認識の差異(パオリーネ/ヨーナス サイド)

 王城から届いた知らせを父から聞かされたとき、パオリーネは飛び上がらんばかりに喜んだ。待ちに待った吉報だったからである。


「お父様、ありがとうございます!」


「苦労したが、ようやくお前を王太子の婚約者にできた。これで次の世代の我が家の繁栄は約束されたも同然だ!」


 顔に疲労の色を滲ませた笑みを浮かべるグリム侯爵にパオリーネが抱きついた。普段は淑女の態度にうるさい父もこのときばかりは目を細めて喜ぶ。


 それからのパオリーネは上機嫌だった。もちろん態度に表れないときもある。しかし、言葉は以前よりも穏やかになり、相手の失態にも鷹揚になった。


 この変化はすぐ周囲にも現れる。近頃は婚約者の選定で緊張していたパオリーネの友人や配下の子女たちの態度が柔らかくなったのだ。


 週明けに王立学院へ登校したときの周りの変化もパオリーネの機嫌を更によくした。ご機嫌伺いのために挨拶にやって来る者たちが時を経るごとに増えたのである。


「わたくしはまだ王太子様の婚約者になったにすぎません。これから研鑽を積まねばならないと思うと身が引き締まりますわ」


 賞賛の声に愛想よくパオリーネは答えた。最初はただの社交辞令だった挨拶の言葉も、繰り返すうちにそうでなければと思えてくる。


 ひたすら持ち上げられたパオリーネは機嫌がいいまま帰宅した。雑事を済ませて寝室に戻ったときはすっかり夜である。


「先週とはまるで大違いね。まったくの別世界にいるようだわ。そう、これこそがわたくしの求めていた世界。何もかも輝いて見える」


 薄暗い部屋の中、パオリーネは軽やかにきらびやかな椅子まで歩いた。そして、優雅に反転して座ると細工の施された繊細な小机に置いてあるティーセットに手を伸ばす。笑顔でティーカップに温かいお茶を注ぐと口を付けた。


 そうしてパオリーネが一息つくと、少し離れた場所にずんぐりした体型の男の姿が徐々に現れる。


「おめでとう、とまずは伝えるべきかな」


「あらどうしたの?」


「目的を達したのだろう。ならば祝福するものではないか」


「そうね。今は機嫌がいいからその言葉素直に受け取っておきましょう」


 ヨーナスが現れてもパオリーネのお茶を楽しむ態度は変わらなかった。扱いは配下のようである。


 そのヨーナスはわずかにだが体が透けていた。室内は薄暗いのでわかりにくいが、存在感が薄くなっているのが肌で感じられる。現実味がなくなっているのだ。


 ティーカップをわずかに揺らしながら黙るパオリーネにヨーナスが声をかける。


「目的を果たしたのならば報酬をいただこうか」


「ああ、その話があったわね。でも、あなたに報酬を受け取る資格があるのかしら?」


「どういうことだ。儂は契約に従って働いたではないか」


「ええそうね。よく働いてくれたと思うわ。ただし、契約条件を満たせていないわよね?」


「なんだと?」


 いつもは陰気なヨーナスの顔が怒りの色に染まった。


 殺気は膨れ上がり、パオリーネにもそれは届く。しかし、まるで意に介していない。


「以前にもあなたを怒らせたことが一度ありましたわよね。あのときの殺意はなかなかのものでしたわ」


「それがどうした。契約を履行しないというのなら、今ここで八つ裂きにしてくれる」


「どうぞ、やってごらんなさい」


 平然としたパオリーネの言葉を受けてヨーナスが呪詛をつぶやいた。暗いもやがヨーナスの手元に現れてそれがパオリーネへと向かう。決して速くないそれは少し間を置いてパオリーネの近くまで漂った。ところが、あと少しというところで霧散する。


「なんだと!? なぜ消えるのだ!」


「ですから先ほど申し上げたでしょう。あなたに報酬を受け取る資格があるのかしら、と」


「なぜだ、儂は契約は履行したはずだぞ! なのになぜ契約に守られているのだ!」


「単純な話ですわ。あなたは契約を履行できなかった、それだけ」


「解せん。儂の一体どこに瑕疵かしがあったというのだ?」


「わたくしとあなたが交わした契約の言葉をそらんじてみなさい」


「『お前が婚約者になるまでに、王太子に近づく女はすべて排除すること』だったな」


「覚えていてくれて嬉しいわ。それで、実際はどうだったかしら?」


「排除したではないか」


「エイミーの排除は失敗したでしょう?」


「あの娘は婚約者候補ではなかっただろう」


「もう一度契約の言葉を思い出しなさい。『わたくしが婚約者に決定するまで、王太子に近づく女はすべて排除する』ですわよね。確かにエイミーは婚約者候補ではありませんでした。しかし、王太子に近づく女でしたわよね。そして、あなたは排除に失敗した」


「そんな馬鹿な」


「結んだ契約によってわたくしが守られているということは、わたくしの方が正しいということよ。ですから、あなたには報酬を受け取る資格がない。おわかり?」


 優雅な仕草でパオリーネはティーカップをソーサーに置いた。相手に向ける目は勝者のそれだ。


 一方、ヨーナスは視線で殺すと言わんばかりに睨んでいる。握りしめる拳が震えていた。怒りのこもる口調で告げる。


「契約の履行に不備があったことは認めよう。しかし、儂が働いたのも事実ではないか」


「そうね。それでも、報酬の引き渡しは契約の履行時だったでしょう。お互いに契約に縛られている以上、そこは厳格でないと、ねぇ?」


「ううむ」


「ご理解していただけたらお引き取り願えないかしら。わたくしはもう目的を達したのであなたは必要ないわ。契約不履行により解約よ」


「くっ、おのれ」


「そうそう、あなた、エイミーの排除に失敗してから急に陰が薄くなったわね。一体どうしましたの? 先ほども言いましたけど、前と違ってあまり怖くなくなりましてよ?」


「おのれ、言わせておけば。我らに対してそのような不誠実、後悔させてやるぞ」


「そういうことは、契約をきちんと履行してからおっしゃってくださいな」


 左手を振って下がるようにパオリーネが命じると、ヨーナスは悔しそうに睨みながらその姿を消した。


 それを最後まで見届けたパオリーネは快活に笑う。


「事は成り、証拠も握りつぶした。ふふ、終わってみれば完璧じゃない!」


 何も失うことなくすべてを手に入れたパオリーネが一人喜んだ。立ち上がり、薄暗い室内でくるくると舞う。


 その姿は純粋に舞踏を楽しむ少女そのままだった。




 フロイデ王国最大の都市である王都リヒトではあるが、日没後は歓楽街のような例外を除いて静まりかえる。もちろん各家の窓から漏れる明かりがわずかに周囲を照らすが王都の大半は暗い。


 その中でも貴族の居住区である北部区はわずかに明るかった。これは夜に明かりを点けるだけの財力があるからだ。


 このように場所によって明暗がある。しかし、どこであっても空を見上げる者はほとんどいない。もしいても代わり映えしない夜空が見えるだけだろう。


 ただ、この夜に限れば夜空を見上げなかったのは幸運だった。正確には王城近くにある王家所有の格式高い舞踏会場の近辺でだ。


 オースターモーントと呼ばれるこの舞踏会場の屋根の上にゆらゆらと揺れるものがある。それは人の形をしているが頼りなく、かすかに奥が透けて見えた。


 それが眼下を見る。こうこうと光る明かりの下で多くの貴族が往来していた。それをじっと見ている。


「いつの世も人間のすることは大して変わらんな」


 ずんぐりした体型のこれといった特徴のない男の姿をしたそれがつぶやいた。感情のこもっていない平坦な声だ。


 次いで男の姿をしたそれは顔を上げた。ほぼ暗闇が広がるがその先にはグリム侯爵邸がある。先刻までそこの少女と話をしていた。


「まったくもってつまらん。儂に無償奉仕をさせるなど、あってはならん」


 もう一度それは眼下へと顔を向けた。ゆったりとした優雅な音楽が風に乗って耳に入る。たまに楽しげな笑い声が聞こえた。


 更にそれは周囲へと目を移す。どこも暗闇ばかりだ。足下の明かりに慣れると一層暗く感じる。


「確かに契約は履行できなかった。少なくとも契約はそう判断した。しかし、だからといって儂が手ぶらで追い返されて良いわけがない。せめて働いた分は何か手に入れないと沽券に関わる」


 それは徐々に人の形が崩れていった。見た目は徐々に薄れていくが明確に形は変化していることがわかる。


「あの小娘の態度は不誠実だ。働きには誠意を持って応じるべきだ。では、何を手に入れようか?」


 ほとんど見えなくなったそれはもう人の形をしていなかった。しかし、それがどんな形なのかはよくわからない。


「契約があるため直接手を下せない。しかし、儂はあの小娘の秘密を知っている。そうだ、秘密を知っているのだ! ならば、儂好みの破滅をさせてやろう。儂をたばかった報いを与えねば気が済まぬぞ」


 それはついに消えた。

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