開国への道のり

従五位下武蔵守

第1話 プロローグ

 嘉永6年(1853年)7月

米国マシューペリー提督率いる四隻の艦隊が浦賀沖に現れる。先頭の二隻は黒煙を上げており、何やら恐ろしささえ覚える。江戸の人々は本来黒では無いが、遠目に見るこの船を『黒船』と呼んだ。


 港の人達は何年も前から異国船を見ているが、さすがにこの艦隊には驚き、目を見張る。家財をまとめて逃げ出す者があれば、武器屋に走り出す者まで現れだしている。交易を行うため、今回もアメリカ大統領からの国書を携え、幕府に渡す事が目的だ。


 この時から遡ること7年前の弘化3年(1846年)に米国のビッドル提督が国書を渡すべく浦賀に入港した。

 老中の阿部伊勢守いせのかみ正弘は国書の受け取りの引き伸ばしを謀るため、この地では受け取れないとオランダ・清国との交易地である長崎に回航を依頼した。

 その後、悪天候のためか、または物資の不足などの原因はわからないが提督を載せた船は国書を渡すこと無く、日本国から立ち去っている。そんな事が過去にあった。


「伊勢守殿、またもや米国から国書を渡したいと通達がありましたぞ。今回は準備万端と言わんばかりに四艘まで引き連れておりますぞ」

 そう話すのは阿部正弘につぐ次席老中だが、母方の叔父にあたる松平和泉守乗全いずみのかみのりやすである。

「頭の痛い事です。力のある国が弱小国家を凌駕する時代になって来ました」

 オランダから送られて来る西洋の風説書からもイギリスやフランスなど近年工業力が目を見張るほど発展し、強力な銃火器、蒸気船の製造により東南アジア諸国を次々とその統治下に置いている。次なる狙いは日本国だと警鐘を鳴らして来ている。

 天保11年(1840年)にアヘン戦争が起こったあとも清国の多額の賠償金の支払い、領土割譲などを知り、オランダの国王から鎖国政策を廃止し欧米諸国と交易をすべきだと提案された。そんな最中にビットルが現れたのだった。


「この度も先ずは長崎に回航して貰い、相手の出方を見るとことにしよう」

「あの様子ですと、同じ轍は踏まないと思えるがの———」

「他に方策がない。時を稼いで次なる手立てを考えたい」

 この返答に対しペリーは激怒した。強力な軍備を持って上陸し、国書を渡すまでだと返してきた。そして停泊中の艦船から空砲が発せられた。驚いた幕閣は近くの港で国書を受け取る事を約束した。国書を渡したペリーは来年に再度の来航を告げ、その時に国交を樹立する条約を締結する旨を示唆して帰路に着いた。

 今度ばかりは幕閣の者たちも動揺が隠せなかった。大砲を備えた軍艦など保有していない。太刀打ちするすべがないのである。


 解決策が無いまま年が暮れる。そして翌年早々、約定通り再びペリーが来航する。艦隊も前回よりも多く七隻と更に威圧をかけての来航である。幕府は日米和親条約を締結。交易は行わないものとし、下田、函館を開港して薪炭の供給を認める事を承諾させた。


事実上、鎖国政策が終了したのである。


 安政5年(1858年)になると、米国の外交官タウンゼント・ハリスが来日し、世に名高い不平等条約と言われる日米修好通商条約が結ばれる。幕府を嫌疑する者達からの非難はあびたが、従わなければ武力を背景に迫られたのだ。勝てる見込みの無い戦争を回避できただけでも政治的には正しい判断であったと言える。かなりの間、会見を重ねている事から譲歩できるギリギリのところであった筈だ。

 不平等と言われた条約を敢えて呑んだのは、数年のうちに力を付けて、いつか条約を改定してくれる時期を願って苦渋の決断をした。


 その後、これを聞きつけたイギリス、フランス、ロシアとも同じ条件で修好通商条約が結ばれることになる。


 ここに至るまでには半世紀も前から、ロシア、イギリスなどが日本に接近して交易を求めて来た事に始まるのである。

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