第2章 呪いの噂

口汚い魔剣

 王立学院では勉学に励むヴァルトルーデは学外だと生活のために働いていた。実家は学費を出すので精一杯だったので、王都に移ってからは仕事に追われている。


 この日のヴァルトルーデは講義が終わると、取引先から紹介された中堅貴族の屋敷に夕方から出向いた。一回限りの代役で侍女として令嬢に同伴するという内容だ。


 その仕事もさっき終わった。日が沈んでかなり経ち、路地はかざした手すら見えないほど暗い。こんな人通りすらもないところは男であっても避けるべきだ。


 右手に持った松明たいまつをかざすヴァルトルーデはその明かりを頼りに進む。炎の周りだけがかろうじて視界が開けた。


 左手でおなかをさすりながらヴァルトルーデが口を尖らせる。


「おなかすいた。まさか残り物をもらえないなんて思わなかったなぁ。一時雇いには分けられないって、思い出したら腹が立ってきたわ!」


『だったらぶっ殺したらよかったじゃねーか。そのためのわしだろう?』


 つぶやくヴァルトルーデの頭の中に品のない軽薄な声が響いた。歩いたまま一瞬顔をしかめると憮然とした表情を浮かべる。


「できるわけないでしょ。そんなことしたら私が官憲に捕縛されちゃうじゃない」


『ちぇっ、めんどーだなー』


「そもそも、か弱い乙女になんてことさせようとするのよ。ちょっと前まで剣なんて握ったこともないって忘れてない?」


『でも、わしを使うときは達人みたいに動けるんだから平気だろ? あるじと契約したばっかのときなんて、並み居る盗賊をすぱすぱ殺してたじゃねーか』


「あれは仕方なくよ! しかも次の日なんて全身筋肉痛で動けなかったんだから! ほんと最低!」


『ひひひ、またあーやって景気よく殺そーぜ!』


「絶対にイヤよ! 二度とあなたなんか使わないんだからね、オゥタ」


『冷てーなー』


 一見するとヴァルトルーデは独り言をつぶやいている精神的に危うい人物だった。なので、オゥタと話しているときはいつも人目を避ける。


 西側から王立学院の北側の壁に差しかかった。このまままっすぐ東に進めば大通りだ。


 肩の力を抜いたヴァルトルーデが歩みを早めた直後、オゥタが鋭い声をかけてくる。


『ちょい待った!』


「何よ? 私は早くおうちに帰って夕飯を食べたいんだから」


『この壁の向こうってあるじの通ってる王立学院ってところだよな? そこから強い魔力を感じるぜ』


「魔力?」


 足を止めたヴァルトルーデは王立学院の壁を見上げた。松明で照らせる範囲のみ白塗りの重厚な壁が浮かび上がる。しばらくじっとしていたが変化どころか音も聞こえない。


『あるじー、王立学院って夜に魔法を使うことってあるのか?』


『こんな夜に何かするなんて聞いたことないわ。そもそも、生徒は夕方にはみんな帰っていなくなってるし』


『だったら盗賊みたいなのが忍び込んでんのかなー?』


「可能性はあるけど、ここって王都の北部区よ? 人の出入りに厳しい貴族の居住区で、しかも王立学院で盗むものなんて。待って、その強い魔力ってどの辺りから感じるの?」


『ざっくり言うと結構近いぜ。この壁の向こうなんじゃねぇかなぁ』


「この壁の向こう? 一番近いのは雑木林ね。何もないわよ、あんなところ。もう少し南側には図書館があるけど」


『さっきからずっと強い魔力を感じるぜ。攻撃魔法とかみたいな瞬間的ややつじゃねーな。魔法具でも使ってんのかねぇ』


「雑木林で?」


 もし盗人が忍び込んだのであれば金目のものを狙うことが考えられた。しかし、オゥタは壁の向こうの近くから強い魔力を感じると主張している。


「いくら考えてもわからないわね」


『となると、行くしかねーよなー』


「これ絶対面倒なことになるやつじゃない! そうだ、官憲を呼びましょう!」


『呼びに行ってる間に消えちまってたら空振るぜ。夜中に呼び出された上に何もありませんでしたー、なーんてことになったら怒られるだろーなー』


「うっ。で、でも、変なことに巻き込まれたら嫌じゃない。私か弱い乙女なのよ!?」


『なーに言ってんだよ、そのためのわしじゃねーか! 大立ち回りして気分爽快になろうぜ! 仕事で息が詰まってんだろう? ここで発散しなきゃ』


「そんなお茶するみたいに言わないで!」


『あるじ、声がでけーぞ』


「うっ、ごめんなさい」


『けどよー、行くと面倒なことになるかもしれねーって言うけどよ、放っておいても大丈夫なのか?』


「それは、わからない、けど」


『だったらさ、何があるのか見るだけでもいいんじゃね? 大したことなかったら放っておけばいいし、ヤバかったら官憲に通報すりゃいーだろ』


 正論をぶたれたヴァルトルーデは返答に詰まった。しかし、オゥタの性格と普段の言動のせいで素直に受け入れられない。


 暗い夜道でヴァルトルーデは一人たたずんだ。顔には迷いが浮かんでいる。オゥタは何も言わない。


 やがてため息をついたヴァルトルーデは松明を左手に持ち替えて右腕を軽く振った。すると、禍々しい黒濡れの両刃の長剣が現れる。剣身の中央にうっすらと薄く赤黒い線が見えた。


 まるで闇夜に溶け込むかのような剣を手にしたヴァルトルーデが顔をしかめる。


「妙に手に馴染むのが気持ち悪いのよね、あなた」


「ひひひ、気持ちよく斬ってもらうためにはその方がいいだろ?」


「魔剣オゥタドンナーねぇ。なんであんな廃墟の地下にあったんだか」


「命拾いしたんだからいーじゃねーか。ほら、行こうぜ」


 楽しそうにしゃべるオゥタには答えず、ヴァルトルーデは北西の角から西側の壁に沿って南へと進んだ。その先には西側の壁の中央に裏門がある。


 業者が出入りする裏門は固く閉じられていた。金属で補強された木製の重苦しいその門がそびえている。


 松明を消したヴァルトルーデは人二人分の高さがある裏門を見上げた。そして、石畳の隙間に魔剣の切っ先を差し込んで裏門に立てかけると、柄の上に飛び乗って右足を掛ける。


「あでっ!?」


 オゥタの悲鳴を無視したヴァルトルーデはワンピースの裾を引っかけないように裏門を飛び越えた。魔剣を手にすることで歴代の契約者の経験を再現できるようになったからこそ可能な潜入方法だ。


 王立学院の敷地に着地するとヴァルトルーデは魔剣を一旦消し、再び右手に出現させる。


「あるじ、わしの扱い乱暴すぎねぇ?」


「他に方法がなかったんですから仕方ないでしょ。ほら、黙ってて」


 魔剣の力で暗闇を見通すことができるようになったヴァルトルーデは周囲に顔を巡らせた。人影は見当たらない。左前方に図書館があり、その北側、王立学院の北西部一帯に雑木林が広がっている。


 隠れる場所に困らない雑木林の中をヴァルトルーデは草木の陰から陰へと音もなく進んだ。完全に気配を消している姿は暗殺者のそれである。


 雑木林の中程まで進むと暗闇の中に赤い円筒形の輝きが現れた。その円筒形の底には複雑な模様が描かれている。また、その中には本を右手に持った少女が立っていた。着ている赤いツーピースドレスが背の半ばまである金髪と共に緩やかにたなびいている。


「ありゃ魔方陣じゃねーか。中にいる娘っ子は誰なんだ?」


「パオリーネ様? どうしてこんなことを?」


 怪訝な顔をしたヴァルトルーデの見る先で変化が起きた。パオリーネの正面、魔方陣の外の空間が揺らめくと何かが現れる。


 それは人のように見えた。背は低くずんぐりした体型で特に特徴のない顔の男だ。何も知らなければ平民の中年男としか思えない。


 魔方陣の輝きが明滅する中、パオリーネと空間から出現した男は何かを話している。しかし、ヴァルトルーデの元までその声は届かない。


 やがて魔方陣の輝きは消えた。パオリーネと男は会話が終わると二人一緒に東側にある庭園へと去って行く。


 その様子を呆然と見ていたヴァルトルーデは我に返った。すぐさまオゥタに問いかける。


「あれって召喚魔法よね?」


「あの娘っ子、悪魔と契約しやがったな」


「嘘でしょ!?」


「わしは前に悪魔と戦ったこともあるから気配でわかるんだよ。あいつは隠そうとしていたみたいだけど、わしはごまかされねぇぜ」


「パオリーネ様、悪魔なんかと契約して一体をなさるつもりなのかしら」


「ろくでもないことだってことは確かだろうさ。ひひひ、面白くなってきたじゃねぇか」


「最悪。見なきゃ良かった」


「で、これからどーすんだ? 官憲に通報するか?」


「そうよ、証拠を押さえて連絡すれば、ってあれ? 魔方陣は?」


「かーっ、きれいに消えちまってるな! 魔力の残り香はあるけど、これもすぐ霧散するだろうぜ」


「それじゃどうすれば」


「あるじが頑張るしかなくね? ひひひ」


 右手に収まった禍々しい魔剣が楽しそうに笑った。その声を聞きながらヴァルトルーデは雑木林の中で呆けたまま動けない。


 夜の闇はますます深まるばかりであった。

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