防波堤のすぐそばまでやって来た時、その上から人が降りて来た。
私はその人に挨拶しようとして、止める。
その人は、笑っていた。
波打ち際にいた人と同じ顔だった。
にっこりと笑っていて、とても嬉しそうな人。
私は母に手を引かれるがまま、その人の横を通り過ぎようとした。
だけど。
___「見たね?」
笑った人が、私の耳もとにそう言った。
引き立ったほどに持ち上がった口を開かずに。
糸のような目を動かさずに。
だけど、確かにそう言った。
「見てないよ」
だから、私はそう答えた。
母は見てはいけないと言ったから。
だから、見てないよと答えた。
途端に、母の表情が変わる。
その目は見開かれ、顔は真っ青になった。
手は細かく震え出し、私の体を強引に持ち上げた。
「お母さん?お母さん?」
どうして母が焦り出したか分からなくて、私は彼女に問いかけた。
「早く帰ろう」
母は私の体を抱き抱えて、走り出した。
足場は悪く、私も既に随分と大きくなった。
まともに走れる状況じゃないことは明確だ。
それでも、母は錯乱するように走っていた。
つまづきながら、嗚咽しながら走った。
「大丈夫大丈夫大丈夫」
唱えるように呟きながら。
___母は見ちゃいけないと言った。
だから、私は見えたものを母に伝えなかった。
海の方から、笑った人が追いかけて来ていることを。
その数は私の両手じゃ数えきれないほどになっていたことを。
笑った唇の先がどんどん上に上がっていって、すごく嬉しそうだったことを。
もう母の背中のすぐ後ろに、その人が触れそうなことも。
「あ」
触れた。
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