第31話 決戦
私ヨロズは、八尾やんまを愛している。もちろん肉欲的に。
そうなるよう、八尾に教育を施されたのだ。
女中からは毎晩おとぎ話みたいな武勇を聞かされ。彼に憧れるようひがな洗脳されてきた。他の男性とは一切の接触を禁じられ、ひいじいだけが会話の許された唯一だった。
でもまぁ、べつにいい。悪くない。
頭ではどうかしていると分かっている。けれど彼に惹かれてしまう心も本当。マインドコントロールの賜物だよね。
この好意がたとえまがい物だったとしても、私は彼とのお子がほしいのよ。
ただ、生理的嫌悪もちゃんとある。
私は八尾やんまに恋しているくせ、彼に恋するという構造を気持ち悪く思うのだ。
作られた恋。偽りの愛。知っているくせ、喜んで貞操をさしだす売女の姿勢が、心底気色悪い。
汚物と呼ぶべきこの思いは、水をそそいでも臭うだろう。
もし嫌悪を射るができたなら。八尾やんま、彼が死んでも別に良いとさえ思えるほどに。
あるいは情欲にまみれたこの糞を、どうか殺してください。
*
「ひいじいは、いつだって私の嵐。風速百メートルの向かい風で、人生の邪魔をして。摂氏八百度の追い風で、意気地ない背中を焼いてくる。四畳半の部屋だけが、安心できる居場所だったんだ」
険しい森を抜けると、加古川に続く一級河川、いまも美しき美嚢川がみえた。リバーサイドにはうららかな桜並木が立ち。桃色い清流の中州で、彼女はひとり、朝日を浴びていた。伸びきった上下のスエットと白衣、ぼさぼさな髪が朝霧で濡れている。四月の早朝はすこし肌寒かった。
顔につけた能面は、頑なに外そうとしない。
訳を聞くため膝を濡らし、彼岸へ渡る。
「だが颶風の目は、存外に静かだね。めずらしいじゃん、ひいじい。自分から近づいてきてくれるだなんて」
おもえば直接会うのはいつぶりのことだろう。ヨロズの暗部に気づいてからというもの、傷つけてしまうことを避けてきた。抱きしめたときの温度すら掠れた思い出になった。
逃げたんだ。
妻から目をそらし、戦場へ出立したときと同じく。
「可愛い顔を、ひいじいにみせてはくれないか」
「んー。無理かなぁ。私ね、実はけっこう弱いんだぜ」
「知っているよ」
「偽らないと、あなたとまともに話せる気がしない。元気で明るい【ヨロヨロ】じゃないと、ひいじいのひ孫でいられない」
ヨロズは肩書をペルソナと呼んだ。役柄、登場人物という意味を持つそうだ。
「
殺してしまうかもしれない。
「気持ち悪いよね」
「それも知ってる」
「私のこと、なんでも知っているんだね。じゃあさ、次はあなたの話」
言うと彼女はワシの心臓に指を向けた。
「ワシの?」
「そう、戦争の話」
ヨロズの元まで渡りきる。数歩の距離は、能面の厚みは、だが東シナ海よりも広くワシらを隔てていた。
「ひいじい、戦争は好きですか?」
「うん。たまらなく愛している」
「ひいじいにとって、戦争とは何ですか?」
「唯一息の吸える場所」
「日常は苦しいの?」
「平和な世の中じゃあ、心臓が暴れてくれなくてね。酸素が薄くて、血が冷えてしまう」
四肢は壊死し、腐臭を放つ。
テレビをつける。幸せな結婚報道よりも、紛争のほうが朝のよい彩になる。ワシの感性は詰んでいる。
「銃弾が。爆風が。絶叫が。死屍累々だけが、壊れた心の動力なんだ」
「そんな人間、死んだほうがいいよね」
「だね」
戦って死ねたなら望外の喜びだとも。笑顔で地獄へ逝ってみせる。
けれど順当に生物だから、死は恐ろしく、悍ましいものなのです。なんと百年も鼓動に執着してしまった。自決する勇気など、ワシにはこれぽちもない。
だれかの大切は簡単に壊せるというのに。そのくせ己の価値だけは捨てられず。何千人も殺めてきたというのに、乞いする少年のひとりも殺せず。ただのうのうと息をする。
浅はかで。傲慢で。唾棄すべき醜悪がワシという男の正体だ。
「神戸での戦い。私は無知にも飛び込んでしまった」
あの戦場でただ一人、彼女だけがまとに使える定規の持ち主だった。
「すると当たり前に撃たれた」
一。
「切りつけられ」
二。
「拷問もうけた」
三。
「私は戦争を知ってしまった」
四本の指を立てる。
「あれはとても痛いものだった。ただ切実に。だが確実に痛かった。知性。理性。正当性を排除すると──」
三本の指を折る。
「苦痛だけが残った」
残りの一で、再びワシの心臓を刺す。
「ひいじい、あれはダメ。あれは絶望だぜ。どんな理由があろうとも、許されない巨悪なんだ」
数億の屍のうえで嗤うから、極楽焦土で唄うから、ワシは人でなく鬼と呼ばれた。
君は戦争を悪という。間違っちゃいない。ただそこでしか咲けない花があっただけだ。
生態が違う。価値観も違う。
分かり合うことは永劫ないし、許しを請う資格もない。だってワシは、その苦痛こそを愛しているのだから。
裁かれることすら罪と言えよう。
「あんなものを肯定してしまったら、生きている意味がなくなる。ひいじい、戦争に意味なんてないんだ。あなたの人生に意義なんてない。お前は生まれてこないほうがよかったんだぜ」
ヨロズの言葉が深く胸に突き刺さる。
『戦争があったからこそ、今の平和がある。鬼の生涯には少なからず意味があった』
ハリボテの信仰心を抉り、突きつけてくる。
『戦争』なんてものがあるから、『平和』という言葉を作らなければいけなくなった。
お前なんていなければよかった。
──生まれてこなければよかった。
「ならせめて」
ヨロズ。
どうか君の手で、ワシに意義を与えてくれ。
ワシの死が、君の意味になるのなら。
喜んで差し出すから。
だが彼女は、矮小な懇願すら拒絶する。
「ひいじい、あえてキツく言いました。ここまで言われて、まだ戦争が好きですか?」
「好きで、好きで、愛しています。そんな自分が、たまらなく嫌になる」
耳を塞いでも聞こえてくるのだ。
断末魔が。銃声が。砲弾の炸裂が。
するとだんだん、頭ん中が蕩けてくる。
キモいよね。
「いっい。じゃあ意地悪な質問をするね。ひいじいは私と戦争、どっちが大切?」
その言葉は祝福に思えた。
考えるまでもなかったからだ。
「君です」
「もしも第三次世界大戦が起きたとして。それでもあなたは、私を選んでくれるというの?」
「当り前じゃないか」
「なぜそこまで、私を愛してくれるの?」
「君があの子の、たったひとりの娘だからだよ」
「そう、それだよ」
──その言葉が気に食わないんだ。
ヨロズ。
君の感情はよく知っています。
引き金を握る時、役に立つんだ。
殺意と言うらしい。
「好きで好きで大好きな戦争よりも大きな愛を、あなたは私に向けてくれる。その理由が、顔も知らない誰かのガキだから? ふざけるな……」
静かな叫びは、赤く鬱血し、銃声よりも大きく聞こえた。
「ふざけるな!」
天を衝く怒りをうけてか、空がゴロり、落雷する。
「愛している男に、海よりも深い愛を向けられました。嬉しい。超嬉しい! どうにかなってしまいそうな恋心。けれど家族だから、気持ちの悪い劣情は締め殺さなければいけないよね。縛って、縫って、殴って、閉じ込めて。閉じこもって。私、どうにか人間してたんだぜ」
今にも決壊する雷雲が、春をポタポタと散らす。
「その愛、実は私のんじゃなくて、ママのもの? は? え? どれだけ傷つけたら気が済むの? 死ね。死ねよ。死んじゃえ。お前なんて、大嫌いだ!」
ワシが見ていたのは、ヨロズではなく、母親の面影だった。
告白がいかに少女の心を傷つけたのか。到底わからない。わかろうともしない。ワシは鬼で、人の心など持たないから。すらも言い訳で──。
「ひ孫だから……」
だから戦争よりも大きな丈で、君を愛せた。
たとえ血がつながっていなくても。君はたった一人だけの、ワシの家族だ。愛したママの子供が君だから、ひ孫だから。例え君がどんな人間だとしても。ママと同じくらい愛しています。
でもそれって、いたって普通のことじゃない?
異端者だけが実体を知っている。
普通という価値観は、誰かを傷つけることで成り立っている。
「……万をみてよ。……私を見てよ。女として、私だけを愛してよ」
ヨロズの言葉は嘘偽りのない、剝き出しの本心だった。
遠雷が響いた。雨風が冷たい。彼女の涙もろとも流され、まもなく氾濫する。
嵐が来る。
「ワシは生まれてこないほうがよかったのかもしれないね」
「なにをいまさら……」
「それでもヨロズ、生まれてきてくれて、本当にありがとう」
「……」
そしてごめん。君の気持には応えられない。
戦争とヨロズに順位をつけられても。君とママは無理みたい。
同じなんだ。二人が同じくらい大切なように、君の子供も、君の子孫も、きっと同じく、ワシは愛してしまうんだ。先祖の幸ですら、大好きなんだぜ。
思惑や真相がどうであれ。君たちは穢れたこのワシに、微笑みかけてくれたよね。嬉しかった。嬉しかった。
でも、君たちにはある。
「ひいじいの愛は重すぎるよ。とてもじゃないけれど、一人じゃ受け止めきれないね。どうにもならないくらい、あなたのことが好きだから。あなたは生きているだけで、私の人生の枷になる」
ワシがいる限り、君は自分で部屋から出ることも、仮面を外すこともできない。
そして君は人一倍好奇心が旺盛だから、そんな人生に価値を見出せない。
「赤色がみたいの。
やっと言えたね。偉いね。
「私、実はやればできる子なんだ」
うん。ちゃんと知っている。
「この命はヨロズ、君のためにある。ためらう必要はない。いつだって許されていたんだぜ。捨てるのも、殺すのも。君の自由意思はすべてにおいて尊重されるのだから」
拳銃を取り出す。かつて少年に手渡され、ついに撃つことのできなかった拳銃だ。
「引き金を握れ。狙う必要はない。おびえなくていい、ただ責任だけを果たせ」
額に銃口をあてる。ぐっと力をこめる。決して弾丸がそれないように。
頭蓋を割り、脳漿をかき混ぜ、せいぜい肉を穿つといい。命を殺せる距離に君はいるんだ。あとは選択をするだけだ。
彼女はトリガに指をかける。嬉しくて、笑みがこぼれる。
それでこそヨロズだ。彼女は自身の好奇を疑わない。
「私、ひどいやつだよね」
「うん」
「わがままで、最低だよね」
「そうだね」
「嫌い。私は世界で一番、私が嫌い」
「大丈夫。世界で一番、ワシが君を愛している」
銃身を通して、彼女の震えが伝わってくる。
雨脚が強まり。川の流れが激しくなる。
「ひいじい、私を殺して。たぶん、そっちのほうが正解だよ」
「ワシは過ちのなかで自分を見つけました。せっかく生まれてきたんだから、間違ってもいいんじゃない?」
「うぅ、死ぬのも、殺すのも、怖いよ」
「でも、このまま生きていくことのほうが、よほど怖いはずだ」
生は有限的で、死は無限的なもの。どちらがいいのかは知らない。ただどちらも、そう悲観的ではない。
生きることを恐るるな、死の誘惑に惚れこむな。たとえそれが過ちだとしても。悲しみだとしても。
「ワシはただ、笑ってほしい」
ワシの物語なんて、ビリビリに破いてしまえばいい。
あとに残った心音だけを、大切にすればいい。
「大丈夫かい?」
「うん、もう迷わない」
能面をとる。泣きはらした笑顔が、たまらなく愛おしい。
あれ? おもったよりもヨロズ、君は両親に似ていないんだね。
もっとちゃんと、見ておいたらよかったな。
「大好き」
「奇遇だね、ワシもだよ」
雷光が爆ぜた。
稲妻が脳天を衝いた。
光。熱。
パッと、赤い華が咲いた。
戦場でしか咲けない、醜い、けれど鮮やかな、一輪の徒花だ。
そのまま流れてしまえ。
全部流れて、ヨロズの人生に、何も残すな。
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