第2話 外国船の脅威
江戸時代の後期、18世紀になると外国船が日本の沿岸に姿を現すようになる。その目的は捕鯨、探索、交易そして領土の拡大だ。
日本は鎖国政策の下、オランダ・清国とのみ交易を行ってきた。
先ずロシアが日本人漂流民の返還を手土産に国交を樹立しようと画策する。
廻船問屋の大黒屋光太夫が暴風雨に遭い、半年以上を漂流の後にロシア領へ漂着。そこで知り合ったロシア人の協力をもとにイルクーツクにたどり着く。
ここにある総督府に帰国を願い出るがこの地に留まるよう諭され、願いを受け入れて貰えない。そんな中、日本に興味を抱いている動植物学者のキリル・ラクスマンと出会う。
日本への帰国を願う光太夫と学者として日本に渡航したいと願うラクスマンは、許可を得るために首都サンクトペテルブルクに向かう。
王宮で女帝エカチェリーナ2世は国務大臣に尋ねる。
「漂流者の帰国は認めるが、かの国は諸外国との交易を認めていないのではないか?」
「はい陛下。オランダ、清国以外とは交易を行っていません。そこで漂流者を伴い正式な使節団を派遣したいと考えます」
「聞くところによれば、過去にイルクーツクの商人が毛皮の売買のために彼の国との交易を求めたが、拒絶されたそうだな」
「はい。国主の許可無く、勝手な振舞い許せません」
「まぁ良い。10年以上も前になるのでしょ。ではそのためには親書を持たせねばなりませんね」
女王陛下は善意を示めせば、日本との交易が叶うと信じて親書を書かせた。
寛政4年(1792年)
キリルはロシア皇帝からの親書と漂流民らを息子で陸軍に所属するアダム・ラクスマンに託した。アダムは光太夫ら日本人漂流者を伴い、ロシアで初めての遣日使節として、日本の根室に到着する。
松前藩の役人は彼らの目的が漂流民の引き渡しとともに、交易を求める親書を幕府に届けると言うことを知ると、直ちにその旨を江戸に伝えた。
江戸からの返事を待つ間、アダムと漂流民を乗せた船を函館港に回航させた。
数ヶ月の後、幕府からの返事が届いた。
「アダム殿、幕府からは漂流民の引き渡しはこの地で申し受けるが、親書の受け取りはここでしてはならないとの命になります」
「では江戸に赴けば良いという事でしょうか?」
「いいえ、江戸では無く、長崎にて親書を申し受けるとあります」
そう言うと返書に添えられている長崎への入港許可証をアダムに手渡す。アダムの表情は険しくなる。
「なぜ、江戸ではだめなのか?」
「その後は我が国の異国船の受け入れは長崎と決まっているからにございます」
「それは交易船を受け入れる拠点で、我らは親書を渡したい故、江戸に行くのが正しいとと思うが如何かな?」
「そ、それがしの一存では変えることは出来もうさん」
「長崎で親書を渡したとて、それが江戸に送られるのであれば、こちらが江戸に出向けは良いではないのか」
アダムが提案しても、返って来る言葉は同じだ。この不毛なやり取りに嫌気がさした。
(親書を受け取るつもりなど無いのであろう。日本人の心根は悪くないが、融通の効かない人種のようだ。危険を冒してまで長崎に行く必要も無いな)
大黒屋光太夫らに別れを告げ、奉行所の役人に引き渡した。アダム・ラクスマンは函館を出航し、ロシアへの帰路に着いた。
文化元年(1804年)9月
ロシアの外交官レザノフが、またもや漂流民送還と通商を求めるために今回は直接長崎を訪れた。
ロシア側の真の目的は当時ロシア領であったアラスカからアリューシャン列島、オホーツクで取れる毛皮の販路拡大にあった。
幕府は長崎奉行に対し、オランダ・清国以外の異国船に対して事を荒立てないよう諭し、自国に帰させるよう命じられている。
漂流船であれば、帰るために必要な物資を提供すれば事足りるのである。だが交易を求めに来ているのだから、一奉行が判断出来るものではない。
ましてや、過去の失敗を元に軍人から国を代表する外交官の正式な来航となるので尚更だ。更に過去ラクスマンが持ち帰った長崎港の入港許可証を携えているため、入港拒否も出来ない有様。
レザノフは過去に老中松平定信と交易についての内意を取っていたため、親書を受け取るよう、幾度か要求する。だが既に定信は失脚しており、代わりに交渉役に就いた老中の土井
述斎は江戸時代初期の朱子学派儒学者で、林羅山の血統が絶えた林家を継ぐため、岩村藩松平家より命を受けた。儒学の推進に努めた逸材と言われた人物である。その見識の高さが評価され、我が子の耀蔵を徳川家の譜代である鳥居家に養子として送り込む。儒学を重んじる耀蔵はのちに幕府に不満を持つ蘭学者を弾圧する。
「レザノフ殿はロシアの外交官ですぞ。この度も漂流民の引き渡しには応じるが交易はしない事に素直に応じるであろうか?」
「大炊頭様、ロシアの民はキリスト教に似た独自の宗教を崇めていると聞いています。この様な国と交易しますと我が国が混乱します。交易は何としても拒否せねばならぬと存じ上げます」
「さすれば二度とこの地に参らぬよう仕向けなくてはならんな」
「かの国の力を侮ってはいけませんぞ。信義を以てこの国の事情を説得して頂けますよう願い上げます」
「相わかった」
述斎の言葉とは裏腹に利厚はロシアを甘くみくびっている。
(ロシアが如何に攻めて来ようが、我らが武士は些かの遅れはとらぬ)
この考えを下に施設団を長く留め置く事になった。
レザノフは幕府からの返答に異議を申し立てるが、速やかに長崎港から退去するようにとの返事しか来ない。また長崎奉行から国書を渡すように指示されたが、大切な書簡になるので直接江戸の幕閣の者に渡したいと、これを拒絶している。
(半年も投錨してこの有様では帰れぬ。この国を開かせるには武力行使を以てせねばならないようだ。一度帰国して次なる策を練ろう)
レザノフはつい、何人かの部下に武力行使を仄めかしてしまう。
一向の二隻は長崎港を出て、本国カムチャッカ目指して帰路に着く。樺太を過ぎた辺りから後方の一隻が見えなくなる。
カムチャッカに戻ったあと、その船が樺太にある松前藩の番所を襲撃し、その後に択捉島にある幕府の施設を破壊した。幕府側からも砲撃をするが、相手側に損害を与える事はできなかった。
この時、艦船からの艦砲射撃に衝撃を受けた。
幕府は各藩に対し、千石船(全長24メートル程度)以上の建造を禁止している。ましてや大砲を搭載した戦闘用の艦船など保有してはいない。これでは勝負になる筈がない。
この時まだ幕府は、海軍の必要性を感じてはいなかった。半世紀近く後にオランダから蒸気船が贈られるまで、自ら求めようともしていない。
更に支配級がもつ、『日本人の気概を以てすれば、異国の者などに遅れを取らない』という考え方が、後々までこの国を多いに苦しめてゆく。
幕府は諸藩に薪炭給水を命じるものの、松前藩に対してはロシア船の打ち払うよう命じる。(この事件を記録では「文化露寇」と記している)
一連の出来事が終息した文化5年(1808年)正月
長崎奉行が成瀬正定に代わり、松平康英が着任する。その年の秋に到来する異国船が今後の幕府の方針を一変させる事に繋がっていく。
その事件で佐賀藩は多いに面目を失う。その後の藩主鍋島直正(
これが後の倒幕運動への貢献に繋がってゆくのである。
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