第9話 高橋景保との出会い

 文政9年(1826年)

オランダ商館長スチュルレルは、年次行事である江戸参府を行うための準備をしている。貿易の状況報告と貿易品の献上が目的だ。

 今回の参府にはシーボルトを同伴させる事にしている。江戸で彼の持つ西洋医術を広めてもらえれば、商館長としての立場も良くなる。


 なぜならオランダがフランスの統治から独立するまでの数年間、イギリスはオランダ商館の引き渡しを要求したが、これを断っている。当然貿易量は減少したが、アメリカが介在してくれたお陰でなんとか、商館を維持する事が出来た。それには長崎の民が先任商館長のドゥーフに行為的であったからでもある。作物などの余剰があれば届けてくれる者もあった。


 シーボルトがこの地で医療活動をしてくれる事が何よりもありがたいと思っている。寧ろ彼のお陰で住民が心を開いてくれていると言っても過言ではない。

 シーボルトの方でも江戸と言う場所に生息する植物を採取したいと考え、二つ返事で承諾。お互いの利害関係が一致した。シーボルトは、この時三十歳の働き盛りである。


 途中、長門の国では門下生の高野長英が宿舎を訪れ、自身が研究したクジラの生態を記録した資料をシーボルトに渡す。シーボルトは長崎から外に出る事までは許されていないため、門人達に講義の見返りとして動植物の調査を依頼している。その他、門人、知人達から大層なもてなしをも受けている。

 

 江戸に到着したシーボルトは昌平坂学問所に招かれ、西洋医学に関する講義を行った。講義が終わり、ふと講堂の壁面に一枚の日本地図が飾られている事に気付くと、受講者の者に尋ねる。

「そこにある絵図は日本の地図になりますのでしょうか?」

「いかにも。この日の本の国の地図にございます」

「この地図はどなたが所有するものになりますのでしょうか?」

「はい。こちらは御書物奉行を務めております高橋景保殿にございます」

 なんとも精巧に出来ているものかと見入ってしまう。

(まさか、この国でこれほどまでの物が作られているとは)

「一度お話しさせて頂きたいとお伝え願えますでしょうか?」

「承知仕りました。御奉行にその旨お伝えしておきます」

「よろしくお頼みします」


 後日、高橋景保はスチュルレルとシーボルトの宿泊先を訪ねる。宿泊先の着流し姿を見た景保は一瞬にして、その人柄の良さを感じ取った。

「御書物奉行の高橋景保です。この度のお招きに感謝申し上げます」

「これは御奉行様、私はオランダ商館員で医師を務めておりますシーボルトと申します。こちらから出向きましたものを。態々わざわざのお運びかたじけなく存じます」

「ご貴殿のお噂は予々かねがね伺っております。長崎の地で西洋の医術を以て民をお救い頂いておられるとか。また私塾を開き、技術を求める者に指導しておられるとか。感服している次第です」

 シーボルトも一変にして、心を開ける人物だと感じ入った。

「昌平坂学問所にありました日本地図を見ました。なんとも精巧に出来ているものかと感動しました。オランダも各国と交易していますので、世界の地図は多くありますが、これ程までの物は見た事がありません」

「これは伊能忠敬と申す者と、その配下の者たちで二十年近い歳月を要して計測、図面化した物になります。あれなるはその原画を模写した物になりますので、余り精度の高い者とは言えません。わたくしの手元に原画を忠実に縮図化した物があります。今度良かったら見にお越し下さりませ」

「おぉ!それは願っても無い事です。近い内に必ず寄らせて頂きます」

 日本の物を沢山収集している彼にとっては願っても無い話であった。


 暫く日が経ったシーボルトは高橋邸に赴いた。早速話しに出た縮図を見せてもらった。その精巧さに思わず感銘の息を立てる。

「な、なんとも素晴らしいものか。日本がこれ程までも物を作れるとは諸外国は思っていないでしょう」

「ただ、北方の蝦夷地より先の島々や、朝鮮国などの地が異なっていると指摘する者もおります。なんとも歯がゆい思いをしているのも事実です」

「それでしたら私が持っている良い地図があります。我が国のクルーゼンシュテルンと言う者が描いた北方からロシア国を記されている物になります。宜しければ御奉行様に進呈しましょう。その他にも幾つかございます。これらはイギリス製のクロノメーターという最新技術の測量機器を使って計測したものですから、精度も高いかと存じます」

 初めて聞いた海外の手法に興味津々だ。

「それは願っても無い話だが、その様な物を頂いて問題無いのですか?」

「お役に立てるのであれば光栄です。長崎に戻りましたら、しかるべき者に持たせましょう」

「なんと。ありがたい事か。相応の返礼をさせて頂きます」

 その様な気遣いは無用と言ってはみたものの、内心は日本の物が手に入ると笑みがこぼれる。彼は江戸にいる間、精力的に幕府の重役や諸藩の大名に会っている。


 シーボルトらが江戸を去って数ヶ月後、約束した異国の地図数枚が景保のもとに贈られた。証文を交わした訳では無いので、半信半疑ではあったが、異国人でもこのように信義を重んじるものかと感銘を受けた。

(流石、一級の人物は違うな。返礼は何が良いであろうか)

 後日シーボルトから書簡が届き、件の縮図の事を称賛しており、願わくば譲って頂けないかと所望する内容が記されていた。

 受け取った地図の返礼としては申し分無いが、割り切れない思いもあり、他に何か無いかと思案している内に月日が経った。


 シーボルトからまた書簡があり、翌年の江戸参府の時までに検討頂けないかと催促された。景保は縮図を譲ろうと決心した。

国内の地図を異国に持ち出すのは国禁となっているが、この縮図はそれに当たらないであろうとあまり重く考えていなかった。

奉行所の信頼できる配下のものに、長崎まで出向き、届けるよう託した。


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