第3話 フェートン号事件(前編)
文化5年(1808年)6月
長崎港に向かって来る一艘の外国船がある。鎖国下ではあるが、オランダ・清国との交易は認められていることから、誰一人として不審に考えるものは居ない。
通常どおり、長崎奉行所の下役人が敷地内の見張り台にあがり、オランダ製の双眼鏡で船影を確認すると、奉行所の長官に報告に向かう。長崎奉行の長官は、今年就任したばかりの松平
交易で利益を上げることも、長崎奉行の重要な役割のひとつである。
「如何であった?」
「はい。マストにオランダの国旗が確認できました」
交易船であれば、事前にオランダ商館から入港許可の申請があるのだが、今向かってきている船はそのような報告は受けていない。
「そうか。すまぬが、オランダ商館に行って、ドゥーフ商館長に至急確認してきてくれ」
「承知しました。では早速に出向いてまいります」
暫く経って、商館から戻って来た下役人からは商館長は不在で、夜半まで戻らないとの報告があった。康英は何やら訝しげなものを感じる。
(捕鯨船に何か問題があっての寄港であろうか。そもそもオランダ国は捕鯨などしていただろうか)
船は港内に入ると停止し、カッター船に乗り換えた数人の船員と思しき者らが桟橋に向かって来る。商館員の者たちも外国船の者が来ているため、港に出迎えに行く。
カッター船が桟橋に着き、制服姿の乗組員が五、六人降りて来る。オランダの商館員は彼等を見るやオランダ人では無い事が分かった。またその出で立ちから商人でないと理解した。
「あなた方はどこの国から、何の目的でここに寄港なされたのですか?」
少し間があり、オランダ語がわかる者が前に出て来る。
「我々はイギリスのもので、あなた方に話があって立ち寄った。素直に我々の命に従ってもらいたい。そうすれば決して危害は加えません」
商館員は後ずさりとしてその場を離れようとするが、イギリス兵らが銃を向ける。
「その場を動かないで頂きたい。そして我々の命に従って頂く」
「な。なにをする!」
商館員らはイギリス兵に拘束され、来た小船に載せられて、彼らの軍船に拉致された。
康英の執務室に配下の者が速足で近づく音が聞こえる。そして扉の外から声が聞こえる。
「ち、長官、一大事にございます」
「如何した。まず入いられよ」
「報告します。オランダ国旗を掲げてはいますが、武装した兵のような者たちと出迎えた商館員の者たちを彼らが連れ去ったもようてさす」
「そ、それは一体どうゆう事か」
「しかとは分かりませんが、恐らくオランダ船に偽装して港内に入って来たものかと。おそらく拉致されたと考えるべきです」
「一体どこの国のものか。数年前、ロシア国が交易を目的に長崎に来航したようだが、幕府は鎖国を理由に要求を拒否したと記録されている。恐らくロシアでは無いことは明白だが——」
文化元年(1804年)ロシア使節レザノフが長崎に来航する。日本人漂流民の送還と共に、国書を携えて通商を行う事を目的としていたが、幕府からは今回も鎖国を理由に通商は認められなかった。これ以前の寛政4年(1792年)にロシア使節ラクスマンが根室に来航している。
この時、日本人漂流民(大黒屋光太夫ら)の送還と通商を行う事を要望した。幕府は漂流者の身柄は引き取ったが、通商については鎖国を理由に許可しなかった。レザノフは二度にまで渡るこの人道にも劣る行為に激怒して帰国した。それから二年後、一連の報復としてロシア軍艦による択捉、利尻などの幕府施設、船を破壊した事は前に触れた。
その後、幕府から長崎の近隣の諸藩に対し、年毎に藩兵千人の常駐が義務づけられた。長崎奉行にはこの常駐するこの兵を動員する権限が与えられている。近年、各藩は財政難に苦しんでいるため、派兵の人数は曖昧なものになっていて、康英が着任する以前から奉行所もその人数まで把握していない。今年は佐賀藩が担当になっている。
「追撃令を出すゆえ、駐屯所の佐賀藩兵に長崎港へ出兵し、直ちに異国船を打ち払うよう命ずる旨、伝令を頼む」
「承知致しました。では早速に」
康英が伝令を発した頃、拉致されたオランダ商館員がフェートン号の船長室に通されている。
「我々は貴公らに危害を加えるつもりはない。あなた達の財産の保護が我らに与えられた使命なのです。これはあなた達の国王の願いでもある。艦船などの情報を教えてもらいたい」
商館員もオランダの状況をある程度は認識している。この時期、オランダ王国はナポレオン率いるフランス軍に敗れ、国家はフランスが統治している。国王であるウィレム五世は国外に退去して、今イギリスに亡命している。
フランスはオランダが支配するアジア諸国の拠点を次々にその支配下に収めている。国土の狭いイギリスにとって、これ以上、アジア諸国をフランスに帰属させる訳には行かない。
オランダと交易のある日本はまだ状況は変わっていないと考えられるため、今のうちに交易船を拿捕し、フランスの支配が及ばないようにすべきと考えた。これがフェートン号に与えられた任務なのである。
二人は顔を見合わせると相手がうそを言っていないと確信する。少し思案した後、それなればと商館員たちは言葉を改めて答える。
「秋にならなければ、交易船は入港しません。また、現在日本に船はいません」
「船長、こちらでも港内を見廻りましたが、やはりオランダ船は確認できませんでした。我らの目論見は外れた事になりますな。これからいかがなさいますか?」
「この上は長いは無用。日本の役人に捕らえられたら、こちらの命が危うい。何か良い案は無いか―——」
商館員のひとりが船長に話しかける。
「今この長崎には兵力と呼べる軍隊は常駐しておりません。ですがこの地を管轄する奉行と言う役人がおります。近隣の藩と呼ばれる国家に似た組織から兵を動員する権限を持っています。恐らく、その要請は既に出されたものと考えられます。その前に退去する事が望ましいでしょう」
「こちらも物資が不足しているので速やかに薪炭、食料などを要求したい。すまぬがどちらかに奉行所に行って、こちらの要求を伝えて頂けないか? その上、もうひと方には出航するまでの間、同道願いたい」
一人の解放を条件に物資を要求する事になった。承諾した二人のうち、歳の若い方が要求を伝える任務を託された。
奉行所の配下の者がもどり、康英に報告する。
「入港した帆船は大砲を搭載した軍船になります。桟橋に出迎えた商館員を拉致し、船に連れ去りましてございます。その後なんと、オランダの船旗が下され、イギリスの国旗が掲揚されました」
「ま、誠か! オランダ船と偽っての入港と言う事か。その後の様子はどうだ?」
「はい。小型の船が港内を調べるが如く走り回っております」
「何をしようと言うのか。愚弄しおって!直ちに駐在所に詰めている佐賀藩に異国船の砲撃に備えるよう、指示書を出す故届けてくれ」
指示書を届けて戻った下役人からは驚きの返答があった。
「申し上げます。詰所には通常の人数より遥かに少ない百名程しかおりません。また、大筒などの備えなど無く到底役に立てるものでは無いものと」
「な、なんと言う事か。警備の任を何と心得ているのか!」
「されば、近隣の大村藩、福岡藩、熊本藩に派兵を願わねばならんな。書状を認める故、急ぎ早馬を立ててくれ」
「承知しました。早速に」
夜半になり、辺りは暗がりの中にある。
ドゥーフは商談が終わりオランダ商館に戻ると、
「これは如何なる事にございますか」
「オランダ船に扮したイギリス船が、この長崎に入り、出迎えた商館員を人質に取っています」
「な、なんたる事か!私はここの館長のドゥーフです。仔細を確認したく、どうか私に中に入れさせてもらえないでしょうか?」
「それならば問題ありません。どうぞお入り下さい」
扉が開き、ドゥーフが中に入って行く。
「日中、奉行所から入港する予定の無いオランダ船が来ていると報告があり、照会を求められました。こちらとしてもそのようなものは無いと回答しました。こちらから入港する船を出迎えに行ったホウゼンルマンとシキンムルの二人がその場で拉致されてしまいました。その後はここから動かないように奉行所から指図されています」
「先ずはふたりが無事解放されるよう、奉行所と今後の事を話し合って来る。イギリスは一体何を考えているのか?」
「大砲を積んでいる軍船になりますので何ごとも無く、出て行ってくれれば良いのですが——」
奉行所の者を従えドゥーフは奉行所に行き、康英を尋ねる。その表情からは苛立っているように思える。
「これはドゥーフ殿、この度は難儀な事に相成りましたな。只今、佐賀藩、大村藩の方に藩兵の派遣を依頼しております。到着次第、イギリス船を砲撃致します。今暫くお待ちください」
「お、お奉行様、砲撃などしてはなりません。人質を取っているのですから何か必ず要求して来る筈です」
「人質を取ってまでの要求など、単なる物取りとしか思えん」
「何卒、人質の解放のために彼らの要求に従いますよう、お願い申し上げます」
ドゥーフは商館員の安否が気にかかり乍らも、奉行所の対応がどうなるかと夜、寝付けない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます