あふれる欲望(パオリーネ/ヨーナス サイド)

 フロイデ王国の王都リヒトは大きく五つに区分されている。そのうち王城のお膝元である北部区が貴族の住まう地区だ。王城は最北端にあり、最南端に王立学院がある。


 この地区の北寄りにグリム侯爵家の邸宅はあった。豊かな貴族だけあって敷地も屋敷も広い。壁に使われている石材や磨き抜かれたガラスなどを見てもよくわかる。


 その屋敷の一角にパオリーネの寝室はあった。部屋の調和を乱さない調度品が選ばれている。その一つ一つが貴族の水準からしても充分に高い。


 最低限の明かりしか灯されていない室内は今、妙に張りつめていた。きらびやかな椅子に座ったパオリーネの目の前にはずんぐりとした体型の男が立っている。


「ヨーナス、わたくしはあなたと契約しましたが、精霊としてどの程度なのかまだ知りませんわ」


「力を示せというわけか。よかろう」


 髪も瞳も黒く見えるヨーナスは陰気な声で言葉を返した。その高圧的な態度に怒る気配もない。


 パオリーネのすぐそばには細工の施された繊細な小机がある。その上には黒く変色した革張りの分厚い本があった。本の表紙に右手を乗せつつヨーナスに冷たい視線を向ける。


「まずはベーゼンドルファー侯爵家のザーラを不幸にしてもらいましょう」


「不幸? 何とも曖昧だな。不幸であれば何でもかまわないのか?」


「王太子の婚約者候補になれないくらいであれば。相手にふさわしい不幸を選びなさい」


「なるほどな」


「まずはその一人でお手並みを拝見しますわ。今後のことはその結果を見てから考えます」


 薄暗い寝室でパオリーネは鳶色の瞳を冷たく輝かせた。声から感じ取れるものは負の感情、普段は心の奥底にあるはずのものだ。


 そんな少女を目の前にしてヨーナスは顔色一つ変えずにすぐさま返答する。


「では今一度確認する。あるじの望みは王太子の婚約者になること。儂はそのために主を手助けすればよいのだな」


「『わたくしが婚約者に決定するまで、王太子に近づく女はすべて排除する』ですわ。契約の文言は正確であるべきですわよ」


「ならば報酬の件も正確であるべきだな」


「『契約内容が成就された暁には、現国王夫妻の命を履行者に献上する』ですわね」


「よろしい。もし契約の内容を損なうようなことをした場合は、相応の報いを受けてもらうことになるからな」


「そちらこそ、契約を達成できなければ報酬を得られませんわよ」


 冷え切ったお互いの視線がしばらく交差した。得体の知れない男を自室に引き込んだパオリーネは一歩も引かない。


 やがて無表情だったヨーナスが陰湿に口元をゆがめる。


「それにしても、よく儂を召喚できたな」


「実家で眠っていたこの書物のおかげですわ。トレーネ、という名だそうですわよ」


 小机の上に置かれた黒く変色した革張りの分厚い本にパオリーネの目が向けられた。夏休みに帰省した際、本邸の図書室で何気なく手に取った一冊の古い本である。


「読んでみて驚きましたわ。まさかこの本が異界の精霊を召喚するための魔法書だったなんて。最初はおとぎ話でしかないとばかり思っていましたが」


「普通ならばそこで皆あきらめるものだがな。主はあきらめなかったわけだ。王太子の婚約者になるために。しかしわからんな」


「何がです?」


「見れば主は貴族としてもかなり裕福なようだ。そうであればその富を使って婚約者の座を掴めばよかったのではないか? わざわざ儂に頼らずとも可能であろう」


「もちろん我が父も相応の努力を今もなさっております。しかし、富や爵位だけではどうにもならないこともありましてよ」


「ふむ、人の世はそれほど単純ではないということか」


 右手であごをさするヨーナスが何度かうなずいた。


 未来の国王である王太子の婚約者というのは単に王国の象徴というだけの存在ではない。そこには貴族の栄華や繁栄が直結しているのだ。それだけに争いは熾烈である。


 もちろん国内有数の富をその手に収めているグリム侯爵家は有利だ。勢力は富に比例し、それに応じて敵味方への手段も多く有している。


 しかし、絶対的な立場ではない。なぜなら決定権は王家にあるからだ。だからこそ、婚約者候補は常に不安定なのである。


「春の終わりから婚約者の選定が本格的に始まったと聞いておりますが、その過程は誰も知るよしがありません。耳に入るのは不確実な噂ばかり」


「なるほど、そこで儂か。不安をすべて取り除きたいというわけだ」


「その通り。わたくし以外の有力な婚約者候補がすべて辞退してしまえば、確実に婚約者になれるでしょう?」


「ハハハ! 確かに! 手に取るものが一つしかないのならば、選ばれる側としては安心だな」


「そうでしょう? トレーネの書を読んだところ、今回の目的にもっともふさわしいのが黒き精霊と知り、あなたを召喚したのですわ」


「選んでいただけたのは光栄というものだな。それに、儂としても自らの力を示せるのは嬉しい」


「そうでしょうとも。ですから存分に働きなさい」


「委細承知した。すぐに取りかかろう。先ほど教えられたあの小屋を使えばよいのだな」


「そうよ。あの離れの小屋なら普段は誰も使っていないそうだから好きにしなさい」


「ならばそうしよう。では」


 一度うなずくとヨーナスは陽炎のように姿を消した。


 じっとその様子を見ていたパオリーネは口元をゆがめる。そこから抑えきれない暗い喜びがあふれ出た。肩が小刻みに揺れる。


「これで準備が整いましたわ。後はあのヨーナスにすべてを任せてしまえばいい。わたくしは待っているだけ。それだけで王太子様の婚約者になれる」


 右手を置いていた黒く変色した革張りの分厚い本をパオリーネは優しく撫でた。その表情が穏やかになる。


「なにも待つ身だからといって不安に身を任せる必要などありません。相手がこちらを選ぶように仕向けてしまえばよいのですわ」


 大きく息を吐き出したパオリーネは肩の力を抜いた。もう焦ることはないとつぶやく。


 椅子から立ち上がったパオリーネは上機嫌な様子で自室から去った。




 王都にあるグリム侯爵家の邸宅は広い。領地経営も商売もうまくいっているからだ。遠慮なく財をつぎ込んだこともあって王都有数の邸宅との評判である。


 その広い敷地の一角に他の建物から離れた場所に小屋が建っていた。庭園の造形と植えられた木々の配置の関係上、一見するとそこに小屋があるとは気づけない。


 指定された小屋の前に姿を現したヨーナスは外見を一瞥した。他の建物と比べるとみすぼらしい。しかし、造りはしっかりしているように見える。


「庭園を整備するときに使われると言っていたか」


 平坦な声でヨーナスは独りごちた。年に一度、春先に庭園を大きく手入れするときに使う道具が収められているとパオリーネが説明してくれた小屋である。


 何事かつぶやきながらヨーナスは両手を小屋にかざした。つぶやきが終わると一度建物が歪むように黒く明滅する。


「人払いはこれでよし」


 両手を下ろすとヨーナスは扉に近づいた。目の前の扉には取っ手の下に金具が取り付けられており、鍵を開けて中に入る。


 中は真っ暗だ。しかし、ヨーナスは暗闇の中でも昼と同じように見えるので明かりは必要ない。


「農家の納屋が上等になったくらいか。物が多いのは仕方ないが、床が平らで広いのは良いな」


 壁際に並んだ棚に道具が保管されているのを見たヨーナスは、次いで踏み固められて平らになった地面へと目を向けた。小屋の中央には何も置いてない。


 何もない場所に進んだヨーナスは自らの右手を左手で傷つけた。そして、滴る黒い血で小さい方陣を描く。


「ベーゼンドルファー侯爵家のザーラという娘か。王太子の婚約者候補になれないくらいの不幸とは、さて」


 暗闇の中でヨーナスは笑みを浮かべた。その笑顔は陰惨そのもので周囲の闇よりも深い。


 しばらく考え込んでいたヨーナスは何事かつぶやく。すると、黒い血で描かれた方陣が黒く輝いた。そのつぶやきが終わると一度明滅して輝きを失う。


「これで良し。ククク、久しぶりにこの世に呼び出されたかと思えば、無知な小娘の相手をすることになろうとはな。まぁしかし、今はそれも一興よ。ああ早く見たい、人間が破滅する様を。もがき苦しむその姿を見たい!」


 暗い愉悦に浸るヨーナスが心底楽しそうに低い声で笑っていた。次第にその声が大きくなっていく。


「ああ楽しみだ。今回は何人の人間を破滅させられるだろう。せいぜい楽しませてもらうとしようか、主よ。ククク、ハハハ!」


 徐々にヨーナスの体が薄くなってきた。やがてついにその姿は完全に消えてしまい、笑い声だけが小屋の中に響き渡る。


 しかし、しばらくは聞こえていたその笑い声もしかしついに消える。後にはいつも通りの小屋とその床に描かれた方陣だけが残された。

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