第13話 青空はいつか雨雲になる。
人は生まれながらに平等である。なんて幻想だ。
人は生まれながらに平等じゃない。
福沢諭吉曰く、人間は生来平等であり、富める者と貧しき者、賢人と愚人の差は学問によって決まるらしい。
ならば、生まれつき満足に勉強できない者は既に愚人であるのだろうか。
人が十分に学べない環境など、現代において結構沢山存在する。
貧困だったり、虐待だったり。
虐待は受けたことがないから、よくわからない。
物心ついた時から片親だったし、ずっと働きに出ているからそもそも家にあまり帰ってこない。
だから親に対して特に感情を抱いたことはない。強いて言うなら、感謝だ。
雨風を凌げる家があって、毎日食事代を千円程度を置いていってくれるから。
貧しい身はあるが、外国のように暮らせない程なわけじゃない。
普通の暮らしだ。僕にとってはこれが普通。
ご飯も一応食べられるし、服も何とか調達できる。文房具やちょっとした小物だったら。言えば大抵恵んでくれる。
世の中に物が有り余っているから。
現代において物の価値は低い。手段や物を選ばなければ、殆どの物は手に入る。だから安い賃金で雇っても、皆生活できる。なんでも安く手に入るし、場合によっては無料で手に入る。だから労働者の実入りは少なくても困らない。だとしたら企業の利益も少なくていい。むしろ、そうして値段を下げないと誰も買ってくれないから。そしてまた物の価値は下がる。
実に不毛だ。
だから誰かを犠牲にするしかない。
人間は他の生き物を犠牲にして生きている。食べるために。作るために。着るために。
命のやり取りを経ずして、平気な顔でその恩恵を享受している。
人々は仕方がないと言う。ならばその犠牲の対象が同じ人間でも仕方ないであろう。
強き者が弱き者を喰らう。
当然のことだ。弱者は弱者でいること自体が悪いのであって、その責任は弱者にある。
そう。
貧しい家庭に生まれた僕が悪い。
金持ちというのは才能だ。何か特別なものがなければ富なんて築けるはずがない。
その才能は子にも引き継がれる。だから孫子の代までずっと富んでいる。
当然のこと。それが悪事だとしても、その人に成功する権利があったというだけのこと。
僕にはない。
しかも僕はまだマシなほうだ。
たまたま少し勉強ができたから、高校は給付型奨学金で行くことができた。
三年分の学費免除に加え、教科書代や生活費支援も下りたから幸運だった。
今度はそうはいかないだろう。
高校の授業内容は大したことがない。中学の範囲に毛が生えた程度。テキトーに受けていても大体満点近くとれる。
大学受験もその程度なら、難易度としては高が知れている。
でも僕と同じ境遇で、同程度の学力の人間なんて、世に余るほどいるだろう。給付型は競争率が高すぎる。貸付型も返せる見込みがない以上、おそらく下りない。
奨学金なんて申し込むだけ無駄だ。
出願費用や教科書代すら出せない僕は奨学金を借りたところでどうせ行くことができないのだから。
大学で勉強できるクラスメイトが羨ましい。
大多数は勉強なんてしないんだろうけど。
今日も僕の心にはいつも雨が降っている。
「この雨が飲めたらなぁ。」
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