第7話 cheer for you

 ミンミンと比較的早起きな蝉の声が響く。そんな虫の声がハッキリと聞こえてしまうくらい、コートは静まり返ってしまっていた。それも無理はない。今このコートで行われているのは試合でもなんでもない、強者による弱者の蹂躙なのだから。


 現在3-0で4ゲーム目に突入。このゲームも40-0と追い込まれ、ここに至るまで飯島は1ゲーム取るどころか一度も点を取れていない。


 彼方は必死に食らいつこうとしていたが、その足も今や止まってしまった。死んだ目をしてダラダラと汗を流し、動きのキレも無くなっている。死んだ選手を目の前に、期待を裏切られた三原は蔑むような目をしてため息をついた。


 こんな試合にもう意味はない。さっさと終わらせよう。そう考えていたのは三原だけではなかった。対戦相手の彼方も同じことを考えてしまっていた。


 インターハイを狙えると、自分は強いと、驕っていた。周囲の人はみんな自分を認めてくれて、多くの人に応援された。そんな自分をかっこいいと思ってくれて、ファンクラブもあるらしいし、告白だってよくされた。自分は持っている側の人間だと無意識のうちに思ってしまっていた。


 そんなの勘違いで、自分に才能なんてなくて、自分は凡人で、目の前の選ばれた天才に勝てるはずなんてなかった。


 むしろ凡人にしてはよくやった方だ。もはや失望されてしまったが、ほんの少しでもあの天才に期待された。それは誇っていいはずだ。それにインターハイにだって、今の順位を考えれば来年にはいけるはずだ。


 ここで敵わない相手に無茶をして心を壊したくない。最初から勝てるわけなんてなかったと潔く諦めてしまおう。そうやって物分かりがいいフリをして下らないプライドを守るのが、凡人として自分がやるべきことだ。


 彼方らしくもない酷く弱気な考え。しかしそれを躊躇いなく選んでしまえるのが今の彼方だった。


 キラキラと輝く太陽が闇夜に覆われて姿を隠そうとした時だった。


「頑張れ! 彼方!」


 キラリと輝く一等星が闇夜を照らした。


「美鈴……?」


 テニス部のメンバーも、彼方のファンクラブも生気を失った彼方に口を閉ざすばかりだった。彼方本人を含めて、この場にいる全員が彼方の敗北を確信してしまっていた。


 ただ一人、美鈴を除いて。


「諦めるな!」


 柄にもなく声を張り上げる。シンと静まり返っていたコートで彼女の声だけが木霊する。美鈴はテニスに詳しいわけではないが、この状況が絶望的だとは理解していた。


 けれど美鈴は彼方を信じていた。


 彼女が知る太陽ならこの状況を打開できる。彼方ならきっと勝てる。本人でさえ諦めた勝利を信じていた。


「うるさいな。もう終わりなんだよ」


 三原はうるさい外野にイラつきながら、彼方にトドメを刺すサーブを放った。彼方の最高のサーブを超えるスピードと鋭いコースをついた完璧なサーブ。今の絶望した彼方が取れるサーブではなかった。


「うらあぁぁぁぁぁ!!」


 しかし、彼方は追いついた。そして見事捉えたボールを三原の逆サイドに返球し、見事なリターンエース。


「っしゃあ!!」


 彼方が雄叫びを上げる。彼女を覆い隠そうとした闇を振り払い、ギラギラと熱を持った瞳を輝かせて。


「おお! ついに返した!」

「しかもリターンエースだ!」


 周囲の観戦者達もさっきまでの静寂が嘘だったように盛り上がる。熱を失っていたコートが再び燃え上がった。


「生き返った……」


 三原は半死人だった彼方の目が覚めるような返球に不意を打たれて反応できなかった。突然の蘇りに唖然とする彼女に、彼方はラケットを向けてアツく言い放った。


「こっからだ! まだ私は終わってねぇぞ!」


 三原の目の前には太陽が立っていた。まだ一点返しただけなのに、三原の圧倒的有利は変わらないのに、闘志を燃やす彼方はキラキラと輝いていた。


「最高じゃん」


 三原の瞳にも熱が戻る。今の彼方はかつてないほど強い。天才の感覚がそうやって警鐘を鳴らしながらも、かつてないほどワクワクしていた。


(……ごめんな美鈴。らしくなかったよな)


 彼方は諦めようとしていた自分を恥じた。それと同時に、自分が何者であるか思い出させてくれた美鈴に深く感謝した。


 欲しいものは自分の手で掴む。それが彼方のポリシーだ。しかしさっきまで、自分には才能がないと諦めようとしていた。才能があるかどうかなんて彼方には関係ない。才能があろうが無かろうが、勝利のためにベストを尽くす。それが飯島彼方という人間なはずだ。


 美鈴の応援で彼方はそれを思い出せた。その感謝を伝えるように、ベンチでタオルを持って見守る美鈴に笑いかけた。すると美鈴も安堵したような優しい笑顔を返してくれた。それがさらに彼方の力となる。


 強くラケットを握って三原と相対する。今度は彼女も油断しない。ここからは本気になった三原と限界を超えた彼方の真剣勝負だ。


 彼方は目醒めてからさっきまでの劣勢が嘘のように三原を押し始めた。思った通りにボールを打てる。三原の次の行動が手に取るようにわかる。体力はもう限界なはずなのに身体は軽やかに動く。彼方のプレイ全てが今までの彼女のパフォーマンスを遥かに超えるクオリティで繰り出される。


 彼方はいわゆる「ゾーンに入る」という状況にあった。ゾーンに入るとは、集中力が極限で研ぎ澄まされて理想のプレイができる状態になるということだ。


 ゾーンに入る原因は諸説あるが、精神の持ちようが大きく関わっているとされている。今の彼方は自分が自分であるために、そして自分を思い出させてくれた美鈴のためにひたすら勝利を目指している。それによって昂る精神が彼女にゾーンをもたらしたのだろう。


「6-6! タイブレーク!」


 そしてこの勝負はタイブレークまでもつれ込んだ。先の読めないこの試合で、勝利の女神はどちらに微笑むのだろうか。

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