第4話 フェートン号事件(後編)

 フェートン号から人質となった二人のうちの一人が解放された。

「お奉行所様、彼らは薪炭、食料、水を要求しております。要求を呑めないのであれば港内の船を攻撃すると申しております」

 手元の軍勢が少ないだけに今は強気な態度は取れない。

「おのれ、依頼した藩からの援軍はまだか?」

「はい。いずれの藩も未だ到着しておりません」

「やむを得ぬ。物資を提供するより致し方ない。良いか、こちらも時を稼ぎたいゆえ、物資を少なめに提供せよ。何か問われたら、手元には余り無い故、明日に不足分を提供をすると伝えてくれ」

 このやり取りを聞いていたドゥーフは驚きを隠せない。

(これでは納得しないであろう。大事になる前に、こちらからも食糧品などを提供しよう)

「お奉行様。あまりに物資が少なくて相手を刺激しては困りますので、当方からも些少ではありますが、荷を提供しましょう」

「相わかった。よろしく頼む」


 解放された商館員はドゥーフにイギリス船の目的が自国に関わっている事を伝える。

(それならば尚更、事を穏便に済ませねばならんな。この事は奉行に伝えない方が良さそうだ)


 奉行所から用意された物資が港に運ばれる。奉行からの命で今日用意出来た物が少ない事をイギリス人らに伝えた。不服の様子ではあったが小船に積み込むと母艦へと引き返して行った。

 母艦に戻った兵達は艦長にその事を報告する。

「取り急ぎ用意出来たものは少ないので、明日また準備して渡すと申しておりました」

「あれだけでは心もと無い。今暫く様子を見るとしよう。余り時間を掛かられては向こうの思う壺だ」

 熟練の艦長ともなれば相手の考える事は凡そ検討がつくと言うものだ。


 さらに次の日、夜が明けると数台の荷車が港に現れる。フェートン号のデッキからその様子を見た船長は部下に急ぎ、桟橋に向かう準備をさせる。そして残った者に出航の準備をするよう命じる。

 イギリス船から小船が出され、桟橋に向かってくる。その小船にはフェートン号の船長以下水夫が数名と、もう一人のオランダ商館員が乗っている。

 船長は荷車が奉行所の物でなく、オランダ商館からの物と確信した。解放した商館員から、こちらの真意が伝わったと判断した。

 桟橋に着くと、艦長が一人残されたオランダ商館員を伴い、荷車の方に向かって来る。商館長も急ぎ、彼らに近いて行く。そしてお互い手を差し出して握手をする。

「イギリス船フェートン号の艦長フリートウッド・ペリューです。この度はオランダ商館の方々には大変ご迷惑をお掛けしました」

「オランダ商館長のドゥーフと申します。部下から状況を伺っています。先ずは国王に代わって貴国に感謝申し上げます」

 ドゥーフは深々と頭を下げる。

「フランス国の影響が及ばない内にとの命で来ましたが、どうやら当てが外れたようです。この上は一刻も早く立ち去りたいと、難儀をしておりました」

「まもなく隣接する大名家から攻撃隊の援軍が到着するでしょう。些少では有りますが、これらの物をお納め下さい。そして直ちに出航なさるが良いと思われます」

「お心遣い大変感謝します。仰せに従い、これにて失礼して出航します」

 商館員も無事に解放され、荷を積み替えると急ぎ母艦に向かって走り出す。互いに敬礼し合うと、その姿が見えなくなるまで見送った。艦長が戻ったフェートン号はそれから暫くして港を出て大海原に向かって旅立った。


 一方で夜明け前、隣国の大村藩から大筒を携えた援軍が長崎に到着する。総勢二千。一向が奉行所に現れると、奉行の松平康英が出迎える。

「大村藩藩主、大村純昌すみよしにござる。異国船の侵略を阻止するため、藩兵を引き連れて参った」

「これは、これは、藩主殿直々の援軍、誠に感謝申し上げます。本年長崎奉行を拝命した松平康英にございます。この地のことは藩主殿の方が詳しいと存じます故、何卒よろしくお願い申し上げます」

「相わかった。早速であるが、状況をお聞かせ願いたい」

「では早速軍議に入りましょう。中にお入り下さい」

 大村藩藩主とその家老、兵長と思われる人物が康英の後に続き、奉行所の中に入って行く。広間には既に長崎港の地図が広げてあり、港内に船とわかる物が置かれている。奉行所の者が二人ほど居て準備をしている。

藩主は彼らに役目ご苦労と言い、用意された上座の席に腰掛ける。

「では長崎奉行殿より、一連のあらましをお聞かせ頂きたい」

「一昨日、オランダ国旗を掲げて偽装したイギリス船が入港して来ました。何やら港内を物色しているようでした。そうとは知らないオランダ商館の者が出迎えに向かったのですが、突如イギリスの国旗を揚げ、その者達の艦艇に拉致されてしまいました」

「偽装しての入港などと何たる無礼な輩か!」

「その後、拉致された二人の内の一人が解放され、薪や水、食料などの物資を要求するよう指示されました。要求に従わなければ、港内の物を破壊すると脅して来た次第です」

「では既に要求された物は引き渡したのか?」

「こちらも手勢が心もと無い故、援軍の到着まで時を稼ぐために、複数回に分けて提供する事にしました」

「なるほど。相分かった。ではこれからいかが致す」

 そう言うと純昌は、自身が引き連れたてきた兵長の顔を伺う。兵長は奉行所の者達の方に向き直ると、声高々に叫ぶ。

「されば、部隊を二つに分けましょう。一隊は我らが持参した大筒にて、港の東方からかの艦艇を砲撃します。二門ござれば間隔あけて打ち、多数あるように見せましょう。そして東側に注意を引き付けます。今一方の隊は西側からは小早で接近し、焙烙による攻撃を行います。奉行所におかれましては、その小早をできるだけ多くの用意して頂きたいと存ずる」

「承知した。これより直ちに手配いたす」


 その後、詳細な打ち合わせを行っていると、港内の警備から戻って来た者から報告が入る。

「申し上げます。港内に居りました異国船が今し方、出航致しましてございます」

「な、何じゃと。人質はどうなっておるのか?」

「はい。オランダ商館が渡した荷と引き換えに解放されましてございます」

 これから報復しようとする矢先の事に奉行始め、皆が呆然となった。暫く間があった後、藩主の純昌が口を開く。

「戦う相手が居なくなったのであれば、我等はこれにて国許に帰陣させて頂くが、よろしいかな」

「遠路の援軍に感謝申し上げます。道中お気をつけてお帰りください」

 呆然としている奉行からの返事には心が入っていないようだ。

「では、これにて失礼致す」

 こうして大村藩の援軍は戦う事も無く、長崎をあとにした。奉行所の面々も、これ以上の騒ぎが無くなったと安堵している。

 皆を下がらせた康英は、これまで味わった事のない屈辱感にさいなまれた。戦って負けたのならまだしも、何も出来ないまま掠奪されただけの形になったからだ。

(この国の威信に関わる不手際をしてしまった。幕府からこの職域を預かる長崎奉行として申し開きが立たん)


 翌朝、康英が奉行所の広間に姿を見せない事に不審に思った下役人が執務室に向かう。執務室で見たものは、浅葱あさぎ色の死装束を纏い、うつ伏せになって自刃している康英の姿がそこにあった。机には幕閣に宛てた遺書が残されていた。

 この遺書とともに事の仔細が幕府に報告された。幕府からの沙汰は長崎に常駐させる兵を勝手に削減した事に対し、鍋島藩の藩主に蟄居閉門、家老に切腹が命じられた。康英の自刃は伏せられ、表向きは病による急死として処理された。


 この事件は先のロシアが交易を求めての来航とは違った異質のものとなった。イギリス側からすれば、鎖国状態の日本に自国の船が入港出来ないための措置だったのであろう。

 たが過去においても捕鯨船などが物資を求めて寄港した例もある。その時の長崎奉行はその事を記録には残していない。救難に対しては寛容な態度は取っていたのだろう。


 ドゥーフは一人目が解放された時、イギリス国の真の目的を知った筈である。事情を説明して奉行所を説得すれば、康英などが死ぬ必要は無かった。たが他国の者にこれを上手く説明することは難しい。また、自国オランダの立場も悪くなる可能性があると考え、真相を伝える事を控えた。

 異国の軍船が勝手に自国の港内を物色していれば、これを撃退するのは当然の事と考える。ある意味、イギリスは日本を東南アジアの弱小国程度にしか思っていないと言う事だ。


 ロシア船の打払令が出た後、長崎も台場が増設するなどの沿岸強化が計られたが、機能していない事が露呈した。また日頃から不慮の事態に備えた訓練などもなさらていなかった。

 この事件を期に、佐賀藩は隣接する福岡藩と連携して情報の伝達方法、実戦を摸した対船演習など積極的に長崎の警備強化に取り組むようになった。

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