第8話 勝利の女神

 彼方と三原は最後の撃ち合いの前に互いに一度休息を取る。体力が限界の彼方は落下するようにベンチに座り込んだ。そこにドリンクとタオルを持った美鈴が駆け寄った。


「これで体力回復して。あと何かして欲しい事ない? 私にできる事ならなんでもするよ」


 彼方は受け取ったスポーツドリンクで喉を潤しながら、美鈴の魅力的な提案に耳を傾ける。滝のように汗が流れ、氾濫した川のように激しく流れる血流で身体は熱を持つ。息も絶え絶えで彼方の意識は朦朧としていた。


「美鈴の、応援が、欲しい」


 だから、恥じらいもせずそんな事を言ってのけた。


 美鈴は彼女のそんな言葉に舞い上がってしまいそうになったが、すんでの所で自分を落ち着けた。今の彼方は真剣そのものなんだ。自分の浮ついた気持ちで彼女の集中を切らせることなどあってはならない。


 好きな人が自分を頼ってくれている。そして自分は好きな人の勝利を信じている。その事実を胸に抱いて、深く息を吸った。


「頑張って、彼方」


 励ますように、支えるように、包み込んでくれるような優しい声のエールを送る。美鈴の精一杯の応援を彼方は噛み締める。


 じわりと美鈴の想いが彼方の心と体に染み渡り、彼方に力を与える。彼方は親にだって友達にだって監督にだってずっと応援され続けてきた。けれどこんな感覚は初めてだった。


 美鈴に頑張れと言われるだけで体に力が湧いてくる。


 美鈴に名前を呼ばれるだけで飛び跳ねてしまいそうなくらい嬉しくなる。


「ありがとな」


 その事実が何を示すのか、それを考えるのは少し待とう。


「勝ってくる」


 今はただ、美鈴の想いに応えよう。


 彼方は限界を迎えているはずの体を美鈴のエールをエネルギーにして稼働させる。終幕は目前まで迫っている。死力を尽くして勝利を目指す。それが今の彼方の使命だ。


 コートの熱は最高潮まで達し、最高のフィールドで最高の選手二人が相対する。次に控える決勝戦なんて考慮せず、この試合で全てを出し切るつもりでいる。


「飯島さん。貴方と戦えて本当に良かった」

「私もだよ。おかげでいろんな事に気付けた」


 覚悟を決めた二人は終わりが近づく最高の試合を振り返る。名残惜しい気持ちは確かにある。けれど、この場の熱を糧にしてこそ先の景色が見られる。闘争心をむき出しにして、二人は叫んだ。


『勝つのは私だ!』


 それは試合開始の合図代わりとなり、彼方がサーブを放った。凄まじいスピードでボールは飛んでいき、ワンバウンドしてコートを囲む金網に突き刺さった。まずは彼方のワンポイント。タイブレークに突入し、ビックサーバー彼方の本領が発揮された。


 しかし天才三原も食い下がる。彼方のサーブを捉えることはできないが、自分のサーブの時はテクニックで彼方を翻弄して必ずポイントを取る。そのまま試合は進んでいき、7-6でサーブは三原。ここで彼方が点を取れば勝ち、逆に三原は点を取れなければ負け。まさに緊張の瞬間だ。


 三原は大きく息を吸って集中力を高め、サーブを放った。それを彼方が捉えるが、三原は返球のコースを読んで彼方の逆をつくリターン。ここが勝負だと彼方は体力を振り絞ってボールに追いつく。


 そこから長いラリーが始まった。主導権は三原が握りながらも、彼方がそれになんとか食らいついていく。一つのミスが命取り。極限状態で体力と集中力が試される。


 一歩踏み出す毎に足全体に痛みが走る。ドクドクと心臓が痛いくらいに激しく鼓動する。吸った息が喉を切り裂くように痛い。バケツの水をかぶったかのように汗の滴を撒き散らす。炎天下の中で彼方の身体は限界を迎えようとしていた。


 しかし、心だけは決して折れなかった。なぜなら美鈴が応援してくれたから。体と共に限界を迎えそうになる心を、美鈴の応援が懸命に支えてくれていた。


 そして、その時は訪れた。


 彼方の返球が少し甘くなる。その隙を見逃さず、三原は前に出て鋭いコースを突いた。普通なら返せない打球。しかし、彼方の美鈴の想いに応えようとする気持ちが、彼女の限界を打ち破った。


「うらぁぁぁぁ!!」


 無駄な動きが一切ない切り返しに爆発的な初速、そして体を投げ出して打球に飛び込んだ。考え得る限りの最適解を連続で叩き出し、打球を見事捉えて見せた。


 そして、ボールは勝負に出る代償として前に出ていた三原の横を通り過ぎ、デッドゾーンでワンバウンドして金網に突き刺さった。


「8-6! ゲームアンドマッチ! ウォンバイ飯島!」


 試合終了と勝者を告げる審判のコールが響き渡る。大きな歓声が上がり、最高の試合に観戦者達は惜しみない拍手を送った。


「よっしゃあぁぁぁぁ!」

「……あーあ、終わっちゃったか」


 勝者は雄叫びを上げ、敗者は限界の体をコートに投げ出した。


「美鈴!」

「おめでとう! 彼方!」


 歓喜の渦の中、彼方は真っ先に美鈴に駆け寄って抱きしめた。彼方を奮起させ、彼方の心を支え続けた美鈴がいたからこそ、彼方は勝つことができた。ダブルスではないが、美鈴は共に戦った相棒と言っても過言ではない。


「最後まで私を信じてくれてありがとう」


 強く熱い抱擁。美鈴は彼方の溢れんばかりの感謝を甘受する。今にも倒れてしまいそうな彼方を支えて、好きな人から抱きしめられて頭が沸騰してしまいそうになるのを我慢しながら。


 一方、三原は喜びを爆発させる彼方に死ぬほど悔しいとは思いながらも、その悔しさを感じられた事に清々しい気持ちになっていた。糧にできる悔しさを胸に、三原はいつか訪れるリベンジマッチに燃えていた。


 そしてその悔しさを与えてくれた彼方の笑顔を見て、対戦相手との挨拶を忘れて仲間と喜び合う彼方を注意しようとする審判に対して、自然とこんな言葉が漏れていた。


「勝利の女神との抱擁の際中だ。止めてしまうのは野暮ってものだよ」

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