるが、問題の地図はその中に見出す事は出来なかった。


 シーボルトは家財の没収の上、国外退去が決定した。

その数年後、オランダで日本人が作製した精巧な地図が発表された。シーボルトは地図の流出が国禁と知りながら、あの縮図を持ち出したと思われる。港の検視を欺く為に、態と目に付く箱に別の物を忍ばせて、縮図は別のものに託したのであろうか。後世シーボルトがスパイと言われる所以である。


 事件の情報をいち早く察知した高野長英は自身の危険を察知し、他の門人達に告げる。

「我らは先生の日本の研究に加担した事で近いうちに奉行所から取り調べを受ける事になる」

「自分たちは罪に問われるような事はしていません」

「幕府は先生が持ち出そうとした日本地図が見つからず、必死で行方を探していると聞いている」

「ここに居ては有らぬ罪に問われる可能性があると言う事ですね」

 江戸の吉田長淑の蘭馨堂らんけいどうでともに学び、この後尚歯会の立ち上げに加わる渡辺崋山わたなべかざんなどはシーボルトを内偵者だと言っている。

「無いとは言い切れません。今はここを離れる事が懸命でしょう」

 年長者の小関三英は医学より、西洋の歴史に大変興味があり、ここで見識を深めたいと思ってこの地に来た。それが出来ないのであれば、ここに用は無い。長英ほど、シーボルトに心酔はしていない。こちらも蘭溪堂で学んだ仲間だ。

「ここも遠からず閉鎖となろう。急に人が減っては怪しまれかもしれんな。では一同、いずれまたどこかで」


 三英は長英のもとに近づくと、耳元だ囁きかける。

「そなたは一番師に近い存在だ。いち早くここを立ち去った方が良い。暫くは身を隠し、何れ江戸に戻りまた、蘭学を学ぼうではないか。儂も様子を見てこの地を立ち去るつもりだ」

「わかりました。どうかご無事で」


 鳴滝村を後にした長英は福岡に向かわず、逃亡するかのように真逆の熊本に向かい、身を寄せた。

(先生には非はない。この国が世界との交易が無い事に問題がある。鎖国などと古い考えを改める時期が来ている)

 この事件が高野長英に与えた影響は少なくない。その思いは、この先の異国船の到来で彼の運命を翻弄してゆく。


 シーボルトが国外退去した文政11年(1829年)12月20日

英国籍と思しき艦艇が四国、阿波の国の日和佐ひわさ沖に現れた。暫くの間停泊しているのが不気味で、内陸の者は瀬戸内海に入って来るのではないかと固唾を飲んで見ていた。


 その後、土佐方面に移動し、牟岐むぎ沖で停止した。徳島藩士や多くの農民、漁民が沿岸を警備に駆り出された。こちらに何か要求するでも無く、またしても長い間停泊している事から明らかに沿岸を測量しているに違いなさそうだ。


 警備組から藩の上層部にこの事が伝えられると、直ちに打ち払いを行うよう命令が出た。


 23日、徳島藩は幕府の異国船打払令に従って発砲したところ、船は出港し、行方不明になった。主だった損害を与える事は出来なかった。


打払令が発布されて初めて異国船を砲撃した事から『異国船牟岐浦漂着事件』として史実に残っている。

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