CÉ LA VI

@apollo37

CÉ LA VI

「お父さんは今、どこで何してるかね」

母からメッセージが届いた。

父・英二と母・なみ子は私がまだ七歳、小学校二年生の頃に離婚した。私は幼かったので状況が理解できていなかったが、何か悲しい事が起こっていると直感的に判断をしたのだろう。家を出ていこうとする父を泣いて止めていた記憶がぼんやりとある。

私たち姉弟三人を引き取った母はその後、幾つかの職を転々とし、保険の販売員に収まった。優秀な成績を収めた母は独立して代理店を立ち上げ、有限会社の代表となり私と兄、姉の三人の子供を育て上げた。

父親がいない、という事で何か不満やデメリットを感じた覚えは私にはない。父がいないのが当たり前だったし、母はできる限りの事を私や兄、姉にもしてくれたのだと思う。私がギターを始め、音楽の専門学校に行きたいなどという我儘を言い出した時も母は私を止めなかった。何かやりたい事があるのならば、やらせてあげたい。母はそう思っていたのだと思う。専門学校の説明会に母と出かけ、その帰りに楽器屋に寄って新しいギターを買ってくれた。決して安い金額ではなかったはずだ。持ち前の根性と行動力で保険の販売において優秀な成績を収めていたが、三人の子供を育て上げるのは容易ではなかったと思う。だが母は姉も兄もきちんと大学まで行かせた。私は末っ子特有の奔放なところがあったのか、大学へは行かず、音楽の道を選んだ。専門学校を出てから数年はバンド活動をしていたが、私は早々に音楽家を諦め、例えば音楽データの販売サイト運営に携わったり、カラオケ音源の制作というような「音楽業界の端っこ」で生計を立てていた。幾つか職を転々とした後、私はある大物演歌歌手の個人事務所に入社した。肩書としてはマネージャーだったが、どちらかというとマネジメントというよりは現場スタッフというようなところで泥臭い業務を担っていた。楽器の心得があったので、その歌手が何か楽器を演奏する際には準備やセッティングを任されていた。コンサートを行う際の舞台スタッフとも仲が良くなり、それなりに充実した日々を送っていたが事務所内の人間関係で拗れ、私はその事務所を退職した。

「あんたもお父さんも、人間関係に不器用なところがあるねえ」

母はそう言って呆れていた。私はその後フリーランスとなり、マネージャー時代に培ったツテを生かしてコンサートや企画を手伝ったり、フリーライターのような仕事も請け負って日々を食いつないでいた。働きたい時に働き、休みたい時に休む。気楽で自由な生活ではあったが、それはそのまま、何の保証もない生活であることも意味していた。文章作成はマネージャー時代から楽しんで取り組んでいた仕事の一つだった。私はまだバンド活動をしていた頃にバンドメンバーに勧められた村上龍の「五分後の世界」を読んで以来、読書や文章作成が好きになっていた。職業的ライターとして活動をしたことはなかったが、業務として例えば何かの挨拶文だとか、新曲の紹介文だとか、コンサートのパンフレットに掲載する文章だとかを執筆したり、あるいは歌手本人のインタビューが掲載される際の校正も担当していた。文章作成の理論だとかコツだとかを誰かに学んだことはないが、直感的にこうした方が伝わりやすい、こうした方がスマートかな、というような事が判断できた。

フリーランスとなった私は日々をそれなりに忙しく、しかし会社に縛られない自由な生活を送っていたが、ある日姉から「母が倒れて入院した」という連絡を受けた私は一時的に実家に戻り、年老いた飼い犬の世話と母の入院先に着替えなどを届ける日々を送っていた。新型コロナウィルスの影響で面会はできなかったが、母と私はスマートフォンのメッセージでコミュニケーションを取っていた。仕事は不定期で時々入ってきたが、仕事は実家の用事に影響が出ない範囲に留めて犬の散歩、洗濯、自炊、そういった穏やかな生活をしばらく続けていた。

「最後に会ったのは二十七年くらい前かな。離婚してからしばらく会ってたもんね」と私は返信した。父と母は離婚したが、子供たちはしばらく父と交流を持っていた。父は栃木県日光市にある日光江戸村というテーマパークに就職し、子供たちだけで日光江戸村に遊びに行ったこともある。母は浅草駅まで子供たちを送り、東武日光線に子供たちを乗せると「お父さんによろしくね」と言って見送った。私はまだ幼かったので母と離れるのが心細く泣いてしまったが、姉と兄がそばにいてくれた。下今市という駅に着くと、刀を差し、ちょんまげ頭をした父が迎えに来ていた。よおー、よく来たなあと破顔する父を見て、私たち姉弟はお父さんがサムライになった、と大笑いした。

母も一度だけ子供たちと共に父の元へ行った。嫌いあっての離婚ではなかったので、再会した父と母は穏やかだった。離婚した原因は幾つかあるだろうが、私が知っているのは父のギャンブル癖である。そもそも母と父が結婚する際にも母の本家は反対し、母は半ば駆け落ちのような形で本家を飛び出した。ギャンブルが原因で結婚を反対されたのかはわからないが、父は賭け事が好きだったようだ。競馬、麻雀、そういったギャンブルで借金を重ね、母は子供たちの将来を思って離婚を決断した。母の実家は土地を多く持つ資産家であったが、ギャンブルによって膨らんだ父の莫大な借金を肩代わりしたと以前に母から聞いていた。以前、離婚をしてしばらくした後の話だが、父が誕生日プレゼントを買ってくれると言うので父に会いに行った。確か中学校に入ったか入る前くらいの頃で、私はその頃釣り竿が欲しかった。父はそれを聞くと車を走らせ、ちょっとここで待ってろ、と私を車に置いて何処かへ行った。その頃はあまりピンと来ていなかったが、父はどうやら場外馬券売り場に行っていたようだ。しばらくして父が上機嫌で帰ってきて、よし、釣り竿買いに行くぞと釣具店へ私を連れて行った。おそらく、競馬で勝った金で釣り竿を買ってくれたのだと思う。その他にも、馴染みの雀荘へついていったり、パチンコ屋へついていったりした記憶がおぼろげにある。

「日光から、確かこの辺に戻ってきていたはずだよね」

母から返信が送られてきた。私は神奈川県平塚市で生まれ、実家はその後母の本家に近い隣の秦野市に引っ越した。時期は不明だが父も平塚に戻っているようだ、というのを風の噂で聞いていた。

「戸籍を調べれば、英二さんがどこにいるのかわかるかもしれない」

私はそう返信した。私も子供ではない。それなりに社会経験を積んだ大人である。ましてや実の息子であれば、実の父がどこにいるのか調べるのはそう難しい話ではないはずだ。

母は何を思って父の消息を知りたがったのだろうか。おそらく、母は多少なりとも最期を覚悟したのだと思う。例えこの入院で死ぬようなことがなくとも、七十歳を過ぎた今、自分の人生において何かやり残したことだとか心残りになるようなことを考えたのではないだろうか。母の病気はリウマチで、致命的な病気ではなかったが病状は軽くはなく、入院はしばらく続きそうだった。母は余りある時間で人生を振り返り、三人の子供と別れた伴侶のことを想った。一度は愛し合って結婚した二人だ。離婚したとは言え、愛なくしてのものではない。だらしないところのある父だけに、母はどこかの路上で一人寂しく死を迎えたのではないかという懸念を抱いたのではないだろうか。理屈で考えればギャンブル癖のある男などさっさと忘れて関係を絶ち、思い出したくもない存在として記憶から消し去るのが一番である。しかし、そこには父と母にしか持ち得ない特別な感情があるのだろうと私は思った。離婚した後も戸川という父の名字を捨てず、その後も戸川なみ子として生き続け、会社を立ち上げる際にも有限会社戸川と命名した母には、父に対する他人にはわからない特別な感情がきっとあったのだろう。

「探してみるよ。実の息子なら、そう難しくないと思う」

私は続けて送信した。母は、そう、サクラは元気、と問いかけてきた。サクラというのは実家で飼っている柴犬で、十三歳と高齢になってきていた。姉弟みな実家を出ていったので、実家にいるのは母とサクラだけだった。時々実家に帰った私はサクラを連れて散歩に行っていたが、以前は軽々と飛び越えられたような段差でサクラがうまく着地できずに地面に体を打ちつけたというようなこともあり、サクラももう年寄りになったんだな、としみじみと実感していた。

「元気だけど、サクラも年取ったね。うちに来た時は手のひらに乗るくらいちっちゃかった。昔ほど速くないけど、まだボール投げれば追いかけるし、ごはんもちゃんと食べてる。サクラの事は心配ないよ」

いっちゃんがいてくれて助かるよ、母はそう送ってきた。私は親不孝だった。定職につかず、音楽のような不安定な業界に足を踏み入れ、実家や育ててくれた母のことなど顧みない人生を結婚もせずに送ってきていた。母に対し、忘れてしまいたくなるような言葉をぶつけてしまったことも数多くある。転々とはしつつも期せずして会社勤め、正規雇用という縛りから解放され、一般社会という舞台からドロップアウトした私を待っていたかのように母は入院した。少しでも親孝行をしなければいけない、私はそう思って実家に戻ったのだった。私が親不孝だというのには他にも理由がある。一つはギャンブルによる借金だ。私は父の遺伝子を受け継いでいた。パチンコやパチスロに没頭した私は借金を重ね、母に泣きついて返済をした。借金は百五十万ほどあったと思う。その時、母は何を思ったのだろうか。夫と息子が同じ悪癖で同じ失敗をする。血は争えない、と呆れただろうか。とにかく、私はできるだけのことを母にしたいと思った。

「明日、平塚の市役所に行ってみる」

私はそう返信し、サクラの散歩に出かけた。


次の日、私は車に乗って平塚市役所へ向かった。十六歳まで住んでいた、見覚えのある風景は少しその姿を変えていた。昔あった店は違う店へと変わり、自転車で走った道も車で走るとこんなに近かったのか、と私は自分が大人へと成長したのを改めて実感した。

役所へ着き案内を見たが、私は役所特有の単語が苦手で、どこへ尋ねればよくわからなかったので総合案内のようなところにいた人に尋ねた。

「あの、昔に父と母が離婚しまして、私はその息子なんですが父が今どこにいるのか知りたいんです。どこかでわかるでしょうか」

私がそう尋ねると年老いたその男は、そういう事でしたら市民課の証明担当へお越しください、と言った。市民課の窓口に行き、同じことを伝えると、戸川さんの戸籍謄本とお父様の住民票をお出しします。失礼ですが身分証明書はお持ちでしょうか、と窓口の女性が言った。私が免許証を提示すると、戸川樹、とがわ、いつきさん?で宜しいでしょうか、とその男は言った。はい、間違いないです、父は英二、戸川英二です、と私は答えた。少々お時間頂きますので、お掛けになってお待ち下さい、と案内された私はしばらく待合所で座って呼び出されるのを待った。待っている間、父の事を思い出していた。私が父の血を引いている、と感じたのはギャンブルが最初ではない。バンド活動をしている頃に読書を始め、主に日本の作家の小説やエッセイなどを読み漁っていた私はある一人の作家と出会った。開高健。「裸の王様」や「輝ける闇」といった名作も勿論読んでいたが、私が開高健に惹かれたのはエッセイだった。グルメで知られる開高健の描写やその奔放な人生をまとめたエッセイはとても魅力的で、大人とはなんぞや、という問いに一つの指針を示してくれたのは開高健のエッセイに他ならなかった。ある日、古本屋で開高健の本を探しているとある一冊の本を見つけた。「オーパ!」と名付けられたその本には釣り好きとしても知られる開高健がブラジル・アマゾンを旅した紀行文が数多の写真と共に掲載されていて、私はそのページを捲った時に既視感に襲われた。この本、見たことがある。そうだ、父が家に残していった本棚にあった本だ。まだ幼かった私は活字よりも写真つきのその本に惹かれ、ピラニアの鋭い牙に戦慄したのを憶えている。父の本棚には他にも大人になってから知った多くの作家の本が残されていた。ドストエフスキー、トルストイ、ソルジェニーツィン、ハインライン、ケイン、そういった海外の作家にも後に触れることになるのだが、まだギャンブルの深い罠に陥る前の私が初めて父の趣味嗜好を遺伝として感じたのは開高健が最初だった。

「戸川さん、戸川樹さん」

呼び出された私は窓口へと赴いた。こちら、樹さんの戸籍謄本となります。そして、こちらがお父様の住民票です。発行手数料として合わせて七百五十円頂戴いたします、窓口の女性は淡々とその書類を封筒に入れ、私に示した。私は手数料を払うとその封筒を受取り、車に戻って封を開けた。

父は確かに栃木から平塚に戻り、そして現在は小田原に住んでいるようだった。そう遠い場所ではない。私はその住民票を封筒に仕舞い、家へと戻った。


「英二さん、小田原にいたよ」

私は母に住民票の画像を送信した。父の住民票にはマンション名と部屋番号が記載されている。行こうと思えば、明日にでも行ける。

「明日、行ってくるよ。会ってくる」

会って何の話をするのだろう。私は想像してみた。私は母の事を「なみ子さん」と名前で呼ぶ。なぜそうなったのかはよく憶えていないが、いつからか「お母さん」よりも「なみ子さん」と呼ぶ方がが私にはしっくりきた。

お久しぶりです、お父さん、なんか違うな。

よお、親父、久しぶり、元気?これも違う。

英二さん、久しぶり、これでいいか。

父と再会したら、という事を今までに考えなかったわけではない。大人になって再会して、酒を飲み交わすのもいいかな、そういう事を考えたことは今までにもあった。しかし、私の人生と父の人生は交わらなかった。私は父を特に必要としなかったし、父からもある時を境にぷつりと連絡が途絶えた。私が中学校を出るか出ないかくらいの頃には私たち一家と戸川英二の間には交流がなくなっていたと思う。私は父に対し、特に良い感情も悪い感情も持っていなかった。私はあの人の血を引いているんだ、とぼんやりと感じるだけだった。


明くる日、サクラの散歩をし、洗濯と朝食を済ませた私は車を小田原へ走らせた。車でおよそ一時間ほどの場所に父は住んでいる。どういう生活を送っているのだろう。マンション名を見るにそう古くなさそうなマンションに住んでいた。仕事はしているのだろうか。そういえば、私は父の年齢を知らなかった。母は私を二十九歳の時に産んだ。父は母よりも少し年上だったと思うが、正確な数字は知らなかった。母は七十になっていたので、父はおそらく七十五くらいだろうか。普通であれば年金を受け取っている年齢になる。父くらいの年齢であればきちんと支払っていれば年金額もそれなりにあると思うが、放蕩な父がきちんと年金を納めているか私は疑問だった。しかしきちんとしたマンションに住んでいるのであれば困窮した生活ではないだろう。色々な想像をしながら私は車を走らせた。

小田原厚木道路へ入り、海岸線へと出る。私が生まれ育った、西湘の海だ。天気はよく晴れている。家には昔から一枚の写真が飾ってあった。まだ父と母が離婚していない頃にどこかの浜辺で撮られたその写真には、砂に半身を埋められて笑う幼い私と笑顔の父、兄と姉はかき氷を食べている様子が写っていた。私はその写真が大磯の海水浴場で撮られたものだと思っていたが、ある日母に聞くと伊豆半島で撮られたものなのだそうだ。私はおそらく幼稚園に行っている頃で記憶はないが、その写真は父が私たちの父であったと雄弁に語っていた。海は好きだった。離婚後の話だが、両親が大磯の海に子供たちを連れて行ったことがある。盆を過ぎていたのか、私は海月にめっぽう刺され、救護所で酢をかけられて応急処置をしてもらった。その時私は「舐め回すように刺されたよ」と両親に言った。母は怪訝な顔をして、小学生なのに変な喩えをする子だ、と感じたそうだが、父はこいつには文才があるのかもしれない、と言っていた。

姉弟だけでも海水浴場によく行っていたが、ある日私は溺れてしまい、兄が助けてくれた。その事があったからなのかどうかは定かではないが、私は中学生になると水泳部に入部した。得意種目はブレスト、平泳ぎで、基本的にプールに入れる夏しか部活動に参加しなかった私は大会のようなものにあまり参加した記憶がないが、数少ない参加した大会で一着を取った覚えがある。きちんと取り組んでいればもっと上を目指せたのかもしれないが、私は自分の命を守れるくらいの泳力があればそれで充分だった。

そろそろ目的地に到着するかな、という頃に一際高いマンションが見えた。どうやら父の住んでいるマンションらしい。私は近くのコインパーキングに車を停め、マンションへと向かった。

入り口はオートロックだったので、インターホンで住民票に記載のある部屋番号を押し、父を呼び出した。何度か押してみたが返答はなかった。どうやら留守のようだ。私は郵便受けを探した。父の住んでいる部屋の番号にはこう書いてあった。


戸川英二

戸川美代子


美代子。知らない名前だ。再婚したのだろうか。私は留守である事を予測してメモを残せるように準備していた。


ご無沙汰しています。息子の樹です。

住民票で住所を調べて訪ねましたが留守でした。

もしよかったら、連絡をください。

090-XXXX-XXXX

戸川樹


私はそう書いたメモを郵便受けに入れた。父にその意志があればこれを見て連絡をくれるだろう。今のところ、他にできる事はなかった。私は車に乗り、その地を後にした。

帰り道すがら、懐かしい道を走っていた。平塚の海沿いに、既に閉まってしまったプールがある。廃業していたが、プールの跡だけは残っていた。このプールにもよく来ていた私は思わず車を停め、故郷の海を眺めた。二十歳で家を出るまでこの地に住んでいた。実家が秦野に引っ越してからも友人の多くは平塚に住んでいたため、私はよく平塚に来ていた。海があり、山があり、川がある平塚。他の人からすればどうということのない町だろう。だがやはり、生まれ育った場所というのは特別なものだ。懐かしい景色はそれだけで感傷を私にもたらした。学校の事、友人の事、家族の事。年々薄れていく故郷の思い出だが、その地に立つと色々な事を思い出していた。

しばらく海を眺め、私は車に乗り込み、実家へと向かった。


「英二さん、留守だったよ。同じ苗字の人と住んでた。美代子さんっていう人。再婚したのかな」

母に送信すると、母はそう、無事に暮らしてるんだ、と返してきた。

「メモを残してきたから、もし英二さんにその意思があれば連絡してくると思う」

会わなくても、いいんじゃない。母はそう返してきた。無事に暮らし、世話をしてくれる人がいるのならそれでいい、と安心しているようだった。

「まあ、せっかくだから。三十年の間、何をしていたのか、聞いてみようと思う」

任せます、と母は送ってきて、昨日は何を作って食べたの、とか、家にある必要なものを持ってきてほしい、とかそう云う雑談をした。父の事には、触れなかった。


次の日、いつも通りサクラの散歩をし、朝食を作り、ゆっくりと過ごしていると一通のショートメールが届いた。

「戸川英二の妻の美代子です。ご連絡いただきありがとうございます。お伝えしたい事がたくさんあります。お会いするのは可能でしょうか」

やはり父は戸川美代子という女性と再婚していた。しかしなぜ父ではなく今の奥さんからの連絡なのだろう、と私は少々疑問に思った。何か、父が直接連絡できないような事情があるのだろうか。私は早速返信した。

「ご連絡ありがとうございます。ご都合の宜しい日時をお伝え頂ければ是非伺わせていただきたく思います」

程なくして、美代子さんから返信があった。

「本日十五時、もしくは明日十時ではいかがでしょうか。小田原駅の東海道線改札口でお待ちしています」

特に用事もない。私は今日行ってしまおうと思った。

「それでは、本日十五時でお願い致します。小田原駅の改札口、確かに承知致しました。後ほどご連絡いたします」

美代子さんからよろしくお願いいたします、という返信があり、私は再び小田原へと向かう準備をした。美代子さん。他人だが、戸川を名乗る父の妻。どういう人なんだろうか。父はなぜ、直接連絡をしてこないのだろうか。色々な事を考えて、私は車に乗った。

小田原駅のそばに車を停め、改札口へと到着した私は美代子さんにメッセージを送った。

「改札口に着きました。ジーパンに黒のジャケット、白いシャツを着ています」

程なくして、こちらに向かって頭を下げる中年の女性が現れた。

「美代子さん、ですか」

「はい」

「初めまして。樹、戸川樹です」

「初めまして。戸川美代子と申します。色々とお伝えしたい事があります。どこか喫茶店にでも入りませんか」

私と美代子さんは駅構内にある喫茶店へと入った。二人共アイスコーヒーを注文し、私はどこから話そうか、と少し考えた。

「再婚、されたんですよね。英二さん、父さんと」

「はい、籍を入れて十年ほどになります」

「父は今、どうしているんですか」

「お父さんは今、入院しています。三年ほど前に交通事故を起こしました。郵便配達の仕事をしていて、私は危ないからやめてと言ったんですがバイクに乗って配達をしていました。ある日事故を起こして、その時に頭を打ったようで脳に影響が出てしまって、それからは子供たちの事も、私の事もよくわからないような状態になってしまい、半分寝たきりのような入院生活を送っているんです。病院も幾つか移りましたが今はこの駅のそばの小泉病院というところに入院しています。コロナウィルスが出てくる前は面会もできたんですが、今は面会もできず私も着替えや生活用品を届けるくらいの事しかできない状態です。その上、面会してもお子さん達の事は忘れてしまっていて、ちょっと顔つきも変わってしまっているのでお会いになられたらきっとショックが大きいんじゃないかと思います」

美代子さんは涙をこぼしながら話した。きっと大変な事がたくさんあったのだろうと私は感じた。父の生まれは確か三重かその辺りで、芸者の息子として生まれたらしい。父の父親、私にとっては祖父にあたる人だが、その芸者を囲っていた教師、というような話を母から昔に聞いたことがある。祖父は大学で文学部を受け持っていたようだった。当時の大学ならば相当な家柄だったのだろうか。教師と芸者は籍を入れず、父は私生児として生まれた。父はその後、養子として高知の家に引き取られ、そこで過ごした。その後神奈川にやってきて、母の本家が持っていた何かの施設の会計士として勤め、母と出会った。母と別れた父は栃木に行ってサムライになったが、高知の家族とも、母や私たちとも疎遠になっていたので美代子さんには頼るべき人がいなかったのだと思う。

「そうでしたか。そんな事があったんですね。色々とお世話になりましてすみません。父に代わって御礼申し上げます」と私は言った。

いいえ、大丈夫です、と美代子さんは涙を拭った。

そう言えば、私は父の乗るバイクに乗せられた記憶がある。当時私は広い敷地を持つ団地に住んでいて、父はスクーターに私を乗せて団地内の広場をゆっくりと走らせていた。バイク。私も中型ではあるが二輪の免許を持っていた。高校生の頃、周りが自動車の普通免許に通い出す中、私はひとり二輪免許の教習に通っていた。普通免許もだいぶ後になって取得したが、車よりもバイクの方が性に合っている気がした。父はバイクが好きだったのだろうか。そして、車よりも二輪の免許を取ると言い出した私を、母はどう思ったのだろうか。

「美代子さんは、いつ父と出会ったのですか」

「英二さんが日光江戸村にいる頃に出会いました。英二さんが江戸村を離れてからもなんとなくご縁がありまして連絡を取り合っておりました。そして十年前、籍を入れて結婚をいたしました」

「失礼ですが、美代子さんはお幾つなんですか」

「五十歳です」

「あ、父は今何歳なんでしょうか。すみません、父親の年齢も知らなくて」

「英二さんは今、七十七歳です」

私は四十歳なので、私は父が三十七歳の時に生まれたということになる。しかしずいぶん年齢の離れた再婚だな、と私は思った。

「父もなかなかやりますね。二十七歳も年下の女性と再婚なんて」と私は笑った。一番上の姉が四十四歳なので、姉と美代子さんは六つしか離れていない事になる。オヤジもなかなか、やるじゃないか。

「いや、色々と教えていただいてありがとうございます。面会できないことはお気になさらないでください。私も父と疎遠になってずいぶん経ちます。今回訪ねたのも実は母が入院してまして、その母が父は今どうしているのか知りたがっていまして、それで役所で調べたんです。母の病院も、コロナウィルスの影響で面会はできていません。母は、世話をしてくれる方がいらっしゃるのなら会わなくてもいいんじゃない、と言っていましたが私にとってはたった一人の父でもありますし、父にとっても私は血を分けた息子です。喜んでくれるかはわかりませんでしたが、拒絶されたり迷惑に思われたりするような事にはならないんじゃないかと思いました。それ以前に忘れてしまってるならどうしようもないですね」と私は言った。

「事故に遭う前には、子供たちに会いたいなあ、とこぼすこともありました」

美代子さんはそう言うと一際大きな涙を流した。

「言ってくれれば、会ったのに、不器用な父ですね」

後ろめたいところがないわけではない。自分のギャンブル癖で母に大きな迷惑をかけた、と考えて連絡を絶ったのだろうと私は思った。おそらく、母は父に対して憎しみを持っていないし、私たち姉弟も父に対して思うところはなかった。会いたい、と言われれば会いに行っていたと思う。しかし父はそうしなかった。私は父の気持ちが少しだけわかるような気がした。つまらない意地を張るところは私にも覚えがあった。そういうところも遺伝しているのかな、と私は考えていた。

「コロナウィルスが落ち着いて、面会できるようになったら必ずご連絡差し上げます。お会いになられるかどうかはその時に決めていただいて結構です。子供たちの事は覚えていないですし、お会いになられてもショックを受けるだけかもしれませんが」

と、美代子さんは申し訳無さそうに言った。入院費もかかるだろうに、大変な人生を押し付けてしまったようで私は申し訳なく感じていた。

「美代子さんは、お仕事は何をされているのですか」

「中学校で国語の教師をしております。小田原の中学校です」

金銭的なところでの援助は必要なのだろうか。母も私も、家を出た姉や兄も決して金銭的に余裕があるという状態ではない。だがそれでも、四人が力を合わせれば父の入院費くらいは何とかなりそうな気がした。

「何か、お力になれるような事があれば何でもおっしゃってください」

私はそう言い、美代子さんと別れた。


「美代子さんに会ってきたよ。英二さんは今、入院してる。頭を打って、俺たちの事は忘れちゃったみたい」

私は実家に戻り、事の経過を報告した。

「美代子さんは、どういう人だった?」母が尋ねる。

年は五十歳、中学校の教師だって。英二さんが日光江戸村にいた頃に出会ったって言ってた。私は端的に伝えた。

ずいぶん若い人と再婚したんだね、と母は感心していた。

「なみ子さんと同じで、コロナウィルスの影響で面会はできないんだって。それ以前に会っても覚えてないからしょうがないかもしれないんだけど、面会できるようになったら連絡しますって言ってた」私がそう送ると母は、まあ、大変そうだけど世話してくれる人がいてよかったよ、と返信してきた。

母はその後、十日程で退院し家に戻った。私は入院生活で痩せ細った母の経過を見つつ、その後も一ヶ月ほど実家に滞在し、母が快復したと思ったところで東京の住まいに戻った。


それから、およそ三年の月日が流れた。

時々、父はどうしているかなと思い出すこともあったが、連絡がないということは面会はできないのだろう、と私は思っていた。

私は相変わらずフリーランスの仕事を続けていて、その日は昼間にNujabesというアーティストの追悼イベントに友人達と出かけていた。仕事ではなく、Nujabesは私が個人的に好きなアーティストの一人で、若くして交通事故で亡くなった。三十六歳だった。そのNujabesの十三回忌イベントを渋谷にあるCÉ LA VI東京という場所でやると言うので、私は初めて聞いたその場所へと赴いたのだった。

CÉ LA VI東京は渋谷駅南口の東急プラザ上階にあり、レストランやラウンジも兼ね備えた場所だった。入り口でパスを手首につけられた私はビールを飲み、友人と談笑し、Nujabesが生前に親交のあったアーティストが出演するそのイベントを楽しんでいた。ふいに、聴いたことのある曲が流れた。The Final View。十三年前、Nujabesが亡くなってすぐに行われた追悼イベントにも私は出かけていた。会場は渋谷の道玄坂にあるクラブで、渋谷駅を降りると早すぎる死を迎えてしまったNujabesを弔うかのようにどこからかThe Final Viewが聴こえてきた。最後の景色。Nujabesは最後に何を見たのだろうか。私は、最後に何を見て死ぬのだろうか。そんな事を考えながら美しいメロディとビートに身を任せていた。

イベントが終わり、友人たちと共に駅へ向かう。夜の渋谷はコロナウィルスの影響も既に薄れ、多くの人出で賑わっていた。終電まで一杯飲んでいこうか、等と友人たちと談笑していると、電話が入った。液晶の画面には、


戸川美代子さん


と表示されている。私は久しぶりに見たその名前に少々驚きながらも電話に出た。

「もしもし」

「もしもし、お久しぶりです、戸川美代子です」

「お久しぶりです、どうしました」

「先ほど病院から連絡があり、お父さんがどうやら今夜、峠みたいなんです」

時刻は二十二時を回っており、そんな時間に電話をかけるというのは何か緊急の用件だろう、と私は薄々感じていた。

「わかりました、ちょっと母にも連絡しまして、また改めてご連絡します」

私は電話を切り、母に電話をかけた。

「もしもし、どうしたの」

母はもう床についている時間だったが、電話に出た。

「夜遅くごめん、英二さんが今晩、峠だって」

「そう」

「どうする、行く?」私は何をどう言っていいかわからなかったが、そう尋ねてみた。

「私はサクラの世話があるから行けない。今の奥さんに、色々ありがとうございますと伝えてください」

サクラは年々衰え、目も耳もほとんど利かない状態になっていた。ほとんどの時間を横になって過ごし、排便も自分ではままならないような状態だった。そろそろかねえ、時々実家に戻ると母は寂しそうにそう呟いていた。

私はどうしようかと考えた。実の父ではあるが、もう三十年も会っていない父だ。明日はやろうと思っていた仕事があるし、今夜父が亡くなるとは限らない。私は暫し逡巡したが、美代子さんにショートメッセージを送った。

「私はこれから父の病院に向かいます。会えないでしょうが、亡くなった後であれば会えるでしょう。今夜は峠を越えるかもしれませんが、その時はまた考えます」

私はそう送信し、渋谷から品川駅ヘ向かい、新幹線に乗ろうと思った。品川から小田原まではこだまで三十分ほどだ。母にも小田原へ行く旨を伝えた。任せます、という返信があった。友人達が、いっちゃんどしたん、と声をかけてくると私は「オヤジが危篤らしい。ちょっと小田原に行ってくるわ」と返した。友人達は細かいことを聞かず、グッドラック、と肩を抱いてくれた。


新幹線にはほとんど人が乗っていなかった。この時間の、しかもこだまだ。私は明日の仕事の事を考えていた。もし英二さんが持ち直したらどうしようかなあ、とぼんやり考えていた。まあいいや、たった一人の父親なんだ。仕事はいつでもできるけど、父親の死に目はこれっきりなんだ。細かい事は考えないようにしようと私は決めた。

小田原駅を降り、ほとんど人気のない駅前を五分ほど歩くと父の入院する小泉病院があった。正面の入口は既に閉まっている。私は裏口にある夜間受付を訪ね、事の次第を伝えた。

「すみません、私はこちらに入院している戸川英二の息子で樹と言います。戸川美代子さんから父が危篤だと連絡を受けて参りました」

宿直の男性は、それではこちらで少々お待ち下さいと言い、私は入り口にある椅子に腰掛けて待った。程なくして、一人の看護師が来た。年は二十代後半くらいだろうか。東南アジアのハーフのようだったが、名札には佐々岡と日本の名字が記されていた。

「戸川さん、ですか?」その看護師が尋ねる。

そうです、と私が答えると、お父様は三日ほど前から高熱が下がらなくて、意識もない状態です。心拍と呼吸もかなり弱っていて危険な状態なんですが、大変申し訳ありません、コロナウィルスの影響で面会はできないんです、とその看護師が言った。会わせてあげたいなあ、と何度も嘆いていた。

「いや、私も三十年ほど父には会っていないので、なんだかよくわからないけど来ちゃったような感じなんです。面会ができないのであれば、私はどこかその辺りにいますので、もし亡くなったら連絡を頂けますか」

私はその看護師に言い、連絡先を伝えた。そう言えば腹が減っていたと思い出した私はとりあえず食事でもするかと近くの牛丼屋へ行き、注文を済ませた。

食べ始めてすぐに、電話が鳴った。

「もしもし」

「もしもし、小泉病院ですが、戸川さんですか」

どうやらさっきの看護師、佐々岡さんのようだった。

「はい、そうです。先ほどはありがとうございます」

「担当の先生に、実の息子さんがいらしていますと伝えたところ、五分だけなら面会しても良いと許可をいただきました。今から病院にお越しいただけますか」

わかりました、すぐに行きますと私は病院へ向かった。夜間受付を入ると、先ほどの看護師が慌てた様子で迎えた。

「先ほど、お父様の呼吸が止まりました」

なんだなんだ、急展開じゃないかと私は病院へと入った。看護師はすみません、コロナウィルス対策でフェイスガードと防護服の着用をお願いしています、と言ったので私は指示に従い、フェイスガードと防護服を身に着け、病室へ入った。


三十年ぶりに見た父の顔は、死に顔だった。

目を閉じた父の顔は、記憶にある父の顔とそう変わらなく、あまり年を取っていないように見えた。シワも少なく、八十歳にしては若い顔なんじゃないかなあ、と私は感じていた。よく見ると父は二重で整った顔立ちをしていた。時代劇の映画俳優のような顔だった。母は父の顔に惚れたのかなあ、などと私は考えていた。心電図はドラマでよく見るようにピーという音を出しており、父の心臓が停止していることを告げていた。看護師は色々と対応があるのか、カーテンで仕切られた共同病室のその空間には私と父の二人だけがいた。私はしばらく、父の顔を見つめていた。


英二さん、久しぶり。


そう心で呟いた。そして、数少ない父との記憶を思い出していた。まだ父が家にいた頃、母は夕食の支度をしていて、父はテレビで野球か何かを見ていた。テーブルにはコップに入った水が置いてあり、私はそれを見つけると一息に飲み干した。変な味がした。父が気づくと、あ、樹が酒飲んだ、と笑っていた。私が初めて酒を飲んだのはその時だった。

しばらくすると、担当の医師がやってきた。

「失礼します、ちょっと確認をさせていただきます」

医師はそう言って父の瞳孔を見たり、脈を探ったりしていた。やがて書類を取り出すと、ご臨終です、ご愁傷様です、と頭を下げて言った。

「時間なんですが、何分にしましょうか」

どうやら私がその時間を決めるらしい。腕時計を見ると、零時十九分が表示されていた。

「じゃあ、零時十九分でお願いします」

私が到着したときには父の心臓は止まっていたが、私は父の死に際にギリギリ間に合った、という事にした。最後、一人ぼっちじゃ寂しいもんな。

「では、零時十九分、ご臨終という事で、ご愁傷様です」

医師はそう言い、それでは準備がありますのでしばらく待合室でお待ち下さい、と指示を受けた私は部屋を出て待合室へ向かった。美代子さんはどうしているだろうか、と思っていた私に、別の看護師が声をかけた。

「お父様のお体なんですが、一旦霊安室にお運びいたします。霊安室からご自宅か葬儀場か、どこかへお運びさせていただくのですが、どちらにいたしましょうか。この辺りの業者のリストがこちらにありますので、お選びください」

私は慌てて言った。

「すみません、私も三十年ぶりに父と会ったもので、今は美代子さんという方が一緒に暮らしています。その方に聞いてみないことには何もわからないので、美代子さんが来るのを待たせてください。連絡してみます」

看護師は、こちらからも美代子さんに連絡をしたのですがお出になられないようでして、大変申し訳無いのですが霊安室にあまり余裕がなく、お早めに業者を決めて頂ければと存じます、と頭を下げた。

私は美代子さんに電話をかけたが出ず、「零時十九分、息を引き取りました。現在諸々準備中で、準備でき次第移送が可能になるようです。ご連絡ください」とショートメールを送信し、待合室で座っていた。そうだ、母にも教えないと。もう寝ているだろうが、私は「零時十九分に息を引き取りました。記憶にある顔とそんなに変わらなかったよ」と母にもメッセージを送った。

しんとした静けさに包まれた待合室で、私は一人座っていた。父との記憶を思い返そうとしていたが、幼かった私に残された記憶は乏しかった。ぼんやりと待っていると、扉を開ける音がした。美代子さんだった。少し憔悴した様子だ。

「お久しぶりです、美代子さん、今移送の準備をしているところで、ここでしばらく待っていてください、との事です」

私は落ち着いて状況を説明した。美代子さんは椅子に座り、樹さんは間に合ったんですか、と聞いてきた。

「私が部屋に入ったときには心臓も呼吸も止まっていたようです。その後、臨終の時間を担当に先生に聞かれ、零時十九分としました。意識はなくても、最期の瞬間に一人ぼっちだったというのも寂しいと思うので、私はギリギリ間に合った、ということにしようと思います」と私はいたずらっぽく笑って答えた。

そうですか、と美代子さんは呟き、放心したように黙ってしまった。何か話さないと静寂に押しつぶされそうだった私は何とか会話を続けようと試みた。

「三十年ぶりに父の顔を見ましたが、思っていたより男前でした。記憶にある顔とあまり変わっていませんでしたが、こんなに整った顔だったんだ、って初めて思いましたよ」

なるべく明るく、なるべく重くならないように話したが、美代子さんは黙って目を伏せて頷くだけだった。そうだ、業者の事を伝えないと。

「あの、今から霊安室に運ぶそうなんですが、そこからどこかへ移送しないといけないみたいなんです。このリストにある業者が近所の業者で、葬儀場か自宅か、いずれかに移送の手続きをお願いします、と病院の方が言っていました」

私は看護師から預かったリストを美代子さんに手渡した。美代子さんはそれをしばらくぼんやり眺めていたが、自分の立場とやるべき事を徐々に実感したのか、「私は、これを手配しなければいけないんですね」と呟くと、電話を取り出し、立ち上がって業者に電話をかけ始めた。美代子さんはそのまま外に出てしまい、私はまた一人で待合室に残されてしまった。人が死ぬ状況に遭遇したことがあまりなかったので立ち回り方がわからなかったが、私はほとんどショックを受けていなかった。実の父親とは言え、三十年会っていない上に生きる上での関わりがゼロであればダメージはないに等しかった。これが母親、なみ子さんであったらどうだろうか。おそらく私は父親の時とは比べ物にならないダメージを負うだろう。きちんと育ててくれた母。心情的にもショックは大きいだろうし、父親のように後処理を誰かに任せるわけにも行かない。私と、姉、兄で始末をつけなければいけないのだ。何となく、マネージャー時代の経験が生きるような気がした。あらゆる可能性を想定し、できるだけの事をする。それは私が大人になって身につけた、信条のようなものだった。


やがて美代子さんが待合室に戻り、先ほどよりも落ち着いた印象で椅子に腰掛けた。私は一つ、懸念していたことを伝えようと思った。

「美代子さん、私は実の息子とは言え、三十年も顔を合わせていなかった人間です。それに比べて、美代子さんにはずっと父の世話をしていただきました。私はここにいるのは全然大丈夫なんですが、もし私がここにいる必要がないと美代子さんが思っていらっしゃるのであれば私はこの場を離れたいと思います」

私は入院費を払っていたわけでも、葬儀の費用を出すわけでもない。父の死に目に立ち会えた時点で私の為すべき事はもう無いに等しい。ずっと父の傍にいた美代子さんが私に対し、今まで放っといた癖によく家族ヅラしてこの場にいられるな、という感情があるのか不安に思っていたのだ。美代子さんは、そんな、いてください、と私に言った。私は無言で頭を下げた。

「英二さんは、ご自宅ですか、葬儀場ですか」

私は聞いてみた。葬儀場に直接移送しようと思います、と美代子さんはしっかりとした口調で答えた。

「わかりました。葬儀の日程が決まったらご連絡いただけますか。母や姉弟が出席したい、と言うかもしれません」

もちろんご連絡します、と美代子さんは答えた。母は出席するだろうか。兄や姉には父が小田原の病院に入院しているという事は伝えてあるものの、この流れの当事者ではない。姉には家庭があり、兄には仕事がある。しかし、実の父だ。最後を見送りたい、という気持ちは多少なりともあるだろう。


しばらく静寂が続くと、エレベーターから看護師が降りてきた。

「只今、戸川様のお体を霊安室に移動致しました。お越しください」

私と美代子さんは地下にある霊安室へ入った。霊安室は温度ではない冷たさに満たされている。冷たく、重く、どこか優しさの混じった空間。私はなぜ、優しさを感じたのだろうと考えてみた。死という、これ以上進むことも戻ることも決してない地点、その終着点が何かからの解放を意味するからなのかな、と思った。

美代子さんは父の遺体を見ると抑えていたものが溢れ出るかのように静かに泣き出し、その体を撫でた。まだ温かい、と手と声を震わせて父の体を撫でていた。

「移送業者のご手配はお済みでしょうか」と看護師が尋ねる。美代子さんは涙を拭い、はい、と答えた。

それでは業者が来るまでしばらくこちらでお待ち下さい、と看護師は退出し、霊安室は私と美代子さんと父だけになった。美代子さんは愛おしそうに父の体を撫でている。何か声をかけようかと思ったが、そっとしておく事にした。父と美代子さんの付き合いも三十年以上になるのだろうか。考えてみれば、私が生まれてから父と過ごした時間よりも、父が美代子さんと出会ってから過ごした時間の方が遥かに長い。きっと、美代子さんは私の知らない父の姿を沢山知っているのだろう。私は父の体を眺めながら、そんな事を考えていた。


何分、そうしていただろうか。ふいに扉が開き、看護師が入ってきた。

「移送業者が到着致しました。これより葬儀場へお体を移動させていただきます。申し訳ありませんが、少々お力添えをお願い致します」

霊安室の寝台から、霊柩車へと体を移す。私は業者の力添えをし、移動を手伝った。

父を乗せた車が出て行くと、それでは私は葬儀場へ向かいます、と美代子さんは言った。私は出来ることもなさそうだったので、それではここで失礼させていただいきます、と美代子さんと別れた。

深夜の小田原駅前、街は静寂に包まれている。時刻は午前二時を指していた。私は今夜の宿をどうするか考え、駅前にあるネットカフェで仮眠を取ることにした。


「いらっしゃいませー」

ネットカフェに着くと、金髪でピアスを無数に付けた女の子の店員が出迎えた。

「ええと、寝られる席は空いていますか」と私が尋ねると、店員は「それではこちらの個室フラットシートはいかがでしょうか、と答えた。横になれれば何でもいい、と思った私は、それでお願いします、と部屋に入った。

ようやく一息ついたような気がした。電話を受けてから四時間ほど、二度とはない時を過ごした私は、小田原という知っているようで知らない街のネットカフェで上着を脱ぎ、フラットシートに横になった。右手首を見ると、「CÉ LA VI TOKYO」というパスがまだ着いたままだった。私は、CÉ LA VIってどういう意味だっけな、とふと思った。Memento Moriのような哲学的な意味が込められていた気がする、と感じた私は目の前のパソコンで「CÉ LA VI 意味」と検索してみた。


"C'est la vie.(セ・ラヴィ、セラビ)は、フランス人がしばしば口にする決まり文句、慣用句。

あえて日本語にするならば、「これが人生さ」「人生って、こんなものさ」「仕方ない」などに相当する。

一般に、諦め顔、悲しそうな顔、達観した顔、難しそうな顔などをして言う(ただし例外的ではあるが、思わぬ幸運などに恵まれた時に 「C'est la vie !」と、明るい声、明るい顔で言うことがないわけではない)。

C'est(セ)はフランス語で「これが〜」「それが〜」という表現で、vie(ヴィ)は「人生」のこと。"


三十年会っていない父の死に目に会えたのも、人生。

ギャンブルで人生を狂わせながらも、病院のベッドで死を迎えられたのも、人生。

一度は愛し合った伴侶の死に目に、実の息子が立ち会えたのも、人生。

奇妙な偶然が、CÉ LA VIと記されたパスには込められているような気がした。

横になった私は、これが人生か、と呟き、瞼を閉じた。


明くる朝、私は新幹線に乗り、東京へ戻った。思っていたよりもぐっすり眠れて、今日予定していた仕事に支障はなさそうだった。

パソコンに向かい、仕事をしていると、夕方に美代子さんからショートメールが入った。

「昨夜はありがとうございました。葬儀の日時が決まりました。○月二十七日、月曜日、十一時三十分から葬儀、十二時出棺です。小田原の火葬場では空きがなく、真鶴の火葬場で出来ることになりました。通夜は行いませんが、今晩から前日の二十四時まで葬儀場で面会が可能です」

私は御礼を美代子さんに送ると、あらましを母、姉、兄に送った。三人とも、葬儀に出席すると回答があった。

その日、私は帝国ホテルで行われるコンサートの手伝いをする予定があった。私は各方面に連絡を取って調整し、仕事をキャンセルした。ここまで来たからには、最後を投げ出す訳にはいかない。美代子さんには「母、姉、兄、私も葬儀に行かせていただきます」とショートメールで送った。

明日は二十六日、実家に戻る予定だった。母の、誕生日だったからだ。


「喪中ですが、誕生日おめでとうございます」

私は明くる二十六日、花とケーキと、プレゼントとして買った木製の食器を持って実家に戻った。

「なによ、喪中って」母は訝しげに言った。

「いや、英二さん、亡くなったのにおめでとうって言っていいのかなあって」

「誕生日は祝ってもいいんじゃないの。お正月とかは祝っちゃいけないし、誕生日は祝うのは良くてもおめでとうって言わないみたいだけど、身内だし、いいんじゃない」

「まあいいや。誕生日、おめでとう」

「ありがとー。嬉しい」と母は喜んだ。

「しかし、母親の誕生日の次の日が父親の葬儀って、なかなかな落差だね」

「そうねえ」

「それも人生、か」

「なに?」

「いや、何でもない。ねえ、英二さんの骨を分けてもらおうと思うんだけど」

「いいんじゃない」

「何か、小さいビンみたいなもの、ある?」

何かあったかしらねえ、と母は戸棚や引き出しを探り始めた。ふとテーブルを見ると、幼い私が砂に埋められている浜辺の写真があった。昔から家にあった、父と、私と、姉兄の写真だ。

「ねえ、これ伊豆の海だっけ」

「そう。明日、一緒に焼いてもらおうと思って」

「これ、一枚きりの原本でしょう。コピーして、それを焼いたら?写真屋に持っていけば複製してくれるよ」

「俺、行くけど」

突然声がした。いつの間に兄がリビングの端に立っていた。

「びっくりした。来てたんだ」私は久しぶりに会った兄に声をかけた。

昨日からいたよ、と兄は写真を手に取った。確か伊勢原の駅前に複製してくれる写真屋があったから、ちょっと行ってくるよ、と兄は写真を持って出ていった。入れ替わりに母の妹、叔母が入ってきた。

「あら、いっちゃん、来てたの。おかえり。何探してるの?姉さん」と歩いて五分ほどの場所にある本家に住む叔母は言った。

「樹が英二さんの骨をもらおうって言ってて、手頃な小さい瓶がないかなって」

「あ、瓶に入れるなら中に脱脂綿か何か入れといたらいいよ。私も主人の骨をビンに入れて持ち歩いてたんだけど、カラカラ音がするのよね。気になっちゃって。死んでも一緒にいるみたいで」と、十年ほど前に伴侶を亡くしている叔母は豪快に笑った。

死んでも一緒にいたいから骨持ち歩いたんじゃないのか、と私は心の中で突っ込んだが、確かに見た目にも脱脂綿が入っていた方がよさそうではあった。

「うーん、手頃なのがないや。いっちゃん、あとで夕飯の買い物ついでに瓶買いに行こう」と母は言い、叔母と生前の父の話を始めた。叔母は母を長姉とする三姉妹の末っ子で、半ば駆け落ち気味に家を飛び出した母や普通に結婚して家を出た次姉に代わって婿を取り、祖父亡き後は本家を継いだ。私は本家からすれば借金の肩代わりをしたろくでなしの子供、という事になり肩身の狭い立場ではあるのだが、幼い頃から幾度となく本家に遊びに行っても迫害されるようなことはなかった。当主である祖父や祖母からすればろくでなしの子であれど可愛い孫、叔母夫妻にとっては可愛い甥、といったところだったのだろうか。

「けど、いっちゃんもすっかりおじさんになったねえ。昔は女の子みたいに可愛かったのに」と叔母が言った。今の私は坊主頭に無精髭というおじさんらしいルックスをしていて、年相応に老けていた。坊主頭にしたのは生え際が後退してきたからだ。カツラや植毛、育毛といったものに興味のなかった私はバリカンを買い、頭を短く刈り込んだ。Mの字になった額を見て、オヤジもこんな禿げ方をしていたなあ、としみじみ感じていた。

もう四十三歳なんだよ、と私は言った。

そして、母は七十三歳になった。七十三歳。私が物心ついた頃、母は三十代だった。私が育ててくれた母のことを顧みず、親孝行もしないうちに、いつの間に、七十三歳になっていた。


母は、いつまでいてくれるのだろうか


母は、いつまで生きていてくれるのだろうか


夕食の後、ケーキに顔を綻ばせる母を見て、私はそんな事を考えていた。




○月二十七日の朝は、雲ひとつない快晴だった。

私は兄、母と共に朝食を取り、喪服へと着替えた。サクラは母の古くからの友人で、私もよく知っている人が留守番がてら面倒を見てくれるとのことだった。姉が来ると、久しぶりの戸川家集合となった。一家は兄の運転する車に乗り込み、小田原へと向かった。

道中は賑やかだった。姉は父の死によるショックなどどこ吹く風といった調子で、いっちゃんは死に際に間に合ったの、とか、もうちょっとちゃんとした服なかったの、とか、なみちゃん誕生日おめでとう、などと一日遅れの母の誕生日を祝ったりしていた。兄は黙々と運転し、母は久しぶりに着た礼服が変じゃない?とか、美代子さんってどんな人なんだろうね、などと話していた。一家が揃うのは三年前の母の誕生日以来だった。古希を祝うために私と兄、そして姉と姉の子供でホテルのレストランに行き、会食をした。姉弟間には交流はほとんどない。三人とも家を出て、それぞれの世界で暮らしている。世界。私には私の世界があり、兄には兄の、姉には姉の世界があった。価値観が違えば、環境も違う。同じ屋根の下にいるのならば話は別だが、別々に暮らしていれば必要最低限の交流で充分、そんな姉弟だった。

小田原に到着し、駅前の斎場へ向かう。仕事で何度か訪れたことのある小田原に、こんなに速いペースで再訪するのは初めてだった。あの夜を思い出す。連絡を受け、ほとんど人通りのない小田原の道を歩いて父の入院する病院に向かう。三十年ぶりに会った父を送り出し、寝静まった小田原の道を歩く。静かな夜だった。

斎場へ到着し、受付で案内を受けた私たちは部屋に向かった。そこには、棺桶に収まった父と、喪主である美代子さんがいた。私は美代子さんとも、父とも既に会っていたので動揺はなかったが、母と姉、兄は初めてだ。母と姉は静かに、とても静かに泣き出した。兄はあまり感情を強く出さない性格だが、強い目でじっと父の顔を見ていた。挨拶もないままに、斎場の係員がてきぱきと次第を進める。何か一緒に旅立たせるようなものはお持ちでしょうか。係員のその言葉を聞くと母は鞄から昨日コピーした砂浜の写真を取り出し、棺桶に入れた。美代子さんは、父がよく被っていたのだろうか、麻のような素材の中折れ帽とニット帽を父の躰に載せた。似たような中折れ帽をよく被っていた私は思わず言った。

「美代子さん、その帽子、中折れ帽の方をよかったら僕にくれませんか」

虚を突かれた美代子さんは一瞬驚いたようだったが、すぐに微笑んで、はい、是非、と言い、私に中折れ帽を渡した。

「すみません、ありがとうございます。ご挨拶遅れました、母のなみ子、姉の麻美、兄の耕太です。この人が、英二さんの今の奥さんの美代子さんです」

初対面の挨拶を促すと面々は互いに頭を下げあった。美代子さんは「わざわざお越しいただき、ありがとうございます。戸川美代子と申します」とはっきりとした口調で言った。部屋には我々以外の弔問客はなく、父は美代子さんと私たち四人で弔うようだった。

斎場の係員が「暫くの間、ご家族だけのお時間を設けさせていただきます。予定時刻に火葬場へお運び致しますので、どうぞそれまでお別れをなさってください」と部屋から退出した。我々は改めて棺桶に収まった父を見た。

「なんか、あんまり変わってないね」

姉が言った。姉は年が一番上なので父との記憶も姉弟で一番多く持っているのだろう。

「でもやっぱり、生え際も後退してるし、髪も真っ白だし、年取ったんだね」

母がしみじみと言った。母も父の顔を見るのは三十年ぶりだろう。父は三十年、どう生きていたのだろうか。それを知っているのは美代子さんだけだ。美代子さんは大小さまざまなアルバムを持ってきていて、よかったら写真を持ってきましたので皆さんでご覧になってください、と私たちに手渡した。

父は色々なところに出かけていた。北海道、東北、北陸、関東、中部、近畿、中国、九州、沖縄、そして故郷である四国。

「なんか、一人で写っている写真が多いですね」

私は写真を見て言った。美代子さんは、「一人で旅行に行くのが好きな人だったので、撮影も自分でしていました。おかしいですよね。カメラを立てて、一人でポーズ取って写真撮ってたんです」と笑った。どこかはわからないが、どこかの山中のようなところで岩に腰掛け、親指を立てている父を見て姉は吹き出した。

「一人でかっこつけちゃって。これはどこかな」

それは松尾芭蕉の『おくのほそ道』を巡りたいと言って出かけた場所なので、たぶん平泉だと思います、と美代子さんが言った。

「やっぱり、文章というか、文系のものが好きだったんですか?」と私が尋ねると、ええ、そうですね、本も沢山読んでいました、と美代子さんは答えた。

「僕がすごく心に残っているのが、父が残していった本棚に本が沢山置いてあったんです。まだ小さかったので全然読まなかったんですが、成長して僕も色々な本を読んでいる時に、父と同じ本を買っていた事があったんです。開高健っていう人の本」

ああ、そうですね、好きな作家でした、と美代子さんが言った。

「産みのお父様が大学の、文系の教授だったと聞きました。その血を引いているのかもしれません。樹さんも」

アルバムをめくると、競馬場の前で撮られた写真があった。

「あ、競馬場行ってる。ギャンブルからは抜け出せなかったかあ」と私は笑った。

「僕、一人で旅行に行くのが好きっていうの、わかるんですよ。ギャンブル好きは一人で過ごせるんです。僕もそうだからよくわかります」と私が言うと、ちょっと、もうギャンブルは勘弁してよね、と事情を知る姉が釘を差した。

「競馬はほんの趣味程度で、どこかに出かけるのが好きな人でした。他にも二十年ほど前でしょうか、元々泳ぎは達者だったと思うんですが改めて水泳を始めて、町内の大会に出て優勝したりしていました」と美代子さんが言った。

「この子も水泳やってました。やっぱりあんたが一番お父さんに似てるのかもね」と母が言った。ギャンブル、読書、水泳。私の中の父の血が、それを選ばせたのだろうか。

種目は何でしたかと私は聞いた。何となく、予想はついた。

「平泳ぎでした」

僕と同じですね、と私は苦笑した。

「それと、樹さんが音楽の学校に進まれたと聞いた時も、俺に似たのかなあ、と笑っていました」と美代子さんが言った。

「父は、音楽好きだったんですか?初めて聞きました」と私は驚いた。我が家に音楽の色はあまりなく、私は自分で色々な音楽を探し出して聴いていた。

歌うのは好きだったけど、と母は言った。考えてみれば、母が父と出会い、結婚し、そして別れるまで十年あまりだ。長くても十五年はない。様々な問題や子育て、生活に追われる夫婦には互いを隅々まで知る余裕はなかったのかもしれない。

「なみ子さんと出会う前はギターを爪弾いてよく歌っていたと聞きました。ビートルズとか、ボブ・ディランとか」と美代子さんは言った。

「大人になって、英二さんと酒飲んだらどういう話になるんだろう、って考えたこともあります。ビートルズだったら僕もよく分かるし、一度、飲んでみたかったですね」と私は言った。今となっては叶わぬ願いとなってしまったな。


そうこうしていると、斎場の係員が部屋に入ってきた。

「皆様、そろそろ移動のお時間となります。棺桶を閉めさせていただきますので、最後のお別れをお願い致します」と係員は私たちに促した。

私は心の中で、英二さん、俺はどうやらあなたの血を色濃く引いていたみたいです、一度話してみたかったよ、とつぶやいた。棺桶が閉まり、霊柩車へと運ばれていく父と共に私たちも外に出た。美代子さんは霊柩車に乗っていくようだ。そうだ、お骨の事を言っておかないと。

「美代子さん、父が荼毘に付せたら、お骨を少し分けていただいても宜しいでしょうか」

私がそう言うと、美代子さんはもちろん、と頷き、車に乗り込んだ。

「では皆様、我々が先導いたしますので着いてきて下さるようお願い致します」と係員が言い、私たちは兄の運転する車に乗った。

道中は渋滞していて思ったよりも時間がかかりそうだった。相模湾を望む海沿いの道を、父と私たちはゆっくり進んだ。

「最近の霊柩車ってさ、霊柩車っぽくないんだね」と、私は前を走る父が乗ったミニバンを見て言った。

「あんまり霊柩車っぽいとイメージが悪いみたい。ほら、親指隠せとか言うじゃない」と母が答えた。以前の霊柩車は仰々しい装飾が施されていて、ひと目で霊柩車とわかったものだが、父が乗るミニバンは一般的な自家用車と変わりがなかった。時代は変わる。私は、幼い頃の風景が過去のものとして風化していってしまうような気がして少し寂しい気持ちになった。仰々しい霊柩車、店先にゲーム機の置いてある駄菓子屋、駅のホームにある灰皿、小学校の給食で毎日のように出てきた、大して美味くもないコッペパン。そういう脈絡のない映像が私を頭の中をぐるぐると回っては消えた。窓の外に広がる、きらきらと光る海だけはあの頃のままだ。そして、これからもきっと変わらないのだろう。ずっと、ずっと、母がいなくなっても、私がいなくなっても。


火葬場へ着き、父の棺桶が無機質な火葬炉へと入る。

そこには確かな「死の匂い」がした。私があの夜、病院の霊安室で感じたような、確かな死の匂い。ひんやりとしていて、重みのある、残酷なまでに嘘のない、まっさらな死。

焼香を済ませ、父の棺桶が火葬炉に入る。ゆっくりと、低い音を立てて、火葬炉の扉が閉まる。私たちは静かにそれを見守った。

火葬を待つための部屋には弁当が用意してあり、私たちはそれを食べた。火葬場は人里離れたとまではいかない、民家がぽつりぽつりとあるような山中にあって、海が見下ろせた。窓からは柔らかな冬の日差しが差し、じきに訪れるであろう春の到来を予感させていた。

けっこう良いお弁当だね、などと話しながら私たちと美代子さんは時間を過ごした。

弁当を食べ終わり、お茶を飲んでその時を待つ。母と美代子さん、姉は生前の父の話をしている。

「樹、タバコ一本くれるか」

兄がそう言った。私たち一家は全員、喫煙の経験がある。母も仕事をバリバリやっていた頃はタバコを吸っていたし、姉も兄も一時期吸っていた。私は高校生の頃からタバコを吸っていて、学校に見つかり謹慎となった事もある。母は大して怒らなかった。兄は日常的には吸っていないようで、唯一日常的にタバコを吸っていた私は兄と共に喫煙所に向かった。

「どうだった、英二さん」とタバコを吸いながら私は聞いた。

あまり口数の多くない兄は運転していたせいもあり、道中も話をほとんどしなかった。進んでは話さないが、聞けば答える。何も考えずにいるのではなく、きちんと考えている。自分の考えを持っている。兄はそういう性格だった。

「そうだなあ、俺も三十年ぶりだし、いまいち実感はないな。でも、俺のほうが樹より少しだけあの人と過ごした時間が長いと思うから、樹よりもちょっとだけ思い出も多いのかもしれないな」と兄は言った。

私はギャンブルや文章といった要素から自分が一番父に似ているのかな、と思っていたが、母に聞くと「中身はあんた、外見は耕太が似てる」と言っていた。私の記憶にある父の顔や数少ない写真の顔を見ても兄と父が似ていると思ったことはなかったが、母がそう言うのであればそうなのだろう。兄は四十五歳になっていて、ちょうど私たちが日光江戸村に遊びに行った頃の、ちょんまげ頭をしていた頃の父と同じくらいの年齢だった。

その頃の父を思い出してみた。今の兄とは似てないな、と私は思った。


母たちの元へ戻ると、火葬が終わったと係員が告げていた。

私は昨日購入した小瓶を用意し、父の元へ向かった。手の親指ほどの大きさの小瓶。中には脱脂綿が詰めてある。

父が乗っていた台車の傍には骨壷が置いてあり、既に係員が大部分の骨を入れたようで、台車には僅かな骨が残されている。最後の仕上げとして、皆様に残りの骨を入れて頂きます、と係員が説明した。

「お年の割にはしっかりとしたお骨になっておりまして、えー、こちらが下顎ですね。ほら、しっかりとした顎でしょう。こちらが鼻、こちらが目の上の部分の骨ですね」などと研究員のような風貌の係員が説明した。私たちは二人一組になり、箸で骨を摘んで骨壷に入れた。食事の時に「箸から箸に渡してはいけません」と言う母の言葉が頭をよぎる。そうだった、お骨を拾う時にすることだから食事ではしてはいけないことだった、と私はそんな事を考えながら骨を一つづつ骨壷に収めた。

「あの、すみません、小さい骨をこの瓶に入れたいのですが」

私は係員に告げた。そういう事でしたら、手頃なお骨をどうぞお持ちください、と係員が言うと、私は小指の先ほどの長さの小さい骨を小瓶に入れた。英二さん、ちょっと窮屈だけど、ここでのんびりしててよ。

骨を全て骨壷に収め、美代子さんがそれを受け取る。骨は高知の父の故郷に墓を用意してあるのだと言う。高知。ちょっと行くには遠すぎる場所だが、私は年に一回あるかないか、仕事で四国に行く時があった。それは高知だったり、愛媛だったり、香川だったり、徳島だったりしたが、もし高知に行くことがあれば父の墓参りをしようと思った。私たちは美代子さんに墓地と大体の墓の場所を教えてもらい、一家で共有した。

姉が、じゃあ、私は電車で帰るよ、と先にタクシーで出た。子供が帰ってくる時間なのでそれまでに帰らないといけないようだ。姉の家は埼玉で、ここからだと新幹線を使っても二時間ほどはかかるだろうか。兄は町田、私は目黒に居を構えていて、実家からはそう遠くはない。ないが、一家が揃うことはほとんどなかった。次に姉に会うのはいつだろうか、私はそんな事を考えながら姉を見送った。

私は改めて美代子さんに挨拶をしようと思った。全ては母の一言から始まった父探し。父は亡くなり、不思議な関係性の美代子さんが残った。

「色々と、本当にありがとうございました。父が穏やかに死を迎えられたのは美代子さんのお陰です。長い間、大変な苦労をおかけしたかと思います。父に代わって御礼申し上げます。ありがとうございました」と私は今までにしたことのないほど堅苦しい挨拶をした。まあ、こういうのもたまにはいいじゃん、ね。

「こちらこそ、会いに来てくださって本当にありがとうございます。樹さんがあのメモを残さなければ私は一人きりで英二さんを見送らなければいけませんでした。お子さんと、なみ子さんに見送っていただけて、英二さんも幸せに旅立てたと思います。ありがとうございました」と美代子さんは言った。

兄もありがとうございました、と頭を下げる。母は何か言いたそうにしていたかと思うと、「あの、落ち着いたら、よかったら、美代子さんが宜しければ、お茶でも飲んでお話しませんか」と言った。美代子さんは少し迷ったようだったが、「ええ、是非」と笑った。

じゃあ、帰ろうか、と私は言った。三年前を思い出す。母からのメッセージ。美代子さんとの出会い。父の現在。そして、父の最期。できるだけの事は、できた。私はそれで満足だった。

車に乗り込み、秦野へ向かう。夕陽が綺麗に相模湾を染める。その時、私の脳裏に幼い頃の思い出が浮かんだ。昔、まだ私が幼稚園くらいの頃だったのだろうか。母は私を自転車の後ろに乗せて坂道を登っていた。よいしょ、よいしょと声を出しながら自転車を漕ぐ母の後ろで、私は夕陽に目を細めていた。


あれは、どこの坂だったのだろう

あれは、どこに向かう途中だったのだろう

あの時大きかった母の背中は、ずいぶん小さくなった

もう、俺が後ろに乗せて走らなきゃいけないんだ

とっくにその時は来てるのに、俺は




兄の運転で実家に戻ると、サクラと母の友人が出迎えた。

あ、塩もらってないね、と母は友人に塩を持ってきてもらい、肩にかけてから家に入った。礼服から着替え、座ってお茶を飲む。兄は「じゃあ、明日も仕事だし、帰るよ」と出ていった。

運転お疲れ様、と私は声をかけた。兄は後ろを向いたまま、手を上げて振った。

母と友人が雑談をしている。父の話、昔の話、サクラの話。もう六十年近い付き合いの二人だ。話し込んでいる二人を横目に、私は夕食の支度を始めた。料理は苦ではなかった。材料を見て、全体図を描く。私にとって料理とは、そういうものだった。


「じゃあ、帰るよ」

夕食後、私はいつものように母ときりのいいところまでテレビを見て、言った。

「もう帰るの」

働かなきゃいけないからねー、と私は身支度をする。サクラと一緒に駅まで見送るよ、と母も支度を始めた。

何度も通った駅までの道を、母と歩く。サクラはもう歩けないので、母が抱えている。二人の足音だけが響く、夜の道。



次はいつ帰ってくるの



どうかなあ



ちょくちょく帰ってきてよ



うん



仕事はどう?



ぼちぼち



お金は大丈夫?



大丈夫



あんまり遊びすぎないでね



うん



改札を越え、母に手を振る。母はサクラに手を振らせて、気をつけてね、と言った。

夜の小田急、上り、新宿行き。人はまばらだった。



~~



「ただいま」

父の葬儀から一ヶ月ほど経ったある日、私は実家に戻った。特に用事があるわけではないが、戻った。

「おかえり」

母がいつものように返す。

「何か食べたいもの、ある」と母が続けた。

別にない、ご飯と、味噌汁と、魚か何か焼こうか、と私は言う。

せっかく帰ってきたのに、普通だね、と母が笑う。

こういうメシって一人暮らしだと食べないんだよ、と私は返す。


初春の風がカーテンを揺らし、家を吹き抜ける。

母は横になっているサクラに、今日はいい天気だよ、と話しかける。

出窓にはたくさんの写真が置いてあった。祖父の写真、祖母の写真、英二さんの写真、サクラの写真、姉の子供、つまり母の孫の写真、姉、兄、そして私の写真。

そこに、母が新しい写真を置いた。

父の中折れ帽を被った、私の写真だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

CÉ LA VI @apollo37

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ