さくら

ヤタ

さくら

 突然、強い風がふいて、あたり一面に艶やかに光るピンク色の景色がひろがった。さくらの花びらだ。

 日曜日の昼下がり。コンビニからの帰り、桜並木の途中のことだ。色あざやかなピンクの花びらたちが、春の穏やかな陽射しのなか、透明でやわらかな光をあび、ひらひらと色彩豊かに舞い上がっている。

 川沿いの土手、立派に育った木々の端々から地面に向けてゆるやかなカーブを描く無数の枝に、あざやかにひらいたさくらの花がピンク色のアーチを架ける砂利道では、スマホを片手に写真を撮るカップルや家族連れが花見を楽しんでいる。この道の向こうには公園もあり、そこでは弁当を持参したたくさんの観光客でにぎわっていることだろう。

 そういえば、昼めしを買うのを忘れたな。アパートにある空っぽの冷蔵庫をおもいだした。いま手にぶらさげているコンビニのビニール袋には、缶ビールしかはいっていない。休日には、真っ昼間からビールを飲むのが、会社に勤めてからできたルーティンだった。

 昼食のためにコンビニにもどるのか、それとも、このままアルコールで空腹を満たすのか。迷って、歩く足をとめると、目のまえに、ひとりの少女がいることに気がついた。

 さきほどまではいなかったはずだ。まるで手品のように、いきなりそこにあらわれたのだ。いや、もしかしたらはじめからいたのかもしれない。さくらの花びらに見とれて気がつかなかっただけで。

 うすいピンク色のワンピースにサンダル。ちゃんと両足が地面についていた。すくなくとも、幽霊ではないだろう。腰まで伸ばしたくせのないストレートの黒髪が、ゆるやかな風になびくたび、つややかな光沢がそのなかを流れていった。

 少女は、あごを上げ、手を伸ばしても届かない高さにあるさくらの枝をじっと見つめていた。美しい横顔だった。長いまつ毛がかすかにふるえている。舞い散る花びらとあいまって、その姿はまるで、ひとつの絵画のようにさえ錯覚させた。

 ふいに、その絵がうごいた。顔だけがこちらに向けられた。まだ若い。そう思った。十代、おそらく高校生くらいだろう。整った顔立ちに幼さがのこっていた。

「ねえ」

 凛と澄んだ、よく通る声だった。伸ばした右手の人さし指で、さくらが咲き乱れている枝をさし、言葉を続けた。

「あれ、とれないの」

 彼女の白く細い指のさきに目を向け、僕はたずねた。

「どれのこと?」

「あの、ぴかぴか光るやつ」

 最初、その意味がわからなかった。しかし、見続けているうちに、理解しはじめた。

 枝に沿って配線されている細いケーブル、そこに吊るされた透明で小さな楕円形の球体。イルミネーション用のLED電球だ。

 この川沿いの桜並木では、夜になるとライトアップされ、反射したイルミネーションが水面にあざやかに映るのだ。

 僕は答えた。

「多分、無理じゃないかな」

「そっか。やっぱり」

「どうしてあれが欲しいの?」

「欲しいんじゃなくて、いらないの」

 腕をさげ、友人に挨拶をする程度の気軽さで、彼女は告げた。

「わたし、さくらの妖精なの」



 沈黙が訪れた。

 まるでエアポケットのように、ふたりのあいだにだけ、時間が止まったような錯覚さえ覚える静寂だった。

 にぎやかなカップルが通り過ぎていったあと、彼女が口をひらいた。

「なにいってんの、って顔ね」

 ややあってからうなずいた。

「まあ、そうだね」

「べつに、信じてもらわなくてもいいわ」

 両手を腰にあて、あきらめたような達観さで、そっぽを向いた。

「あなたがどう思おうと、わたしが妖精なのは変わらない事実なのだから」

「信じてないわけじゃないさ」

 かぶりをふり、弁明するような口調でいった。

「ただ、おどろいていたんだ。いままで、妖精といった存在と会うことがなかったからね。それに」

「それに?」

「妖精ってのは、もっと小さいものだと思っていた」

「背中から羽が生えて、空を飛んでるような?」

 うなずいた。

 彼女が、唇の端を上げた。無知をあざけるようなシニカルな笑みに見えた。

「普段はそうなのよ」

 それから、出来の悪い生徒に説明するような口調で続けた。

「でも、その姿で外部と接触したら問題が起きるじゃない。じっさい、むかしはそういうのがあったみたいだし。だからみんなで話し合って、人間さんとおしゃべりするときは、おなじ格好に変身するようにしようって決めたの」

「妖精の世界にも、ルールがあるんだ」

「あたりまえじゃない」

 口をとがらせた、すこし苛立った響きの声がかえってきた。

「どんな世界にも決まりごとは必要でしょ。みんなが好き勝手にやってたら、いつか争いが起きて収集がつかなくなるわ。共存するためにはルールが必要なの。あなたたちだってそうでしょう」

「まあ、たしかに」

 僕は、曖昧な返事をした。

 たしかに、世の中には決まりごとが多い。多すぎるほどだ。学校にも会社にも、どこにでもルールは存在している。その鎖にがんじがらめにされ、身動きがとれなくなり、身も心もすり減らして、それでも生きていかなければいけない。それが人間社会だ。そして、どうやら妖精もそうらしい。ファンシーな印象とは正反対なところで、彼女たちも生活をしているのかもしれない。

 風にふかれ、ゆれる前髪がうっとうしいのか、彼女は頭をふって払い、さくらの枝の電球に目をやった。

「あれ、どうやってもとれないのかしら」

「きみはどうして、そこまでイルミネーションをはずしたいの」

「鬱陶しいからよ」

 怒気をふくんだ声がかえってきた。妖精とはずいぶん感情豊からしい。

「あなただって、夜になったら光るもので、手足をぐるぐる巻きにされたら迷惑で邪魔でしょう」

 想像してみた。たしかにそうだ。

「そもそも、どうしてそんなことをするのかしら」

「イルミネーションのこと?」

 彼女がうなずいた。

「だって、そんなことをしなくてもさくらの花は綺麗じゃない」

「美しさを、より際立たせるためかもしれない」

「それ、なんていうか知ってる?」

 首を横にふった。

「大きなお世話」

 唇をとがらせ、ほほをふくらませ、おおいに不満げに言葉を続けた。

「自然の美しさに人工的なものをくわえるのって、とっても不自然じゃない。そもそも、そんなことをする必要なんてないのよ。夜は、月のかがやきと星のきらめきがあれば、それだけでいいのだから」

 僕は空を見上げた。ゆっくりと雲がながれる、穏やかな陽光がふりそそぐ青空。しかし日が暮れれば、暗闇にすべてが包まれてしまう。

「でも、最近は星が見えなくなってきたよ」

「あなたたちのせいでしょ」

 彼女の目がつり上がった。

「木を切り、自然を破壊し、有害ガスを排出する。そのせいで大気が汚染されて、星が見えなくなってしまった」

 僕は肩をすくめた。

「まさか、妖精から環境問題を指摘されるとは思わなかったな」

「妖精だからこそ、よ。わたしたちは何百年も生きているの。そのあいだ、人間さんは文明を発展させ、生活を便利にし、それと同時に大切ななにかを失った。ねえ、聞いてる。あなたたちは・・・・・・」

 長々と続く呪詛のような説教を聞き流しながら、ふと思った。休日の午後、うららかな春の陽射しのなか、妖精を名乗る少女に出会う人間はどれほどいるのだろう。すくなくとも、そう多くはいないはずだ。そういった意味では、運がいいのか悪いのかはべつとして、貴重な経験なのかもしれない。

 ふたりのあいだを、親子連れが通り過ぎていった。ばんざいをするように両親と手をつないだ小さな子供が、ちらりと不思議なものを見るような視線を向けてきた。痴話喧嘩のカップルだと思われたのかもしれない。

「あなた、なにをもってるの」

 彼女が、僕が手からぶらさげているコンビニのビニール袋を目ざとく見つけ、興味津々にたずねてきた。大気汚染による環境問題はもういいらしい。

「ああ、これ。缶ビールだよ」

 ビニール袋を上げ、答えた。

「家に帰ってから飲もうと思って」

「まだお昼よ」

「もうお昼さ」

 呆れたような顔の彼女が、まるで舞台俳優のようにおおげさに肩をすくめた。

「さびしい人なのね、あなたって。こんないいお天気の日に、家にこもってお酒を飲むだけなんて。そんな非生産的なことはやめて、もっと有意義にすごしたら?」

 自分でもはっきりとわかるほど、僕は苦笑をもらし、たずねた。

「それ、なんていうか知ってる?」

「知らない」

「大きなお世話」

 一瞬、虚をつかれたように目を点にした彼女はしかし、まばたきをした次の瞬間には、にやりとした笑みをうかべていた。

 僕らのあいだを、手をつないだ若いカップルが横切っていった。男のほうが肩にリュックサックを背負っている。このさきにある公園で、弁当を食べながら花見を楽しむのかもしれない。

 彼女が、前髪をかきあげた。そのとき、ふと気づいた。顔が大人びている。少女の面影を残したまま、美しく成長したかのように。

「そろそろ時間みたいね」

 その声も、凛とした響きはそのままで、さきほどより落ち着いているように感じられた。

「時間って?」

「この姿でいられる時間。さっきいった妖精のルールのひとつ。わたしたちは、人間さんとおはなしするとき、制限時間をもうけているの」

 彼女がほほえんだ。穏やかで柔和な微笑だった。

「ねえ、最後にひとつだけ、いいかしら」

「どうぞ」

「あなたはどうして、お昼からお酒を飲むようになったの?」

 返答に困った。沈黙の逡巡が生まれた。大きな瞳がまっすぐこちらに向けられている。吸い込まれそうな黒い瞳のなか、純粋な色があった。それはむかし、僕のなかにもあったもので、いまはもう、失くしてしまった色のようにも思えた。

 かぶりをふり、僕は答えた。

「たいしたことのない話だよ」

「どうぞ」

 こちらに向けられる手のひらに、苦笑をかえしながら、話しはじめた。

「いまの会社に入社して、一ヶ月後くらいに歓迎会をしてもらったんだ。はじめての酒の席だった。そのとき、当時の上司だった人がパワハラ気味でね。アルコールがはいると、とくにひどかった。ビールを勧められて断ると、おれの酒が飲めないのか、と怒鳴るし、その人にビールを注がないと、だからおまえは仕事ができないんだ、と文句をいわれたりするんだ」

「そんな前時代的な人、まだいるんだ」

「貴重な化石みたいなもんさ。二言目には、おれの時代は、だからね。それでまあ、そのときの飲み会で、どうやら、ぼくはもどしたみたいで」

「吐いたってこと?」

 うなずいた。

「そう。吐いた。しかもテーブルの上に。といってもほとんど記憶がなくて、どういう状況でそうなったのか、おぼえてないけど。問題はそのあとさ。あの日以降、そのことでずっとからかわれ続けて、そのたびに、とても嫌な気持ちになる」

「ふうん。でも、それだったら、ビールをきらいになるんじゃないの」

「最初はそうだったよ。飲み会にも参加しなくなった。でもなぜか、次第に悔しくなってきて、見返してやろう、という気持ちになったんだ」

 歓迎会あとの数日間は、人生のなかでもっとも最悪な時期だった。吐いたことを何度も繰り返し口にして笑う上司。同僚のいたたまれない視線。関係ないひそひそ話ですら陰口のように聞こえてきた。そのストレスが暗い気持ちに拍車をかけ、思考がおかしな方向を向いたのであろう。

「それで、次の飲み会では絶対あんなことを起こさないようにしようと、アルコールに慣れることにしたんだ」

「それが、お昼からビールを飲む理由?」

 うなずいた。

 きょとんとした顔の彼女が、おかしそうにふきだした。口もとを手でおさえて、くすくすと笑いだしている。さくらの花びらがゆっくりひらひらと、その頭の上におちた。

 僕はいった。

「たいしたことのない話だったろ」

「そうね。でも、とてもユニークではあった」

 彼女が優しくほほえんだ。

「ひさしぶりに、人間さんとおしゃべりできて楽しかったわ」

「有意義だった?」

「どうだろう。でも、わるくはなかったかな。人間さんの新しい生態系を知ることもできたし」

 苦笑した。

「かなり特殊なケースだと思うけどね」

 微笑をうかべたまま、彼女は色あざやかなさくらの木に目をやり、それから空を見上げた。

「きっと、もう二度と会うことはない。さようなら、人間さん」

 言葉が終わると同時に、突然、強い風がふいて、あたり一面に艶やかに光るピンク色の景色がひろがった。さくらの花びらだ。

 とっさに腕で顔をかばい、花びらをともなったその強風がやんだあと、少女の姿はなくなっていた。

 まるで、はじめからそこにいなかったかのように、姿かたちが消失している。おそるおそる歩を進めて、彼女がいた場所に移動しても、サンダルの足跡すら残っていなかった。

 ずっと半信半疑だった。いや、ほとんど信じていなかった。そういう設定で演じていると思っていた。春になるとおかしな人間が増えてくるという。そのひとりだと思っていた。だが、そうではなかった。彼女の言葉が脳裏によみがえってくる。わたし、さくらの妖精なの・・・・・・。

 どのくらいここでたたずんでいただろうか。いや、たいした時間はたっていないのかもしれない。空の真上では太陽が春の穏やかな光をふりそそいでいる。かぶりをふって歩きだしたとき、手元から小さな音がした。ビニール袋のなかで缶ビールがぶつかったのだ。そこで気づいた。このビールは買ってから、それなりの時間がすぎている。アルコールの味はいまだによくわからないが、ぬるいビールがおいしくないことは知っている。いまここで開けてしまおうか。そう思い、手を伸ばして、やめた。

 たまには、非生産的ではない休日をおくってみてもいいのかもしれない。このまま遠回りをして、満開のさくらを楽しみながら、ゆっくり帰路についてもいいのかもしれない。なぜか軽くなった足どりのまま進むと、やわらかい風がふいて、鼻の頭になにかを感じた。足をとめ、指でつまむと、一枚の花びらがあった。

 あざやかに色づいたさくらの花びら。ふいに、どこか遠くで、それでいてすぐ近くのような不思議な距離感から、くすくすと笑い声が聞こえてきた。

 そんな気がした。

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さくら ヤタ @yatawa

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